16話 欠席
朝の教室に余鈴が響いた。大悟は隣の隣の席に視線を移動させた。彼の視線に気が付いているはずの、隣の席の近藤洋子は知らぬ顔。そして、席は空っぽだ。
手元のスマホを確認、送ったメッセージへの返信もなし。
ついに担任が姿を現した。朝のホームルームで春香が風邪で欠席だと告げられる。風邪という言葉に、大悟はびくっとした。湯冷めという言葉が脳裏をよぎる。春香はあの時、裸で彼と話していた。それなりに長い時間。
ざわつく教室だが、担任は念のために休むだけだということを付け加えたことで収まった。
(おかしい……)
大悟は首を傾げた。彼が春香にラボを出た後のことを伝えたのは昨夜。春香の導き出したORZL-Dの情報重心と、宇宙背景放射の振動に相関があるという内容だ。
今回の事件はもとより、ORZL理論にとっても重大なのだ。
春香なら間違いなく食いつくはずの話だ。念のため休む程度の風邪で彼女を止めることなどできるはずがない。春香が仮病で学校を休んでラボでシミュレーションを走らせている、といわれた方がまだ説得力がある。
「近藤さん。何か知ってる?」
一時間目が終わるや、大悟は洋子を廊下に呼び出して尋ねた。
「風邪、でしょ……」
「近藤さんが心配してないのがおかしい」
「…………九ヶ谷は落ち着くまで、かかわらない方がいいと思う」
「つまり、僕にも関係してるってことだ」
「九ヶ谷は何も言われてないでしょ」
「誰から?」
「……佳枝さ、春香のお母さん」
大悟の脳裏にラタンに来た和服美人がよみがえった。あれ以来一度も話していない。
「春香。先週末のお泊りに男子、つまり九ヶ谷も参加すること話してなかったみたいなの。そして、それがばれた」
「えっと、それ自体が初耳だけど。その、ばれようがない話じゃない?」
「……何というかあの子が合宿場所の近くで見張ってたみたいなの。それで、九ヶ谷と春香が朝マンションからできてたのを見つけて……」
前にちょっとだけ話した妹の同級生が、パパラッチまがいのことをしたらしい。
「……芸能人のスキャンダルかよ」
大悟はあの時のシャッター音を思い出した。車の中で張っていたらしい。お金持ちのお嬢様らしいが、付き合わされた運転手に同情しそうになる。
洋子は自分のスマホを大悟に見せた。そこには朝の道路を春香と一緒に歩く大悟の姿がとられていた。春香が大悟の知識を借りたことが気に食わないといった後あたりだ。
あの時の春香は大悟に勝ったことに浮かれていただけ。だが、遠目から写真で見ると一夜を共にした男女が、夜明けのコーヒーを買いに来たみたいに見えなくもない。
コンビニに買いに行く夜明けのコーヒーは何か違うと思うが、彼と春香が一夜を共にしたのは事実だ。もちろん、彼らは一睡もしていないのであって、それは別にやましい理由ではない。
それでも、娘の親なら心配はするだろう。
「それこそ、まず僕が責められそうな案件じゃないの?」
「九ヶ谷は何も知らなかったでしょ」
「そうだけど」
「私も聞かれてそういった。だから、佳枝さんは大悟を責めない。そこらへんはちゃんとした人だから。ちなみに盗撮したあの子はこっぴどく叱られた。そのうち謝りに来るんじゃない?」
なるほど、確かにそういわれるとそういう感じはする。ちなみに謝罪はいらない。
「要するに、悪いのは黙っていた春香って話になってるの。だから九ヶ谷はなんというか、刺激しない方がいい。……その、何もなかったことは私もちゃんと説明してるし。もちろん、浴室で何があったのかは知らないけど」
洋子が言った。大悟はしぶしぶ頷いた。ただ、一つ気になることがある。
「これから春日さんの方はどうなるんだ?」
「……多分学校にはすぐに戻れると思うけど。今回のことが向こうの、さららさんと絡むってわかっちゃったから……」
「ちょっと待って、つまり春日さんが科学をやること自体に影響するってことか!?」
大悟のメッセージに返事できないのは、親に科学のことを止められたから。大悟の中の春香はそんなことで止まるような娘ではないと思う。
だけど同時に、彼女はずっと自分の将来の進路について一番親しい友人にも話していなかった。
「とにかく、春香が学校に来たら聞けばいいんじゃ」
洋子はそういうと逃げるように席に戻った。
