3話:後編 網の温度
「ネットワークの温度とは繋がりたい気持ちの強弱」というさららの言葉に大悟は首をかしげる。彼を混乱させる講師は、背を向けて冷蔵庫に向かった。そして、氷を入れたグラスを持ってきた。
最初にここに迷い込んだとき、さららから聞かされた宇宙空間の相転移を思い出さされる展開だ。
「雪の結晶が出てきたから、説明にはこれを使うのがいいね。続きは、ハルに任せよっか」
さららはグラスをカランと鳴らして、それを春香に突き出した。
「分かりました」
突然の講師交代である。春香の方は全く動揺した様子がない。立ち上がって師からコップを受け取る。その瞳が勝ち気な光を帯び、さっきまで生徒として隣に並んでいた男子生徒に向いた。
(あれっ!? もしかして久々の……)
「九ヶ谷君。このコップの中身は何だと思う?」
師匠譲りの逆質問だ。そして、春香の目はもちろん分かるよね、と彼に要求している。
「氷水…………って言いたいところだけど。そ、そうだな、えっと、水分子の、ネットワークとか」
自分の答えに春香の眉が跳ねたのを見て、大悟は慌てて言い変えた。
「正解ね。じゃあ、どんなネットワークだと思う?」
「ボクの数学とか理科とかの成績、春日さんはもう知ってるよね」
ギリギリのところで正解に踏みとどまった哀れな同級生に、春香の追求。大悟は思わず抗議した。
「ええ、よーく知ってるわ。で、答えはまだかしら?」
教師役の春香は久々のSモードを崩さない。同じくレクチャーでも前回の遊園地の時は、結構優しかったのだが。今日は容赦ない。いや「もうあの時みたいに油断はしないわ」という理不尽な決意が感じられる。
大悟は仕方なく考える。これまでの話の流れから、恐らく答えは三択。彼女の細くて綺麗な指が、グラスの上の方を指している。
最初に思い浮かんだのは、さっきの雪の結晶。雪と氷。ならば、氷はスモールワールドなのだろうか。いや、違う。彼の頭に理科の教科書で見た氷の模式図が浮んだ。あれは、先ほどの規則と偶然によって作られる芸術と言うよりは。
「…………氷は規則的ネットワーク、じゃないかな、と思う」
「正解。じゃあ、こっちは?」
春香の指が下に下がった。
「水、液体の水は…………」
大悟はもう一度考える。これが三択問題だとしたらだが、残りはランダムネットワークかスモールワールドだ。話の流れから、明らかに重要なのはスモールワールド。もし、水分子の集まりである液体の水、その中に特別な地位の水分子があれば……。
「水はランダムネットワーク」
大悟は答えた。液体の水の中で、水分子同士はでたらめにぶつかり合ってるにすぎないはずだ。
「ほら、正解」
ほら見たことかと、春香は大悟をせめるような視線で突き刺す。理不尽だ。学校の内容を遙かに超える問題を無理矢理考えさせたあげく、正解したら当たり前と言われる。
だがそれよりも、大悟の思考は残った空白に向かった。
「じゃあ最後の一つ、スモールワールドはどこにあるの?」
「どこにあると思う?」
少女教師の指がグラスの上部、氷水のさらに上に移動した。大悟の視線も上に誘導される。そこには、水のもう一つの形。つまり、水蒸気が存在するはずだ。
残った水蒸気がスモールワールドだろうか。消去法ならそうだ。だが、水蒸気は液体の水以上にランダムではないか。とてもじゃないが、ハブのような構造を作れるようには見えない。
それに、この状態の春香がヒントなんて出すだろうか?
