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複雑系彼女のゲーム  作者: のらふくろう
第三部『ゲーム』

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9話:後半 合宿Ⅰ

「私が担当しているのはHARUKAが計算で選択したLcz環境がどれだけ人工知能アルゴリズムを加速させることが出来るかのシミュレーション」


 ルーシアは春香を見ながら説明を始める。


対立点コンフリクトは置いておいて。まず、深層学習のアーキテクチャーの概要から。大丈夫、そんなに難しくないから」


 ルーシアはウィンクしながらそう言うが、当然大悟は全く安心できない。


「今回の場合、作り出す人工知能のテーマについては意味がない。あくまで出来上がるまでの速度が重要。だから、定番の写真の中から特定の存在を認識する深層学習をサンプルとして用いる。つまり……」


 途端に画面上に大量の画像が現れた。


「ネコの写真だね」


 白、黒、三毛、斑といった様々な色。歩いているネコ、餌を食べているネコ、あくびをしているネコ、ソファーの上で眠っているネコ。とにかくネコの画像が群れをなす。ネコのゲシュタルト崩壊が起こりそうだ。ゲーム中の洋子まで横の画面をガン見している。


「なんでネコ……ってごめん気にしないで」


 洋子が口にしたのはこの場の半分の人間の疑問だった。


「重要なのはサンプルの数。世界中に大量のネコの写真が存在する、それが理由かな。深層学習は文字通り学習だから、教材は多い方がいいってわけね」


 ルーシアが答えると、画面に回路図を出す。回路は規則だたしいノードラインで作られた菱形のパターンに見えるが、よく見るとラインの横に添えられた数字が違う。


「大量のサンプルを用いることで、コンピュータ上の疑似神経回路、ニューラルネットワークにネコという存在を教育する。深層学習を簡単に説明するとこういうことになる。簡単に言えばBabyが視覚情報からネコを学ぶのと同じ」


 深層学習はあるアルゴリズム、つまり情報処理の方法を回路として自動的に作り出す方法。この場合は写真の中のネコを抜き出すということだ。そして、それはニューラルネットワークという技術を基盤にした回路で、要するに脳のシミュレーションらしい。


 写真を見たら分るように、様々なネコがいろいろな状況にある。更に、映っているのはネコだけではない。屋内の写真なら家具、道路なら車や道を歩く人も映っている。


 それらの写真をインプットとしてランダムに繋がった回路に読み込ませ、ネコの認識できる回路が生成されるのを待つ。


「コンピュータにネコって概念を学ばせるってこと?」


 綾が言った。


「そう考えて良いね」

「最初はランダムな回路なんだよね。仮に同じ写真を使って何回か同じ事をやったら、同じ回路が出来るの?」


 大悟も質問した。


「出来ない。例えば私もDAIGOもネコを認識できるでしょ。もしこの写真の中で、ネコを丸で囲めと言われれば、私たち二人は同じ場所に印を付ける。でも、それを可能にしている私たちの脳内の神経回路はそれぞれ違うでしょ。それと同じ」


 ルーシアの答えに大悟は一応納得した。なるほど、ゲームなんかのコンピュータプログラムのイメージとは全く違う。もちろん、彼の知識の範囲内だ。ゲームでも人工知能は活用されているらしいからだ。例えば一人プレイ用の対戦プログラムとか。


 今洋子の相手をしていて、こてんぱんにやられているところを見ると、人類を越えるのはまだ難しそうだが。


「基本的な概念の説明は終わり。次は――」

「一つ疑問なんだけど」


 綾が彼女にしては珍しく真面目な顔で手を上げた。


「このアルゴリズムが認識してるのって”人間が撮影したネコ”だよね」


 大悟は画面を再び見た。確かに、どの写真もいかにも栄えそうだ。


「Good Question 実は入力するサンプルは既に偏っている」

「出来たアルゴリズムがちゃんとネコを認識してるって判断するのは?」

「それも人間」

「じゃあ仮に、監視カメラなんかに偶然映った画像だけをサンプル? にして深層学習というのをさせたら?」


 綾は矢継ぎ早に質問する。


「より一般的な意味での、つまり生物学的に正しいネコを認識できるようになる可能性はあるわ」


 春香が言った。


「逆に、人間が意識して撮影したネコを認識するアルゴリズムとしては劣っている物が出来る可能性があるね。方法としては何かを認識するタイプの学習もあるけど……」


 ルーシアが言った。


「結局人間ありきか……」


 つまり、インプットされる情報もアウトプットされたアルゴリズムも、あくまで人間にとってということだ。そして、その間にある回路はブラックボックス。どうしてネコが認識できているのかは分からないし、二度と同じ物は出来ない。


「深層学習は確かに私たちの脳を摸している。そしてアルゴリズムは自立的、自動的に構築される。そこら辺が従来のプログラムとは違うところ。ただ、深層学習自体にいわゆる動機はないの。これは汎用知性を目指す場合の大きな問題になる。実際、HIDETO KUGAYAもそれを問題にしてる」


