13話 すりガラスの向こう側
「ねえ大悟。浴室で何をしたの?」
洗面所から戻ってきた綾が、冷たい目で僕を見た。
「何の話だ。ぼ、僕はシャワーだけですぐに出たぞ」
「じゃあ何? 春日さんは大悟と一緒にお風呂に入りたいってわけ」
「……何の話だ⁉」
大悟は恐る恐る脱衣所のドアを開けた。まるでFPSプレーヤーのように、なるべく顔を出さずに中をうかがう。
脱衣所には誰もいない。
「お、お邪魔します」
自分でも意味不明の挨拶をしながら、大悟は中に入った。洗面所の鏡に、浴室のすりガラスが見える。そのすりガラスの背後で、何かが動いた。
「……九ヶ谷君?」
「ごめんなさい」
反射的に謝った大悟をだれが責められよう。ちなみに、ぼやけた肌色はその形状からして腕だと思う。
「よく聞こえないわ。もうちょっと近くにきて。早くしないと、消えちゃう」
「な、何が?」
大悟はゆっくりと浴槽のドアの横の壁に近づいた。そして、壁に背中を付けた。
「さっきの矛盾を解消できる仮説、アイデア」
「ORZLの? それだったらその、お風呂を上がってから」
理由は分かった。確かに大悟もゲームのことを考えた後、ふろでのんびりしているときに突如答えが降ってくることはある。だからってこれはないと思うが。
「それじゃ消えちゃう。今からする私の質問に答えて」
「りょ、了解。そ、それで僕なんかに何を?」
切羽詰まった春香の声に、大悟は仕方なく答えた。すりガラスの向こうの腕が、取っ手に延びんばかりだったのだ。
「さっき私たちがしてたゲーム。格闘ゲームのことについて教えて」
「……」
それはすっぽんぽんで、近くに男子を置いてする話だろうか。大悟が思わずそう突っ込もうとした時、つま先が何かにあたった。
それは脱衣籠。そこには丁寧にたたまれた春香の白い上着があった。
「まず、そのゲームの設計をするときに、ゲームを作る人はどういう風に考えるのか。その基本を教えてほしいの」
真っ蒼になった大悟もしらず、春香は質問を続ける。
「う、うん。えっと基本的にはそのフレームっていうのがあって、それが処理の単位なんだ。そのフレーム一つごとに、えっと処理のフローチャートみたいなのがあって……」
大悟はゆっくりとつま先を引くと、春香の質問に答える。
「つまり、60分の1秒がこの世界の時間の単位。1ドットが空間の単位ね。それで?」
「えっと、その中でプレイヤーのコントローラーからの入力を……」
「例のじゃんけんのアルゴリズムね。でもほかにも……」
「あ、ああ。後は飛び道具判定とか、えっとそう基本的な勝敗……」
さっきせっかく洗い流した汗が、大悟の額を流れる。
「だいぶ見えてきたわ。今のをテレポートする粒子のスピンの方向に当てはめて考えれば……。へくちゅ」
春香が小さくくしゃみをした。
「か、春日さん。そろそろ……」
大悟がそう言ったとき、さっきまですりガラスの向こうで動いていた、肌色がすっと奥に消えた。
「……春日さん」
「う、うん。えっとね。続きはそのお風呂を出てからの方がいいかなって」
どうやら今のくしゃみで、なにか決定的なことに気がついたらしい。
最初からそう言ってる。そういいたかった大悟だが、とりあえずこの危険地帯から離れることを優先する。だが、その一瞬の油断がいけなかったのだ。
カタッ……パサッ。
大悟の足が脱衣かごをひっかけた。中身が床に広がる。大悟は慌ててそれに手を伸ばそうとして……、
「何の音?」
「ごめんなさい」
脱兎のごとく脱衣所から逃げ出した。
しばらくしてから、湯上りの赤い頬としっとりと湿った髪の毛の春香が、脱衣所から出てきた。そして、大悟の顔を見ると、その赤い頬をふっとそむけた。
「……一応信じているから」
