7話:後半 ゲーム勝負
「となると、将棋の王を取る前にっていうのは……。ああ、そういう意味ね」
「……あの、春日さん?」
思索に沈む女の子に大悟はついて行けない。自分が全く理解していないことについて勝手に納得されても困るのだ。
「【ゲーム項】というのは相対論の宇宙項みたいな物なの」
春香は大悟の戸惑いにも気がつかず、説明を続ける。相対論というのはアインシュタインの相対性理論らしい。大悟でも名前くらいは知っている偉人だ。
「……ごめんなさい。全く意味が分かりません」
そして、それが春香の説明を聞いて解った全てだった。
「…………論外ね」
春香はため息をついた。
「数式について本当に基本的なことすら解っていないのね。九ヶ谷のレベルに合わせて説明すると、数学というのは一種の……」
春香は大悟の対面に座るとカバンから自分のノートを取り出した。それを広げると、髪の毛を掻き上げてペンを走らせ始める。シャンプーの香りが大悟に届いた。
以前夢見た春香に数学を教えてもらっているという夢のシチュエーションだ。残念ながら一番肝心の部分で夢が覚めているが。
しかも、彼女のノートに書かれているのは高校生が数学と認識しそうにないものだが。
ただ、空白に新しく書き加えた一行は比較的シンプルだった。
「例えば、買物を表す数式はこうなる」
Ps*K*T=Pp
「ピ、ピーエス……??」
大悟は首をひねった。
「Pはお金を意味する。プライスと思って。沿えたこの字のsはセル。つまり売値ということ」
ゲーム機の名前かと思った大悟は慌てて頷いた。ゲーム理論と言う言葉を聞かされた後にPsなんて出てきたら紛らわしいではないか。
「Kが個数。Tが消費税」
「ああ、なるほど……」
言われてみればなんと言うこともなかった。要するに値段に個数を掛けて消費税を掛けるだけ。
「Pが値段としても、例えば基軸通貨であるドルに変換するならPには円/ドルレートが組み込まれる。例えば……
P=Y*1/100
……と置くとかね。こうしても、値段と量を掛け合わせるというこの式の本質は変らない」
「なるほど……。単に計算の順番とかじゃなくて、項目に意味があるんだね……」
「実際に【ゲーム項】もギリシャ文字一つ一つに意味があるし、文字が一つに見えても、この通貨のレートみたいに中には別の項が入っていたりもする。でも、今問題にしているのは、さららさんのORZL方程式の一つの構成要素が【ゲーム項】だということ。その意味はさっき言ったようにネットワークの幾何学的…………」
春香はそこで大悟を見て再度ため息をついた。確かに、大悟には話の続きは聞かなくても解る。解らないということがだが。
「九ヶ谷君のレベルに合せるには、確かに最適かもね」
「えっ、何の話?」
「自分で言ったことも覚えていないの。「将棋の王を取る前に勝敗を決める方法」。実際にやってみれば良いわ。九ヶ谷君はゲームには詳しいのよね、この場合は”遊戯”の意味よ」
「多少は……」
春香の言葉に大悟は渋々頷いた。
「一対一で対戦できるゲームを選んで。将棋でも良いけど私ルールを知らないから。なるべく単純で、短時間で終わるのが良いわ」
春香はスマホを手に取った。これで出来るものと言うことだろう。将棋と一緒と言うことは恐らくだが、運の要素が強い物は避けた方が良さそうだ。大悟は一つのゲームの名前を挙げた。春香はスマホでルールを検索した。
「問題なさそうね。では、明日の放課後にまたここで」
「え、明日?」
てっきり、今から始めると思った大悟は虚を突かれた。
「ちゃんと説明するには私が計算を把握しておかないとけないから」
そう言うと春香は出ていった。残された大悟は狐につままれたような表情で彼女を見送った。
◇◇
翌日の放課後の図書館、大悟と春香は互いにスマホを構えていた。テーブルの上には春香に言われて購買で買ってきた五個入りのチョコレートがある。ちなみに春香も同じチョコレートを買ってきている。
「どのアプリを入れれば良いの。沢山出てきた」
春香が眉根を寄せて言った。スマホのアプリショップにはゲームアプリのリストが並んでいる。スマートフォンには詳しそうだったのに、やはりゲームには不慣れらしい。
しかし、昨日はルールを把握すると言っていたが……。