 ルーシアが画面を切り替えた。始まったのは前に見た動画だ。彼の父が自分の理論を説明している。彼女がバーをクリックすると、人間の脳を縦割にしたような模式図が表示された動画の場面が表れた。



ー脳の全ての領域は神経細胞による回路、つまりネットワークであることは確かだ。だが、現状で深層学習が実質的に摸しているのは、一番外側の大脳に限定されていると言わざるを得ない。いわゆる脳幹、本能の座、爬虫類の脳に関しては……ー


 画面上の父は話す。つまり、動物の脳は究極的には生きる為にあるいは子孫を残す為という、脳を持たない生物にも存在する動機に従って動いている。そして、機械にそれはないと言うことだ。


ーいわば、意志なき知能であるー


 大悟の父はそう言って次のスライドに移る。


「…………一応、納得は出来る話だね」


 少し考えて綾が言った。大悟も頷いた。最後の言い方など実に彼のイメージする父のものだ。ちなみに、横で洋子が息子よりもイケメンとか失礼なことを言っている。


「私も深層学習の現時点での問題を的確に捉えた表現だと思う」


 ルーシアが言った。


「同意しても良いけど、今はGMsが深層学習をどう活用しようとしているかに話を絞った方が良いと思うわ」


 春香が口を挟んだ。「そうだね」とルーシアが動画を止めた。大悟はふと隣の綾を見た、今のはどちらかと言えば司会の役割だ。


「とにかく、ある情報処理をする回路が……。えっと、今の例だとネコの画像を大量に読み込ませているから、ネコを認識する人工知能が出来てる。じゃあ、GMsのやってることは……」


 大悟は少し空恐ろしい気持ちで尋ねた。綾がはっと顔を上げた。


「人間が発信する情報は、それが会話であれ写真であれ、あるいは株価であれ。全て外界からのインプットを脳内の回路で処理した結果。だから、そう言った全ての情報を全て集めて構築される深層学習は……人間の知的活動そのものを認識するアルゴリズムってことになる」


 ルーシアの答えは予想された物だった。それなのに恐い。


「視覚はともかく、身体的感覚がないじゃない」


 即座に否定して見せたのが綾だった。綾が指差した写真は、飼い主らしい外国人が、ネコの喉を撫でている。大悟は大場の話を思い出した。


「Good Question でも……」


 ルーシアが洋子を見た。


「こういったゲームでぼこぼこにされても自分が痛いわけじゃない。痛覚センサーからの入力なしに、戦っている感覚を脳内でシミュレーションすることは脳には可能なの。もちろん、それは肉体感覚を制御する回路を使ってるんだけど、視覚情報と脳だけで成立しうるってことね」

「ミラーニューロンね」


 春香が言った。鏡がどうしたのかは知らないが、人間も他者の感覚を脳内だけで想像する。それは所詮回路だという意味だろう。確かに、他人が怪我をするのを見るだけで、自分が痛いと錯覚することはある。


 「でも……」と言いかけて綾が黙った。そう言えば、綾が相手の説明を遮るような質問の仕方をするのはおかしい。


「話がずれたね。限定的でも人間と同じ事をしてるなら、逆にコンピュータの利点は?」


 綾が司会としての役目に戻った。


「ハードウェア、つまり回路のノードやラインの性能。人間の神経回路の電気信号に比べてコンピュータは数万倍の速度で動作する。単純に言えば人間が一枚の写真を認識する間に、人工知能は数万枚を読めると言うこと」


 ルーシアが言った。仮に同等でも回路の基本スペックで勝てないと言うことだ。


「でも、入力はともかく処理できるの。写真はともかく、一冊の本を読むのと一万冊の本を読むのは違うでしょ」

「知識間の相互作用を考えると、一万冊の本の情報量は、一冊の一万倍を遙かに超える。当然処理しきれない。だからこそ、平面コンピュータ。一次元的なコンピュータに擬似的に平面を計算させるんじゃなくて、平面をそのまま扱える。この仮定を置くことによって……、今言った数万倍どころか、その更に数桁上の処理を実行できる可能性がある」


 ルーシアは言った。それが世界のテクノロジー企業に圧勝して見せたGMsの力、いや知能というわけだ。そして、それが春香の仮説である。今のところ、大悟の聞く限りではおかしな所はない。


 綾はじっとルーシアと春香を見た。綾が何に引っかかっているのか、大悟には分かる。だが、彼には同時に春香とルーシアが今の説明を本気で信じていることも分かるのだ。


 いつの間にか洋子もゲームを止めてこちらを見ている。画面がオペレーターの短髪の女子アナウンサーのようなキャラに切り替わっている。


「……基本は押さえたね。じゃあ次は二人の対立点」


 大悟がハラハラする中、綾は今度は冷静に司会進行役を果たした。だが、大悟は手を上げた。


「ちょっと糖分を補給したいんだけど……」


 電源から常時エネルギーを供給されているわけではないのが人間の脳である。

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