7話:前半 ゲーム勝負
「おはよう九ヶ谷君」
月曜日の朝、大悟は隣の席の女子から”これまでとまったく同じ”挨拶をされた。思わず相手の顔を見直した大悟は、曇り一つ感じられない笑顔にたじろいだ。彼女は、動揺した大悟に小首をかしげてみせる。
「九ヶ谷。せっかく春香が挨拶してるのに無視ってどう言うこと?」
春香の友人が大悟に文句を言った、大悟は慌てて「おはよう」と挨拶を返した。
◇◇
四時間目は数学の授業だった。大悟はどうしても隣の様子を意識してしまう。春香が教師も黒板もまったく見ていないことに気がついた。ノートに何を書いているのかは解らないが、恐らく内容は理解できないと思った。もちろん、教師が黒板に書いている内容を彼は理解できないのだが、それとは別の話だ。
春香は、不意打ちで当てられた問題を黒板をちらっと見ただけで解き、教師の「流石春日だな」という満足げな評価と、周囲の賞賛の視線に照れたように顔を伏せる。その下の表情がどうなっているのか、大悟は考えないことにした。
昼休みが始まり、お弁当を広げて会話に花を咲かせる春香達。ただ、一人だけ会話にあまり参加していない。言うまでもなく先週春香に約束をドタキャンされた子だ。
ところが、春香は全く気がつかないようにその一人に話を振る。時計回りのように、話しかける順番がほぼ決まっているように見えた。そして、話しかけられると、いつも通り一拍おいて返答する。
人当たりが良く温厚で……そして聡明な理想の女の子だ。
決して「そんな高度な問題にあなたが興味を持つなんてあり得ない」とか「算数レベルの知識しかないのね」とか「これをあなたに説明するなんて時間の無駄」とか言ったりしない。
前の時間の数学の内容を質問する友人に丁寧に教えている。ただ、質問しているのはいつも数学のことを聞いている子ではなく、これまではそれを見守っていた子だ。
(……気にしても仕方がないよな)
大悟は食売のサンドイッチを摘まみながら自分のノートを開いた。そこには、春香のノートともしかしたら共通性があるかもしれない記号が、二行だけ書かれている。
上の行は土曜日に地下研究室のホワイトボードから写し取った数式。下は帰宅後に父の書斎のホワイトボードから写し取った数式。どちらも全く意味は分からない。
形も記号も全体としては違う。ただ、さららが【ゲーム項】と言った部分の記号の配置だけが一致している。
大悟は久しぶりに入った書斎を思い出す。机は整理されていて、そこに並んでいたノートがなくなっていたのだ。母に聞くと口を濁したが、父の失踪直前に一度だけ連絡が来て、そのときアメリカまで送ったというのだ。
知らなかった事実だ。仕方なく、収納に残っていた古いノートをひっくり返し、【ゲーム項】が確かに多くのページに登場することだけを確かめた。
(やっぱり何かあるんだろうな)
意識を教室の机に戻し、もう一度ノートを見る。もちろん、暗号は彼の理解を拒む。土曜日、途中で中断したさららの講義を最後まで聞けば少しは理解できたのだろうか。例えば、この記号と折り紙の折り方の関係くらいは……。
(それこそわけ分からん)
結局あの時の”講義”で解ったのは、宇宙空間の構造が変わることで物理法則が変わること。それが、春にあの大学で起こった謎の未解決の事故の原因である、という講師の主張だけだ。
昼休みが終わるチャイムと同時に、大悟はノートを閉じた。まだサンドイッチが残っていた事に気がつき、慌てて口に放り込む。
◇◇
翌日の放課後、大悟は図書館にいた。いつも通りゲームの製作だ。理解できるはずもない現実の宇宙よりも、架空の世界を自由に設計するほうが前向きだ。
五年前の事故のことについては、次の取材費用は大悟持ちという条件で綾に調査を頼んだ。
意味不明のノートを脇にどけて、自分が作った世界の資料を広げた。あのイレギュラーのせいで潰れた土日を少しでも取り返すのだ。
(まあ、ちょっとだけ面白かったからな。世界設定のインスピレーションにはなったさ)