「水蒸気じゃない」
大悟は答えた。秩序が氷、スモールワールドが水、水蒸気がランダムと言われた方がまだ納得がいく。氷よりも下はない。水蒸気より上は、プラズマだろうか、でもそれがあったとしても更に無秩序だろう。
「……となると、もしスモールワールドがあるとしたら、水と氷の間……」
大悟はそう言った。春香が口を押さえた。カップが落ちそうになる。
「正解だね」
横から本来の講師、大学のだが、がグラスを手に取った。
「スモールワールドは氷、つまり秩序と、水、つまり無秩序の中間にあるの」
さららの指は氷と水の接触している場所を指した。
「ここでは、氷が溶けて水になったり、水が氷になったりしている。もちろん、この温度だと圧倒的に氷が溶けて水になる方が多いけど、温度を調節してやれば、具体的には0度付近にすれば、そう言った状態を作り出せる」
さららは言った。大悟はイメージする。氷の規則的な結晶構造がとけて、自由な水になる。水が氷の結晶に取り込まれる。秩序と無秩序の間の戦い……。なるほど、あのセルオートマトンに見えなくもない光景なのかも知れない。
「でも、そこに…………。えっとさっきの話みたいなハブって出来ますか?」
大悟は言った。氷と水が何らかのダンスを踊ろうと、それが自己組織化するというイメージは抱けない。
「できないね。だから正確に言えば、ここはスモールワールドが可能な領域ということになる。スモールワールドを成り立たせる為には、もう一つ必要な物があるの」
「もう一つ必要な物……」
「でも、今はネットワークの温度の話だから、そっちを優先しましょう。単純に規則的ネットワークが0度以下、ランダムネットワークが0度以上とするでしょ、スモールワールドが可能な領域はその間のどこかにある狭い温度の領域に存在することになる。つまり、規則、スモールワールド、ランダムの三種類のネットワークは温度の上下というパラメータにより決定されることになる」
「ネットワークの構造が、温度順に並んでいる」
大悟はうめくように言った。前回の話は、宇宙の空間構造そのものが、水と氷のように相転移するという話だった。それですら、結構な衝撃だったのに、今度のはある意味さらにおかしい。並ぶべきでない、何かが並んでいる。物理学の仲間はずれがしれっと中央に座っている。
「水分子は氷になろうという性質、つまり繋がろうとする力と、水になろうという性質、つまり離れようという力、相反する二つの間でバランスを取っている。温度が低いときは、離れようとする力が弱いから、繋がって氷になる」
「温度が高ければ、水分子は勢いよく動いてるから、氷になろうとする力を振り切ってばらばらになる」
大悟は思わず先回りした。イメージが合致したのだ。
「温度が低いと規則的、つまり秩序の世界で、温度が高いとランダム。つまり無秩序の世界」
「そういうこと」
さららはそれだけを言った。そう、ここまでは良いのだ。そこまで不思議な話ではない。問題は……。
「秩序と無秩序の間に、何か特別な領域があって、そこではあのセルオートマトンのグライダーガンみたいに、不思議な物が現れる?」
「正解」
さららはにやりと笑った。正解すればするほど、はまる深淵だ。
「つまり、スモールワールドとは秩序と無秩序の接触した領域に存在する、ううん自己組織化という言葉に敬意を表して生まれるといいましょう。セルオートマトンに例えると、ルールが次のターンで生きてるセルを生み出す確率が温度に対応する。もしも、生み出す確率が低いと……」
さららは画面に例の格子を呼び出した。それはランダムに白と黒が入り交じっている。だが、さららがそれを、生命のシミュレーションを始めると、それはすぐに白一色になってしまう。
「こういう風に、あっという間に生きている存在はなくなって、氷のように冷たい世界になる。逆に、あまりに生きてるセルを生み出す確率が高いルールだと……」
巻き戻された画面に、別のルールが適応される。先ほどとは逆に、あっという間に黒の領域が拡大して、過密によって死んだセルも、すぐに生きているセルになる。
まるで沸騰する墨汁のようなそれは無秩序だった。
「そして、この中間の確率にすると……」
それは、前回見た物だった。セルの白黒が半分規則的に、半分無秩序に入れ替わり。そこに、グライダーの構造が現れて移動し始めた。もし運が良ければ、ここにあの機械だか生命だか解らない、ゲームのドット絵のようなあれ。グライダーガンが生まれるのだろうか。
それは決して、白一色の凍りついた世界や、黒が泡立つ灼熱の世界には生まれない。
「水と、氷の間に生命がある……」
大悟は再びうめいた。思わず、アホかと言いたい。固体と液体と生命が温度計の上に並ぶなんて、誰が考えよう。それはあまりに異様な概念だ。
「じゃあ、さっきのもう一つ必要な物って――」
「あっ、ちょっとまって。着信」
大悟が思わず身を乗り出して尋ねようとしたとき、振動音がした。さららがスマホを取り出した。
「うんうん、BGMの規則的振動の話でしょ。私もびっくり、まだ確定じゃないけど、ことによるとORZLも……。それで……」
どうやら電話の相手は重力の専門家というあの老教授らしい。何か大きな天文学上の発見らしい。そういえば春香にも連絡が来ていたような。
結局さららが教授室に呼ばれて、その日はお開きになった。大悟は春香と一緒にラボを出た。
中途半端なところで放り出されたが、大悟は内心少しだけほっとしていた。一日でこれ以上詰め込まれたら、頭が破裂する。