翌日、春香はちゃんと登校してきた。大悟は少しだけ躊躇した後立ち上がって、教室の入り口をくぐった春香の前に立った。
「おはよう、春日さん」
「おはよう。九ヶ谷君」
春香は普通に大悟の挨拶に応えた。ただし、浮かんでいるのは余所行きの笑顔。まるで、一学期の初めにもどったようなそんな錯覚がした。半年前にもどっただけであり、むしろそれが自然にもかかわらず、自分が強い違和感を覚えることに大悟は少し驚いた。
「えっと、話しても大丈夫なのかな」
「九ヶ谷君は心配しないで。あのよ……あのことは私に問題があるんだから。ごめんなさい。巻き込んじゃって」
春香は「あの夜」と言いかけた気がする。そして、それを踏みとどまった。いつもの春香ならうっかり口に出して、彼を窮地に陥れるところではないか。
「いや、僕の方に別に何もないからいいんだけど。それよりも……」
大悟は話題に迷った。といっても、彼と春香の間の話題など一つしかない。
「それで、メッセージのことなんだけど、ORZL-Dと宇宙背景放射の……」
春香はピクリと震えた。その瞳が一瞬だけ光を帯びた。だが……。
「今はその話は……」
春香は彼から目をそらした。そして、心配するクラスメイトに挨拶しながら、自分の席に向かった。
「ねえ、春香。風邪はもういいの?」
「うん、念のためだから」
代わりに洋子が春香に話しかける。春香は洋子との会話には普通に応じている。
大悟は事態が思ったより深刻であることを悟らざるを得ない。彼はともかく、春香が科学を無視するなどあり得ない。
もし、彼女がこうやっているうちに新しく生じた問題を彼が解いてしまったらどうするつもりなのだ。もちろん、それこそあり得ないのだが。
「春日さん。今日はラボには……」
「えっと、今日は用事があって、早く帰らないといけないの」
放課後、大悟は春香に話しかけた。そして断られた。周囲の視線が何か悪いものを見たように、さっとそらされた。まるで、デートに誘って断られたみたいだ。
「そ、そう。じゃあ僕はいくことにする。……この前の話の続きが気になるからね」
大悟はあえて挑発的なことを言った。春香の手がぎゅっと握られた。
「……さららさんによろしく伝えて」
だが、春香はそう言うと振り返りもせず教室を出た。
「そっか、ハルは来ないんだ」
ラボについて春香の欠席のことを告げた大悟。もどってきたのは、気のないさららの返事だった。
「さららさんの方から呼ぶとかは……」
「どうして?ハルがハルの用事で来れないんでしょ。ハルにはここに来るよりも大事なことがある。そういうことでしょ」
「いや、そうじゃないと思うんですけど。春日さんは多分来たくても」
どう考えても春香はメッセージに反応していた。ORZLと宇宙背景放射の関係について本当はすごく気になっているに決まっているのだ。
「じゃあ来ればいい」
「……さららさんも春日さんの手助けがないと困るんじゃ」
「困るね。ダイゴとアヤはシミュレーションは扱えないし。ルーシアも実際の情報経路の解析に集中してもらわないと困る。まだ、平面コンピューティングの実際の回路のことは見えてないんだから」
「じゃあ……」
「それでも、決めるのはハルでしょ」
「いやいや、彼女は未成年で保護者の意向には……」
「ハルがその気になれば、何とでもなるでしょ」
堂々巡りだった。春香の能力を認めても、さららはいつもの不干渉主義だ。
「なあ、どうすればいいと思う?」
「さあ」
「綾までそれかよ」
「大悟が春日さんに夜明けのコーヒー状態にしたんでしょ」
「いやいや、その時綾も同じ部屋にいただろ」
「私寝てたしね」
綾は尖った目で大悟を見た。
「でも、春日さんは起きた。春日さんは一度見たんだよ。自分の見たかった世界を。でしょ」
「そうだと思う。だからこそ――」
「そのうえで、それが最優先じゃない。それはそれじゃない」
「いや、だからこそもったいないじゃないか。ほら、鉄は熱いうちに打てって」
「そう思うなら。大悟が何とかすればいい」
「出来たらしてるんだけど。まさか、僕に春日さんのお母さんを説得しろとでも」
大悟は穏やかながら厳しそうな女性を思い浮かべた。無理だ。
「さあ、それも一つの解決方法かもね」
だが、綾はそう言ってルーシアの方に行ってしまった。
2018年12月20日:
来週の投稿は木曜日です。