設定の中で魔法の項目を見た。背景である神話、神と悪魔の関係と魔法の法則を密接に関係させるのだ。
大悟が目をつぶって想像の世界を創世まで遡ろうとした時、背後に気配を感じた。
「そう何度も同じ手は食わないぞ」
「きゃ!」
先手を打って振り返った大悟。可愛い悲鳴。そして、柑橘系を好む綾と違う石鹸系の香りが鼻孔に届いた。彼の目が捉えたのは小柄な同級生ではなかった。
カウンターの方から咳払いの音がした。春香は慌てて口を押さえて、彼を睨んだ。
…………
「えっと、用事って何かな。土曜日のこと? でも、月曜日は……」
大悟は緊張しながら尋ねた。不意を突かれたのは彼も同じだ。なにしろ、教室での彼女は全く普通だった。
土曜日のことは何かの間違いじゃないかと記憶の改ざんが始まっていたくらいだ。
「観察してたから」
教室とは打って変わった感情を抑えた声で春香が言った。
「観察?」
「そう、あなたがおかしなことを考えないかどうか」
春香は当たり前のように言った。自分の弱みを握った男子生徒が良からぬことを企まないか、約二日観察した。大丈夫そうだと判断して今接触してきたということか。
彼は、目の前の春香ならさもありなんと思ってしまった。
「でも、それなら……」
用件はないはずだ。大悟が日常に戻ったように、春香もいつも通りの生活に戻れば良い。いや、もしかして土曜日さららが最後に言っていたことだろうか。
「春の事故のこと、本当に興味があるのか確認したいの」
春香の質問は予想通りだった。だが、大悟はどう答えようか迷う。自分の興味の持ちようが、春香の共感を得るとは思えない。
彼が答えを探しているうちに、春香の目が大悟から机に移った。そこには、開いたままのノートがある。春香の瞳が鋭く尖った。
「ゲーム項……、でも下のは知らない数式ね……。さららさんのとは違うけど、多分ちゃんと意味がある。……これが九ヶ谷君がゲーム項を知っていた理由?」
春香の視線が大悟に突き刺さった。大悟は頷いた。
「でも、これ理解してないよね」
大悟はもう一度頷いた。隠しても目の前の科学者の弟子は見抜くだろう。
「実は、これは僕の父さんが研究してた数式みたいなんだ」
父のことを説明する。五年も前に失踪した父親のことを未だ引きずっている、女々しい男に見られないかが気になる。だが、春香が興味を持ったのは彼の未練ではなかった。
「九ヶ谷秀人博士が九ヶ谷君のお父さん!?」
春香の瞳が大きく開かれた。
春香はスマートフォンを取り出すと指を走らせる。
「……確かに、九ヶ谷秀人博士の数式。インタビューから出身地と失踪?? 前の居住地もこのあたりでおかしくない」
信じられないという顔で大悟を見る。検索か何かで彼の父の情報を調べたらしい。目の前で堂々と裏付けをとるなど、綾顔負けだ。
だが、今はそれはいい。
「父さんのこと知ってるの?」
大悟は気持ちを抑えて尋ねた。
「だから【ゲーム項】の提唱で一世を風靡した【ゲーム理論】の研究者でしょ」
何で知らないんだと言わんばかりの春香。その一世は恐らくとても狭い世界なんだろうなと大悟は思った。
それよりも新しい言葉が出てきた【ゲーム理論】だ。
「…………春日さんが言ってるゲーム”理論”ってなんなの?」
父のことを調べたときにその言葉は出てきた。だが「ゲームの研究をしている」という父の言葉で遊戯のことだと思っていた。
だが、春香が遊戯の研究に興味を持つとは思えない。違う”G.A.M.E.”かもしれないのだ。専門家の冗談というやつは、とかく理解できない物だと彼は知っている。
「世界の全てをゲームとして捉える数学体系のこと。本来は科学とは言えない社会系の学問の中じゃ、唯一まともな物よ」
「はっ? 世界の全てがゲーム? 数学??」
意味が分からない。だが、春香は細い顎に指を当てて考え込んでしまう。
「……となると「将棋の王を取る前にっ」ていうのは……。ああ、そういう意味ね」
そして彼が父から聞いた言葉の意味を一人勝手に納得した。




