10話 合宿Ⅱ
秋の夜風を感じながら、大悟は街を見下ろした。始めたのは夕方だったのに、気がつけば宵の頃だ。駅を中心とした夜景。道を行き来する光が流れている。
「少しらしくなかったな」
「んっ…………まあね」
マンションのベランダで大悟は綾に声をかた。綾は曖昧に応じた。部屋の中では「これくらいはしてあげる」と洋子がお茶の用意をしている。
「私としたことが本題からそれるとは」
空いた方の手で自分の頭をコンコンと叩いた。大悟は無言で見守る。
「…………私ってどっちかと言えば現実的な方じゃない?」
「”どっちか”と”方”を取った方が良いな」
「さっきの話も今更っていえば今更じゃない。これまでさんざん聞かされてきたっていうか」
「まあ、そうだな。宇宙のルールが折り紙の形で決まるとか、全てが情報だとかネットワークだとかな」
大悟としてはむしろ前回の生命のゲームの相転移の方が衝撃だった。
「私としてはそれでもいいって思ってたんだよ。別に世界がどういうふうに出来てたって、私は私」
「ああ、前もそんなことを言ってたな」
綾らしい考え方だと思うし、彼女は実際その信念の元に行動していると思う。
「ちなみに、大悟は他にも何かあると思ってるんだよね」
「”何か”だけどな」
彼にとってそれは空白だ。空白がある。そうとしか言い様がない感覚。そして今自分が感じている空白が、父なのか、春香との議論の答えなのか、それとも今回の事件? の深層なのか全く曖昧だ。
それがおかしいとは思わない、そもそも彼の能力を超えているのだ。
「見えない人間にはそもそも”何か”があるのも分からないんだけど……。ま、今更か」
綾はそう言うと夜風に髪を揺らして笑った。
「私は別にあってもなくても良いと思ってた。でも、さっきはちょっと恐くなったってわけ。ま、ちょっとだけだけどね」
綾はそう言って両手を前に伸ばした。彼女の手の間に光に彩られた世界が見える。
なるほど、春香が空白などないで、大悟が小さくても何か空白がある、としたら綾は空白があろうとなかろうといい、なのだ。
「というわけで、大悟の空白に期待。ちょっとだけだけどね」
「それ、ちょっとだけでもキツいぞ。春日さんに勝てって言ってるんだからな」
大悟がそういったとき、綾はきびすを返していた。
「さて、春日さん自慢の高級菓子でも食べますか」
「……おい、聞けよ」
大悟は綾の後に続こうとして足を止めた。道路らしき場所を走る車のライト。ビルの窓の光。それらはまるでそれしかないように主張する。だけど……。
空白と暗闇は似ているのだろうか、その闇を照らしたらそれは空白ではなくなるのだろうか。それとも……。
春香の土産は多彩な果物を上品に散らしたゼリーだった。皿の上で震えるそれにスプーンを入れながら、いよいよ問題の春香とルーシアの対立点である。
「GMsの情報重心が吸い取った情報は平面コンピューティングを使った深層学習で超高速処理される。そう仮定したとして、問題は処理された情報の行き先なの」
ルーシアが言った。春香も頷いた。
「情報が保存される以上、それが虚空に消え去ることはあり得ない」
「吸い取ったは良いけど、捨てちゃった場合は?」
綾が質問した。どうやらすっかり気を取り直したらしい。
「その場合は熱が発生する。平面コンピューティングの処理効率、つまり燃費がシリコン半導体よりも何桁も上としても、処理の方もあまりに膨大。外から分かるくらいの変化が起こる」
ルーシアが言うと春香が、各地の気温データを表示した。地球温暖化云々を監視する各地のデータらしい。情報重心の中心部の通過前後で全く変動がないのが解る。
「物理的云々はともかく、向こうにとってそれじゃ意味がないよね」
綾が言った。大量の情報を処理して何らかの答え、それが人類を支配する人工知能プログラムのパーツだとする、だがそれは消えている。
「その問題を解決できる物理現象があって、それが情報テレポーテーション」
春香が言った。
「テレポーテーションって、あの一瞬で別の場所に移動するってアレ?」
例によって温度だのなんだという普通っぽい話が、突然SFになる。話している女の子の表情を見ても、何の変化もないから、彼女の中では一連のことなのだ。なお悪い。
「そう。そのテレポーテーション。情報がある場所からある場所に瞬時に、それこそ光の速さも超えて移動する現象を指す物理用語。この場合、いかなるエネルギーも必要としない」
つまり、処理された情報が痕跡もなく別の場所に送られているから、情報が失われたように見えると言うことだ。
春香の説明では、全く同じ場所から生じた二つの粒子、それが例えば光子でも電子でも、どれだけ距離が離れたとしてもペアなのだという。ペアはスピン、つまりその自転方向が時計回りか反時計回りか、が必ず対応している。だが、スピンは観察するまでは時計回りと反時計回りの両方なのだ。
