4話 宇宙のBGM
「…………」「…………」
春香と並んで夕方の道を歩きながら、大悟はぐるぐるの頭を整理しようと必死だった。氷と水の間に、知性あるいは生命の層が隠れているなど、誰が想像しよう。しかも、それは温度順に、つまり全く物理的な要因によって並んでいるというのだ。
「流石の九ヶ谷君も全てが情報処理だって結論に同意してくれるかしら。九ヶ谷君が何かがあると感じたスモールワールドは秩序や無秩序と一緒に、温度という物理量によって位置付けられるのだから」
沈黙を嫌うように春香が言った。そう、それは今考えていたこと。
「い、色々と衝撃的な話だったのは確かだよ。でも……」
大悟は自分の頭の中の、先ほど詰め込まれた深淵で一杯一杯、を探る。圧迫されて消えそうな脳のメモリーの中に、まだ空白があることを見つけた。
「まだかな。ほ、ほら、さららさんもそれだけじゃないって言ってたじゃないか。温度はあくまでスモールワールドが存在可能なことを意味するって。えっと、なんだっけ例えば地球に生命が誕生したのだって、太陽からの距離が丁度良いからだよね。それこそ液体の水がある温度とか」
「ハビタブルゾーンね」
「多分それ。でも同じ条件にある惑星に必ず生命が誕生するとは限らないでしょ」
「それはそうだけど」
「温度の他に必要な物って何なの?」
「私はそれが幻以外の何かとは思えないから、説明できない」
「そうなの。じゃあ、やっぱり結論は保留だね」
大悟は言った。半ば苦し紛れだったが、空白が残っているのは事実だ。
「そう、それじゃしかたがないわね」
追求が続くかと思ったら、春香はあっさりと矛を収めた。大悟は思わず春香を見た。彼女の横顔には、何故かちょっとホッとしたような表情が浮かんでいる。そして、再びの沈黙のなか、二人は歩みを進める。
「それに、ほら。そう簡単に納得するわけにはいかないじゃない。何しろ、この論争に勝ったら春日さんのこと好きに出来ちゃうわけだしさ」
次に沈黙を嫌ったのは大悟だった。
「そ、そこまでは言ってないわよ。ただ、努力しても良いってこと」
春香がびくっと身体を震わせた。
「…………」「…………」
さっきまでと微妙に温度の違う沈黙が、二人を覆う。たった二つのノードと一つのリンクだけでも、なかなかどうして温度調節が難しい。彼の父の方程式ならこういう問題も解けるのだろうか。
隣の女の子は恐らくそういう意見だ。なら、彼の意見は……。
「……えっと、さららさんが話してた宇宙背景放射ってなんなの。春日さんも前何か言ってたし。そうだ、確か『世界を織りなすもの』で出てきた言葉のような気がするんだけど」
また思考の迷路にはまりそうになり、大悟は慌てて話題を変えた。
「……言ってみれば宇宙の温度」
「宇宙の温度?」
話を変えたつもりなのにまた温度である。
「約2.7K。一般的な温度の単位だと-270くらいね」
「えっと、つまり僕らの体温より300度くらい低いのが宇宙の温度ってこと」
「そう。正確には宇宙の平均温度。その空間の温度って言うのはその空間のもってる電磁波、つまり光の強さの総量と考えるの」
「う、うん」
「とても大きなスケールで見たら宇宙はとても均一だと考えられているわ。つまり、右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても。同じくらいの熱の放射がやってくるってこと。もちろん、ものすごく厳密に測定したら温度のムラがあることも分かっていて。それが原始宇宙の構造のヒントだって考えもある。でも、規則的に変動するなんてことは全くの予想外なの」
「えっと、確か電磁波の強さが色なんだよね。つまり、すごく安定しているはずの宇宙の背景色が、BGMみたいにリズムをもってるってこと?」
「そういうこと。本当なら大発見。宇宙の構造、誕生についての理論がひっくり返る可能性がある。そしてそれは、物理学の根本とも関わるの」
「えっと、確か宇宙の始まりと四つの力の話が繋がってたんだっけ」
今日の氷水の話で思い出していたおかげで、大悟はなんとか付いていくことが出来た。
「今のところ、観測機器の故障って可能性が一番大きいと考える人が多いわ。私もそう思う。実際地球を回っている複数の観測衛星で、少しずつ異なる結果が出てるし」
「宇宙の温度を測る為に複数の衛星が打ち上げられてるんだ」
大悟はやっと春香の言っていることが大事だと理解した。
「でも、同時にそれは異なる機器で震動が観測されているって事でもあるの、悩ましいわね」
「なるほど」
分かったような分からないような。どちらにしろ時間的にも空間的にもあまりにスケールの大きな話だ。文字通り天文学的スケールというわけだ。
「なんというか――」
「だから、そんなことはあり得ません」「あり得ないって言われても、実際……さんは……の部屋に来たし。……にだって一緒に」