「えっと、どれもルールは同じはずだから……。一番上で良いんじゃない。基本プレイは無料みたいだから」
「どれでも一緒ならなんでこんなに数かあるのかしら。一番上ね」
大悟もアプリをインストールする。教えてもらったSNSのIDで対戦相手を選択する。
大悟が提案したゲームはいわゆる艦船ゲームだ。それぞれがマスの中に戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦を配置して、マスの番号を指定して攻撃し合あう、全滅させた方が勝ちという単純なルールだ。
大悟は父に教えられた将棋の影響で、シミュレーションゲームにはかなり詳しい自負がある。一方春香は女の子だ。ゲームなどほとんどやったことがなさそうだし、ガチな海戦ゲームは大人げない。
ただ、このモードの春香には馬鹿にされっぱなしだ。少しだけやり返しても罰は当たるまい。
「…………」
数分後、大悟は図書館という環境に配慮して音声を消していたことを心から感謝していた。
「どう言うことかしら。こんなルール聞いてないけど」
「い、いや、ゲームとは違う部分の話だし」
春香の厳しい瞳が彼を差す。彼のスマホには服が破れて半裸状態になった女の子のキャラクターが表示されている。艦隊を指揮する提督だ。攻撃を受ける度に、肌色の面積が拡大していく。
麻雀をしようとして脱衣麻雀のアプリを選んだような状況だ。春香の方はかすり傷程度なのが救いだった。
「ゲームを選んだのは九ヶ谷君よ」
それから更に十分が経過した。
「…………絵はともかくとして。これじゃ説明にならないわ」
春香が三つめのため息をついた。ゲームは大悟の三連続の完敗である。春香はこちらの配置が解っているのではないかというくらい的確に彼を追い詰めては撃破していく。
「少し手加減するしかないわね。説明の趣旨から外れるからしたくないけど」
春香が言った。大悟は屈辱の中接待プレイを受ける。
「ここまでね」
数分後春香が言った。
「えっ、そりゃこっちの不利だけど。まだ可能性は……」
手加減されても彼は劣勢だった。それでも、盤面はまだ投了とまでは行かない。
「【ゲーム項】というよりもゲーム理論がどうしてあの将棋の例えになるかを説明するためにやってるのよ。王を取るまでやったら説明にならないでしょ」
「あ、ああ、そうだった」
「裸にされる女の子に意識が集中してたのかしら」
「いや、そんな余裕なかったよ。えっと、それで?」
「停戦交渉をしましょう。今私達の間にチョコレートが10個ある。これが今回のゲームの賞品。私がそのうちの九個、九ヶ谷君が一個で手を打つわ」
春香が言った。
「どういうこと?」
「ここで停戦する代わりに賞品であるチョコレートの九割が私、一割が九ヶ谷君の物ということにしましょうって提案。同意するかどうか?」
なるほど、このままやれば大悟の負けだ。そうなるとチョコレートは全て春香の物。それに比べれば、一つだけでも残るのはマシな結果と言うことだろう。だが……。
「ちょっと応じれないな。九個は吹っ掛けすぎだよ」
「そうかしら。じゃあ、九ヶ谷君の提案は?」
春香は表情を動かさずに尋ねてきた。大悟は考える。
「勝負が付く前に引き分けるんだから五個と五個」
大悟は敢てそう言った。春香はニコリと笑う。
「論外ね。ゲームを続けましょう」
「まった、えっとじゃあ僕が3個で春日さんが7個は……」
流石にこの状況でも勝機が一割と言うことはないはずだ。
「8:2なら受け入れる」
春香はやはり顔色も変えずに再提案してきた。
「……解った。それでいい」
大悟が了承すると、春香がスマホを下ろした。どうやら説明が始まるらしい。これこそが本題だ、ゲームはそのための手段。大悟はそう自分を慰め、春香の説明に意識を集中する。
「いい、この勝負は私と九ヶ谷君が得るチョコレートの合計は10個と決まっている。これは変わらない、つまりゼロサムゲームだということ。そして、戦いが始まる前は5対5。数学的に言えば0.5対0.5。勝敗が決すれば10対0。数学の言葉で言えば1:0。ここまでは良い?」
大悟は頷く。
「じゃあ、現在の状況。勝敗が確定していないこの状況をどう数値化するか。それが今やったことの意味。私たちが今決めた今のチョコの比率。つまり、私が0.8、貴方が0.2というのがこの盤面を数値で評価したということ」