「はい」
大悟がひっくり返した脱衣籠のことだ。散らばった衣服の中の小さな布のことは、見なかったことにするしかない。
「それで、結局何だったの?」
ゲームに興じているルーシアと洋子を背中に、綾が聞いてきた。
「思いついたの。情報テレポーテーションを使った仮説」
気を取り直した春香が、自分のノートパソコンに向かった。
「いいかしら、ものすごく単純化して説明するわ」
春香はコンピュータ画面に即席のシミュレーションを提示する。
■▢▢ ▢■■
▢■■ → ■▢▢
■▢▢ ▢■■
「この2つのゲームの盤面は、一見全く違っているように見えるけど、実際は同じものよね」
大悟は左右の図形を見比べる。確かにそれはただの裏返しだ。
「これは格闘ゲームの、攻撃側と防御側の関係なの。そして、この2つの盤面はそれぞれセルオートマトンとして計算されるとする。セルオートマトンのルールは格闘ゲームのルール。ゲームエンジンね。そして、ここからが大事なんだけど。その2つの間の連絡は、情報テレポーテーションでつながれる」
「なるほど。わかった。つまり、一見全く違ったORZLだけど情報テレポーテーションを使った伝達を完全に再現できる系があるってことね」
ルーシアが言った。春香が頷く。
「ええ、私が想定しているのはこういう形」
春香が画面に出したのは、小さな丸と大きな丸だ。それぞれ表面に模様があるが、まったく違う。
「これを横から見るの……」
春香は画面を回転される。それはちょうど、上下を逆さに並べた洋ナシのような形だった。
「私たちが情報重心という切り口で見ていたのは、こっちの大きな円。でも、どこかにこの小さな円があるはず」
「これに基づいてGMsの本体を特定するわ。ルーシアさんと綾は手伝って」
春香は湿ってほつれた髪の毛を耳にかけると、言った。いろいろトラブルはあったが、どうやら合宿の甲斐はあったようだ。
プログラミングに疲れ果てて眠ったルーシア。地球上の情報重心のチェックをした綾。その横にゲームにつかれた洋子。ちなみに遊んでいたというよりも、春香の疑問に対して実演で助けていたのだ。
春香だけが憑かれたような目でシミュレーションをしている。
「九ヶ谷君も休んでいいわよ」
「いや、何というか、目がさえて眠れないんだ。えっと、何か欲しいものとかない。もう明るくなってるし、外に買い出しに行こうと思うんだけど」
「そう。…………じゃあ、一緒におりましょう。この計算、少し時間かかるから」
春香が言った。二人は目をこするルーシアに断り、そしてアイスクリームの希望を聞いた後で、マンションの入り口を出た。
「えっと、さっきはごめん。でも、本当に見て……触れたりしてないから。かごに足が引っかかっただけで」
「信じてあげるわ。散らばり具合が物理法則通りだったから」
「いや、それ信じてないよね……」
まばらに車が行きかう道路の横を、大悟と春香は歩く。コンビニはすぐ近くだ。
「今回は春日さんの完勝になるかな」
「ええ自信あるわ。ちょっと悔しいのは九ヶ谷君の知識を使ってることね」
「それなら、これまでの僕はどうなるわけ」
「そういえばそうね。なるほど、今までと反対か。これが九ヶ谷君の感覚なのかな?」
春香は気持ちよさそうに笑った。その時、大悟の耳がかすかな音をとらえた。大悟は後ろを向く。
「どうしたの?」
「いや、今なんかシャッターみたいな音が……」
背後にはとまった車しかない。大悟は首をひねった後、春香と一緒にコンビニに向かった。
ルーシアの希望の商品が日本にないものだと知るのはその後だった、どうやら寝ぼけていたらしい。
2018/11/29:
来週の投稿は木曜日の予定です。