大悟が素人らしく平凡な感想を言おうとした時だった。姦しい言い合いの声が聞こえた。周りを見ると、いつの間にかラタンの近くまで来ていた。そして、声は彼の母の店の方からだった。
「夏美のやつ。店の前で何をやってるんだ?」
道の向こうで、彼の妹の夏美が同じ制服の女の子と言い争っている。
大悟と春香が首をかしげたときだった。妹が兄の接近に気がついたの。妹の腕が彼の方に伸び、その指がビシッと彼らを指した。その表情は、今まで彼に向けられたことがないほどの、まさしく満面の笑みだ。
「ほら、今も仲良く一緒に帰ってきた。春香さんはお兄ちゃんの彼女なんだから」
「はあ? ついに幻想ま……で……、ぅそ……」
夏美はご近所も憚らずそう言った。妹に続いてこちらを見た女子中学生は、春香を見て固まってしまった。
◇◇
「ありえないわ。ありえない」
ラタンの中で夏美の同級生は、スマホのSNSを何度もタップしている。
「ああもう、どうしてこんなに更新が遅いの。高い通信料は何の為よ。きた!! ………………そ、そんな。結城先輩も、近藤先輩まで否定しないなんて」
そして絶望的な表情で大悟と春香を見た。大悟と春香はかなり居心地が悪い思いをしている。兄としては、妹のどや顔をなんとかしなければと思っているのだが、状況が全く読めない。
ちなみに、ちらっと顔を出した彼の母は「また、大悟の勉強を見てくれるの?」と誤解を強化してから引っ込んだ。
「さあ、どう」
同級生を前に勝ち誇っている妹を頭をはたいてやるのがシンプルな方法だろうか。
ちなみに、女の子は大悟にとっては初対面の相手だ。もしかしたら夏美の友達として会ってるかも知れないが、記憶にない。春香のことは近藤洋子や結城達也も含め、知っているようだ。要するに春日財閥、そんなものがあればだが、の関係者という所か。
なら、春香が否定してくれると良いのだが。
「春日先輩。本当ですか、本当にこんな冴えない男が、その春日家の跡継ぎに?」
「それは、今後の論争次第というか……」
春香はずれたことを言った。どうやら論争に勝ったら春香のことを好きにするという話の流れで言っている模様だ。肝心なときに理系モードを引きずっている?
「そんな。結城先輩の方がずっとカッコいいじゃないですか」
事情を知らない女の子の方はますます混乱する。まあ、客観的に見たらそうだろうなと大悟も思うが。
「結城先輩ってだれ?」
「ああ、多分ウチの生徒会長さん」
「この人よ」
女の子はスマホの画面を見せた。ピンチインで拡大された集合写真の中に。豪華なホテルらしき場所で開かれたパーティーみたいだ。
「…………」
その写真を見てさっきまで勝ち誇っていた夏美が、気圧されたように震え、兄を抗議の瞳で見た。大悟は地味に傷ついた。遺伝子的には色々責任を共有しているのではないか。
「えっとね。今の話はちょっと前提が違って。ボクと春日さんは……」
仕方なく、大悟が説明した。勿論、当たり障りなく一緒に物理学とか情報処理の勉強をしているという説明だ。
「つ、つまり、あくまでお勉強のご友人ということですね」
大悟の説明に女の子は救われたような表情になる。そして、春香に確認する。
「そうね、その勉強の結果に全てを賭けて勝負してる相手。負けないから問題ないわ」
春香が答えた。
「そ、そうですよね。……ちなみに、これまでのご戦績は?」
「……次こそは私の勝ちのはずだから、大丈夫」
春香は悔しそうな顔で言った。大悟の説明は台無しにされた。
結局女の子は「お母様に言いつけてやるんだから」と訳の解らないことを、大悟に向かって言ってから、帰って行った。その後、春香も家の用事とかで帰って行った。
「事情を説明しろ」
ラタンのドアのチリンと言う鐘の音が収まった後、大悟は夏美を睨んだ。妹は露骨に目をそらした。
「し、仕方ないじゃない。学校で「夏美のお兄ちゃんってぱっとしないよね」って話になって。まあ、それは事実だけど。ほら、私まで間接的に馬鹿にされる感じはこまるっていうか、ね」
それで、例の遊園地の写真、大悟がTシャツの端しか写っていない、を見せたらしい。
「どっかのアイドルの写真でしょとか言われて信じてもらえなかったんだけどね。客観的に見て私も同意だし。実際、ここに兄貴が写ってるの未だに信じ切れてない気持ちも……」
「おい」
ならむしろそのままで良かったじゃないかと、彼は頭を抱えたくなった。
「実際、それでうやむやになりそうだったんだけど……」
間の悪いことに、春香のことを知っているクラス一番のお嬢様が通りがかった、と言うことらしい。
「…………とにかく、今後はあんまり適当なことを言うなよ」
大悟は夏美の頭をポンと叩いて、釘を刺した。
2018/09/30:
来週の投稿は木、日の予定です。
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