「……一つの粒子が時計回りと反時計回りの両方に回転してる?」
「そう、回転だとイメージしにくいけど、コインの表裏で言えば空中の回転中の表でも裏でもあるコインの方がわかりやすいでしょう」
量子コンピュータの時の話だ。微かにしか覚えていないが。
「行ってみれば二つの双子粒子は『0』という情報を一つ、『1』という情報を一つ持っているの。で、観察されるまでは両方とも0と1を0.5個ずつという感じ。でも観察すると、つまり片方の回転するコインを手の平で叩いて表か裏か確定すると、片方が0か1に決まる」
「う、うん」
「すると、双子のもう片方は当然1か0に決まらないと数学上おかしいでしょ」
「おかしいと言えば、おかしいね」
大悟は脳を引き攣らせながらなんとか付いていく。
「つまり、双子の粒子がどれだけ離れていても、片方が観察されると、もう片方も自動的に確定するの。一瞬でね」
「最初から確定していたってこと?」
「違うわ。この二つの粒子は実は回転する一つの粒子を上下の両方から見ていた、に近いかしら」
回転する粒子を上下から見る。回転している内はどちらから見ても裏と表の半々だ。だが、仮に片方、上としよう、から叩いてコインが倒れる、つまり表裏が確定する。上から見たら表だとしたら、下から見たら裏だ。
「これは宇宙の情報が結局平面というのと関わってると思ってるけど、今重要なのは、距離が離れていてもこの0と1が一瞬で、何のエネルギーも使わず決まること。情報というのは原理的には二つの状態、例えば0か1か曖昧な状態が、どちらかに決まることでしょ」
大悟は必死で思い出す。あの海戦ゲームでもある場所に艦艇があるかないか、分からない状態からあるか、ないかが決まる、だった。
「ちょっとややこしいんだけど、この現象を使って0と1を遠方に、一瞬で、エネルギーも使わずに送ることが出来る。これが情報テレポーテーションなの」
「情報テレポーテーションっていうのがあること自体はルーシアさんも同意するの?」
「Yes」
綾の質問にルーシアは答えた。これは対立点ではないらしい。
「普通に考えたら、その行き先を見つければ良いって事だよね?」
大悟は言った。
「テレポーテーションだけで情報を送ることは物理的に不可能だから」
春香は今まで大悟が苦労して理解しようとした情報を、ひっくり返すようなことを言った。
「二つ問題があるの。一つは、ORZL理論上の問題。Lczは情報重心、地球規模の情報ネットワークの結果として生じるでしょ。ネットワーク自体は繋がってるから、許される形はネットワークの中の一つに決まる。それなら、情報を吸い取り処理する情報重心も、その処理の結果を受け取る情報重心も、同じ形になる」
春香が言った。つまり、情報を吸い取っている別の隠れた情報重心があれば、それは春香達が監視している情報を吸い取っている情報重心と同じ物だから、そもそも見つかっていると言う話。
「もう一つは暗号表の問題。これはルーシアさんが説明した方が良いと思う」
「OK そうだね1001111 1001011。さて私は今なんと言ったでしょう」
「いや、分からないけど」
「そう、DAIGO達には私が発した0と1の並びは伝わったけど、その意味は分からない。これは、情報を復号する暗号表がないから。ちなみに、いまのはOKってアルファベットの並びをビットのコードにした物。情報テレポートを使うと通信、つまり0と1の羅列は一瞬で送れても……」
ルーシアは文字コードの表を画面に映し出した。
「それを解釈する情報は普通の方法、つまり最高速度が光速に制限される方法でしか送れないと言うこと」
つまり、スマホで地球の反対側の人間に一瞬で送った暗号が、エアメールで数日後に届く暗号表がなければ意味がわからないと言うことらしい。
「解釈できないっていうのは、実質的に情報が伝わってないのと同じって事か」
大悟は納得いかない感覚をなんとか言葉にした。この場合のポイントは物理学的にそうだという話だ。人間関係なら良くあることだし、逆にエネルギーの浪費になるからきっと何か違うのだ。
「そういうこと。だから、結局情報は光速を越えて伝わらないし、情報を伝えるにはエネルギーが必要」
なるほど。頭がおかしくなりそうなくらいややこしいが、それは矛盾と言うしかない。
(これが今回の事件の空白か…………。うん、こりゃ今度こそ本当に無理だな)
大悟は我関せずとゲームをしている洋子を見た。幸いコントローラーは二つある。
2018/11/04:
10話の区切りと言うことで、来週は投稿を休ませていただきたいと思います。
次の投稿は11月15日木曜日の予定です。その次の投稿についてはその時にまたお知らせします。
それではよろしくお願いします。




