15話 情報の先の先
人間を含んだ地球規模の一つの脳、神の知性。大悟たちの前に現れたGMsの人工知能の正体と推測されたものは、非現実的なまでに巨大だった。
「人類社会を下位エージェントとして組み込んだネットワーク知性……」
当の春香自身が自分の仮説の結果がもたらした衝撃を吸収しきれていないようだ。
今回、大悟は何もできなかった、それは極めて妥当なことだ。そこに悔しさはないはずだ。一方、彼の目は目の前に示された地球儀に突き刺さる。その背後に、父の姿を見ようとするように。
地球規模の一つの頭脳。それは馬鹿馬鹿しいほど壮大。すべてが情報というこれまで彼に突き付けられた来た“物理学”と合致する。そして、そのありえなさだけなら彼の父にふさわしいプロジェクトだ。だが……。
(なんかしっくりこない)
彼がどれだけ目の前の情報を見ても、その背後に父の顔が浮かんでこなかった。
(なにか空白がある、のか?)
春香の結論に異を唱えるつもりはない。そして、彼に父が莫大な時間をかけて作り上げようとしているものが理解できないのは自然なことだ。
目の前のそれは、ある意味小学生だった息子を捨てて父が選んだもの。自分は子供じみた嫉妬を覚えているのではないか……。
「えっと、春日さんの答えは正解ってことでいいんですよね」
自分の気持ちを振り払うように、大悟はさららに聞いた。
「そうだね。少なくとも今のところは、私だってこれ以上の何かは見えない。そうだ、どうハル。新しい一歩を踏み出した気分は?」
「あっ、えっと、その思いついたときはすごく、ぱっと開けたっていうか、いきなり別の世界に連れてこられたというか……」
春香はしどろもどろになってしまう。確かに、あの時の彼女の様子は尋常ではなかった。何しろ大悟は素っ裸の春香に浴室の壁一つ隔てた状況で質問攻めにされたのだから。
あの時、春香は確かに空白を見つけ、それを形作ったのだ。そうなのだと思う。そのこと自体は良いことだ。間違いなく。
「でも、その神様の脳を使って向こうは何をしようとしてるんですか? 例えば、世界中の金融の支配。全く新しい新薬の開発。何でもできるんですよね」
その疑問を口に出したのは綾だった。綾の言葉に、大悟ははっとした。確かに、人工知能というのは道具だ。神の知性だのなんだの言っても、それを作り出したのは人間。そこには目的があるはずなのだ。
「神のみぞ知る、かな。ただ一つ言えることは、まずはその脳自体の維持が目的の一つだということ。つまり、自己の維持だね」
地球規模の情報の流れを使って作られる情報重心、そしてそこに吸い込まれる情報。それ自体がこの神の脳のために必要なものだ。
「つまり、この神の脳自体が、地球全体に依存してるってことですか?」
「そう。私たちの活動が止まればこの脳はすべての感覚を遮断された状態。それどころか自ら何かをしようという内在的な意思すら失う可能性が高い。でも、同時にこの脳は人類の活動に干渉もしうる」
「情報を吸い取られたテクノロジー企業の対策を退けたようにだね」
ルーシアが言った。今回、情報を吸い取られていることに気が付いた世界規模のテクノロジー企業は共同で、政府組織まで巻き込んでそれに対抗しようとした。だが、それは退けられたのだ。
「フィードバックのループだね」
ルーシアの言葉にさららも春香もうなずいた。それではますますわからない。文字通りループしているのだ。それが、彼が感じた違和感だろうか。それが、先ほど彼に垣間見えた空白だろうか……。
「この神の頭脳がより進化したら、自律的な何かを創発させる可能性はあると思います」
春香が言った。創発。それは、1+1が2以上になる。氷、つまり秩序と水、つまり無秩序の間の狭い領域に存在する生命的な何かの特徴。そして、それらすべてがゲームであり、情報。
(あれ? 今、何かかすったような……)