春香が言った。何となく分かる。実際の戦争でも相手を皆殺しにするまで続くことは少ない。将棋が王を取るまでやるのは、あくまでゲームだからだ。
「ものすごく簡単に、小学生に説明するとすれば。これがゲーム理論の計算なの。ゼロサムゲームをそのあらゆる局面で評価するための数学の体系。こんな遊技としてのゲームだけでなく適応範囲はとても広い。相手とのやり取りが生じる全ての相互作用が対象になる。司法取引、核戦争、貿易協定。その状況に合わせてあるべき報酬、あるいはリスクの配分を計算する」
「なるほど。だから将棋の王を取る前に勝負を決める方法か……」
「人間関係みたいなノイズだらけの非合理的でつまらない関係でも、こうやってゲーム理論に載せれば数学として計算できる、そういうことね」
「その表現はともかく、これがゲームの理論……」
春香の言い方には不穏な物を感じた。だが、一方で彼は感動していた。何しろ五年越しで父の言葉が理解できたのだ。ゲームの研究をしているという父の言葉は、二重の意味で本当だったのだ。
全て数字と言わんばかりの春香の言葉に少し引っかかるが。今は、別のことを言うべきだと思った。
「ありがとう春日さん。やっと理解できたよ」
「えっ、あ、うん」
大悟の言葉に春香はちょっと驚いたような顔になる。
「ゲーム理論と言っても、今のは本当にさわりのさわりだけよ。まあ、理解できたのは結構なことだわ」
春香はそう言うと手早くスマートフォンを仕舞うと立ち上がった。大悟は彼女の後ろ姿を見送った。
長机の上には10個のチョコレートが残っていた。
「あれ、これじゃ0、10で春日さんの負けじゃないのか」
大悟は苦笑した。ビニールに包まれたチョコレートを見ながら少し考える。そして、綾にメッセージを送った。彼女の情報が必要だった。
◇◇
翌日、一学期の終業式である木曜日。大悟は朝、春香に紙袋を差し出した。
「これは、何のつもり?」
春香は警戒心を全開にして袋を見た。そんな勘違いした男子を見るような顔で見られても困る。
前日のアレが春香と放課後二人きりで遊んだ、などというギャルゲーのようなイベントではないことは認識している。
「昨日の勝負の賞品。僕の負けだったじゃない」
「チョコレートは単に説明のために……。まあ良いわ。確かにそういうルールだから。でも、大きさが違うわね」
「いや、実はあのチョコレートは食べちゃって。別に、おかしな品じゃないから。ほら、ちゃんとお店で売ってるやつ」
綺麗にラップされたクッキーは母に頼んで作ってもらった特注品だが、一応商品ではある。
「いつも一緒にいる友達と一緒にどうぞ」
そう言うと、大悟は春香に袋を押し付けた。
◇◇
「わあ、美味しい。中身マンゴスチンだよね」
隣の席で黄色い声が上がる。ここ数日元気がなかった子が嬉しそうにクッキーを食べている。彼女が春香を誘おうとした店のキャンペーンを綾に調べてもらうと、マンゴスチンのケーキのフェアだったことが解った。彼女がその果物の話をしている記憶もあった。
それに合わせて母に作ってもらったものだ。ケーキに対してクッキーならイヤミでもないだろう。
「私がこれ好きだって覚えててくれたんだ」
友人に言われて春香はちょっと考える。一瞬だけ、大悟の方に視線が向いた。
「この前、私の都合で断っちゃったから。埋め合わせにならないけど」
「そんな、元々私がお礼にって話だったんだから」
春香の友人はそう言いながら笑顔でクッキーを頬張った。
◇◇
放課後、一学期最後の図書館に大悟は居た。勿論一人だけだ。
スマホが震えてメッセージを受信を伝える。春香からだった。確かにゲームのためにIDを交換したが、まさかメッセージが来るとは。
大悟は少しだけ緊張してそれを開いた。
「……まあ、そんなところだろうと思ったよ」
内容は、先核研の見学が決まったという内容だ。先週の土曜日、突然の電話で講義を切り上げたさららは出ていく前に「ついでだから先核研の見学を取り付けてくるね」と言っていたのだ。
日時は夏休み初日の午後。明日である。綾にも伝えて欲しいということだった。大悟は了解の返事をした。
(夏休みの貴重な一日だけど……。結局、人間同士の交渉とか勝負を計算する数学が、宇宙論と関わるのかさっぱりだったし、仕方ないよな)




