3話:前編 網の温度
「ゲーム項についてちゃんと説明する」というさららの言葉に、大悟は身構える。それは未だに難解な、さららの理論《ORZL》の基盤の一つである。更に言えば、情報重心を介して世界の物理法則を改変するというとんでもない効果を持つ。
大悟はこれまで二度、その具体的な現象を見ている。
そして、彼の父の理論なのだ。彼は父の言っていることが殆ど理解できなかったのだから。それは別離から五年たとうと変らない。いや、十年たとうと、一生かかっても理解できないとあきらめているもの。
ただ、それでも今なら少しだけ……。
そう思って大悟は前を見た。さららがプロジェクターに映し出した数式は、あいかわらずただの暗号だった。
「『ゲーム項』って言うのは簡単に言えばネットワークの温度を定める為の数式なの」
数式を前にさららは言った。大悟は反射的に手の平を意識した。暑い、寒いという日常的に感じている感覚。だが、エンジンが情報処理機関だと言われたり、コンピュータの挙動を温度で監視したりという話を聞いた後なら、重要だということだけは解る。
だが、ネットワークの温度とは……。
「あの、まずネットワークってなんなんですか?」
大悟のあまりに基本的な質問に、さららはにやりと笑った。
「何だと思う?」
「えっと、インターネットとか。あと、SNSとか……」
いつもの逆質問。大悟は思いついた言葉を並べた。
「SNSはインターネット上の存在だよね。ならネットワークにはネットワークが乗ることになるのかな?」
「それは……、その、分かりませんけど……、そうなるのかなと思います」
網の上の網、意味がわからない。だが、大悟が思い浮かべたのはルーシアが関わっていたブロックチェーン。鎖と言うがアレも網だろう。そして、インターネット上の仕組だ。
「うん。今のは良いところを突いているよ。例えば、人間社会は言語、物、お金を使ったやり取りをするネットワークだし。それを司っている個人の脳は神経細胞のネットワーク。一つの神経細胞は、遺伝子によってコントロールされる化学反応のネットワーク。それらは全部原子間のネットワークの上に乗ってるわけでしょ」
「……インターネットが基本的な、現実で言えば原子のネットワークで、その上にもっと複雑なネットワークが乗ってるって感じですか?」
「そういうこと。ちなみにハルの意見は?」
さららは突然弟子に声を掛けた。大悟が春香を見ると、彼女はへの字にしていた口を開いた。
「私は本質的に存在するのはせいぜい原子のネットワークまでで、それ以上は人間が認識する為の便宜的な存在、幻想に過ぎないと思っています」
春香は答えた。人間も原子の塊に過ぎないと言うことだろう。春香らしいと言えばらしい答えである。
「大悟は?」
「えっと、原子、つまり物理学のネットワークが、化学反応のネットワークを決めてる。くらいまではともかく、それが人間関係のネットワークを決めてると言われると……」
例えば、コンピュータゲームの基本単位はビットであろう。だが、ビットのことが全て分かればそれから作り出されるコンピュータゲームの全て、それをプレイする人間の感情まで決まると言われると抵抗がある。
「この前、ライフゲームのグライダーガンって言うのを見せて貰ったんですけど。あれは全部ビットで出来てるわけですよね。それは解りますけど、それが全てと言われると……」
アレを見たときに襲われた強烈な違和感、つまり深淵と空白のイメージは、まだ残っている。
「それは、あくまで人間の認識能力に限界があるからで……」
「ま、答えは出ないね。大事なのは、世界がネットワークとして捉えられること。原子から人間関係まで、観察するスケールを変えても、ネットワークが見えること。それが擬似的な物であれ、実体を持つものであれね。それらのネットワークが全てスケールフリーで解析可能。これが『ゲーム項』の基本的な考え方なの。まあ、これ自体はそこまで突飛と言うわけじゃないんだけどね」
さららは平気で突飛なことを言った。
「で、でも、ネットワークってなんというかもやもやしたものって言うか。分析とか難しそうなんですけど?」
大悟は絡まり合った糸のようなものをイメージしていった。
「一番基本的なところからだね」
さららはホワイトボードにペンを走らせた。
ー○ーーー○ー
「ネットワークの基本単位はノードとその間のライン。ダイゴとハル。ちょっと会話してみて?」
突然の無茶ぶりである。逆質問より酷い。
「えっと、いきなりそんなこと言われても……」
「…………」
春香も固まっている。初めてこのラボで彼女の正体を知ったときに比べれば、ずいぶん話せるようになったと思ったが、改めて言われると詰まってしまう。
「えっと、あの、お、お姉さん綺麗な人だね」
「そうね」
姉妹仲は良さそうだったので選んだ話題、だが春香の反応は冷たかった。このネットワークの温度は低いのだろうか?
「なんか思ったより面白くない」
さららまで場を冷やした大悟をせめるようなことを言う。
「いやいや、リクエストには応えましたよ。講義に戻ってください」
「まいっか。えっと、今のがネットワークの上の情報の流れ。ハルとダイゴがネットワーク上の点、つまりノード。その間の空気が二人を繋ぐライン。そのラインの上を行き来した言葉が情報」
「でも、今の会話って、さららさんにも聞こえてますよね」
「じゃあ、紙に書いた言葉をやり取りしたり、目と目で通じ合ったりしたと思って。次の問題は、ネットワークの距離について」
「距離ですか?」
「そう、まずは……」
さららは春香の横に移動した。右からさらら、春香、大悟の並びだ。そして、取り出したメモ用紙にさらさらと何かを書いた。それを春香に渡した。それを見た春香は一瞬指に力を込める。だが、仕方なく少し歪んだ紙を、大悟に渡した。
大学の研究室で小学生の手紙回しというシュールな状況だ。大悟が紙を開くと……。『あの状況で他の女の話はダメじゃないかな』という文字が書かれていた。大悟は頭を抱えたくなった。
「この場合、私とダイゴの間の距離は2ということになる。間にアヤを挟んだりしたら3。あるノードからあるノードに繋がるまでのノードの数。これが距離と言われるネットワークの基本的性質の一つ。そして、ネットワークのあるノードからあるノードにまでの最短の到達距離の平均値を平均距離というの。そして、この距離の概念からネットワークは3種類に分ける事が出来る。はい、ハル」
「規則的ネットワーク、ランダムネットワーク、そしてスモールワールドですね」
突然の指名にも、春香はすらすらと答えた。たった一つの数値で、もやもやしたネットワークが分類できるらしい。全てのゲームはRPG、アクション、パズルに分類できると言われたようなものだ。
「正解。一つ目の規則的ネットワークはセルオートマトン。全てのノードは隣接する8つのノードとのみ接続している。三つ離れたノードまでの距離は3」
どうやらセル一つ一つがノードで、その間の繋がりが接続らしい。なるほど、確かに規則的なネットワークだ。動けない人間が、隣の人間とだけ筆談しているようなもの。
「もう一つがランダムネットワーク。これは、文字通り繋がりがランダム。隣のセルと繋がっているかもしれないし、一番遠くのセルと繋がっているかも知れない」
なるほど、動けないのは一緒だとしても、ランダムに割り当てられたIDとだけSNSをするスマホを持っているようなものだ。
規則とランダム。確かにこの二つのネットワークは違う。なら最後の一つは?
「最後がスモールワールド。これは例えばインターネットとか、人間社会のこと」
さららが言った。さっきまでの規則的とかランダムから、一気に曖昧になった。ただ、インターネット言う言葉から、いかにもLczに関わりそうだが。
「このスモールワールドには他の二つにはない性質がある。それは、自己組織化によって作られると言うこと」
さららは言った。