「ただ、一つ問題があるよね。ハルの理論だとORZL―Aが取り込んだ情報の行き先は説明できるけど。ORZL―Dの中で生まれたその何かがどうやって保持されているのか、それが説明できない」
大悟が己のそばを通り過ぎようとした空白に生えた毛をつかみかけた時、さららが自分の数式と、春香のシミュレーション結果を総合した。そこには2万Kという数字が出た。
「これだけの密度の情報処理が一点に集中している。つまり、超低エントロピー。莫大な珍しさの集中」
さららの言葉に春香もうなずいた。珍しさの集中、珍しい状態というのは情報の基準であると同時に、エネルギーの基準だったはずだ。それが、集中しているということは要するに、大量の高密度のエネルギーがORZL-Dに存在しているということ。
「もし解放されたら、それこそ都市一つ吹き飛ばしてもおかしくないだけのエネルギー。それが、安定的に保持されている」
「エネルギーが安定的に保持?」
ルーシアが尋ねた。
「そう。たとえば山の上に大きな石があるとする。それは、大量の重力のエネルギーを持っている。転がり落ちたら、家一つくらい簡単に破壊できるくらい。でも、その場でちゃんと保持されてる限り、そのエネルギーを周囲に示すものはない」
厳密には重力子を放出してるけど、とさららは言った。春香もうなずく。
「それは私も気になっていました。エネルギーがORZL、つまり余剰次元の中に閉じ込められていると仮定するしかなくて。えっと、いわば原子核の中に強い力の大量のエネルギーが閉じ込められているようにですね。でも、それが全く未知の形式ということになるから、そう物理学の第五の力みたいなのを仮定するしかないけど、それに対応する……」
「対称性がわからない。だね。既存の物理学には存在しない形式のエネルギーということになるかな」
「はい」
知性の問題がここにきて再度物理学に返還される。それが、彼の疑問なのだろうか。いや違うはずだ。それは分かる。今のはそもそも理解の外にある。ちょっと前まで、物質が大量の原子力エネルギーだということすら、ちゃんと理解していなかったのだ。
「まあ、それでも今のところ、それで進めるしかないかな。私にも、これ以上の仮説は思いつかないもの。じゃあ、ハルとルーシアさん。それに綾も、このモデルのより厳密な構築と、それに基づいた観測に協力――」
「すいません。さららさん」
春香のスマホが震えた。春香は画面を見て一瞬顔をしかめた後、部屋の隅に移動して電話に出る。
「……お母さん。あの、今忙しくて後でかけなおすから……。えっ、う、うんあのお泊りは洋子と一緒に……えっ、あの……九ヶ谷君は……どうして……写真?」
春香はスマホの画面を見た。そして大悟にも分かるほど青ざめた。
「で、でも、えっと同じ場所には洋子も、私たちは…………あの、彼は悪くなくて…………はい」
結局春香は母親からの呼び出しということで地下室を出て行った。
「いいとこだったのに」
さららがドアの向こうに消えた春香を惜しむようなことを言った。そして、ルーシアと綾と一緒に、新しいモデルの構築を始めた。
「あの、僕は?」
「んっ? ダイゴはハルの仮説が間違ってないか適当に考えてみて、得意でしょ。ハルをいじめるの」
「無茶苦茶だ……」
要するに、大悟にはやることがないということだ。いっそ、春香の後を追って、事情を聴こうかと思った時だった。
ガチャ
ドアが開いた。春香が戻ってきたのかと思ったが、入ってきたのは上の階の住人。重力の専門家である物理学者柏木だった。
「さらら君。前の宇宙背景放射の問題についてなんだがね……。実はその歪みの中心が東京近郊の……」
そこまで言って老教授の口が開いたまま止まった。彼の目がスクリーンに映し出された地球儀にくぎ付けになった。
老教授の目をとらえているのは春香のORZL―Dを作り出している情報重心だった。
2018年12月13日:
来週の投稿は木曜日です。




