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複雑系彼女のゲーム  作者: のらふくろう
第一部『物理学の爆弾』
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1話 箱の中の猫

 縦40メートル、横30メートルの部屋、周囲の白い壁には窓一つない。秘儀を行なう宗教施設のような空間。中央には現代のロゼッタストーンとも言える、円形の装置が鎮座している。


 銀色の太い管を十二個の黒檀色の六角形が覆い、それらを支えるオレンジの台座は拳ほどもあるボルトで床に固定されている。


 装置の周囲を取り囲んでいるのは十人ほどの白装束の男女。各人の手元の端末には、めまぐるしく上下するグラフが示されていた。


 液晶上のグラフが変化を止める。グリーンの文字がオーバーラップすると同時に、あちこちで押し殺したため息が漏れた。儀式じっけんを見届けた全員の表情に押し隠していた疲労が浮かび上がっている。


 事故後、五回目の再稼働実験が終了。今回も問題は再現されず。装置は設計通り正常に動いている。彼らにとってそれこそが大問題だった。


 同じ条件で行われた一月前の実験では深刻な事故――管に穿孔を生じ、高エネルギーの電磁波ガンマせんの漏出――を引き起こしたのだ。


 もう少し線量が多ければ行政への報告義務が生じるレベルだった。決して放置できる問題ではない。


 白衣の集団は重い足取りでニ班に分かれ、生気のない顔を並べて問題がない結果から問題を見つけようとあがく。


 そんな中、入り口の自動ドアが開いた。入ってきたのは若い女性だ。緋色のブラウスと膝下までの紺のスカートが、機械仕掛けの祭壇に仕える白い聖職者の間を軽快な歩調で歩く。


 三十半ばの眼鏡の女の研究者がキャンパスから紛れ込んだ学生に厳しい目を向ける。若い侵入者は向けられた視線を気にもせず、逆に近づいていく。


 彼女は好奇心を湛えた瞳で、ひょいっとタブレットを覗き込んだ。研究者は慌てて手で画面を覆う。だが、彼女は画面に表示されていた数式の一つを暗唱して、何かを告げた。端末を抱えていた研究者だが、彼女の説明に顔色を変えた。


 そして、彼女を残して仲間の元へ駆け出した。


「あっ、でもね……」


 呼び止めようとする彼女の手が虚しく空を切った。


「この問題、方程式けいさんのミスを訂正してもあんまり意味がないんだけどね」


 彼女が肩をすくめた時、装置の横の壁にある分厚いドアがすっと開いた。ドアの向こうに立ち並ぶ台形コンピュータの列が見えた。


 四十後半の男が大股で部屋に入ってきた。白衣と同じ色、つまり白のスーツを着ている大男だ。


 男は体格に似合わない、小さめのスマートフォンに向かってしゃべっている。


「ええ、ええ、解ってますとも学長。研究費グラントの更新期限が迫ってるんですよね。もちろん、協賛企業のお歴々からの催促も、ですわね」


 ボスの登場に白衣の集団の緊張が高まった。男はスマートフォンを下ろすと自分の研究チームを見た。


「方針を変更するわ。シミュレーションと実験が一致する以上、原因は単一でない可能性が高い。超電導破綻クエンチの線は動かさないけど、いくつかのパラメータが連動した結果と考える。今後はそのパターンを見いだすことを優先するわ」


 厳しい声で言う男。複雑に絡み合ったパラメーターの解析の困難さを思い、研究員の表情はますます暗くなる。


 それを見た男は背後を振り返る。そして、巨大装置のコンソールをゆっくりと撫でた。


「この小さな加速器には大きな未来がかかってる。メインターゲットの重粒子線治療はもちろんだけど。現代の技術開発は、より厳密で正確な物質内部の情報を求めているわ。高エネルギー粒子をより身近で活用できる設備は、将来今よりもずっと広く必要になる。こんなトラブルで止まってられないわね」


 男は施設に響く野太い声で言った。そして「もちろん、私やあなたたちの将来の為にも」おどけた声でそう付け加えると、ウインクを飛ばした。


 淀んだ空気が晴れ、彼を取り巻く白衣の男女の表情に力が戻った。


 その中を、大男に向けて緋色の女性が近づいていく。


「面白いことが起きてるんだって。オーバ」


 彼女の言葉に白衣達がぎょっとした顔になる。大場と呼ばれた男もこめかみをひくつかせた。


「私はちっとも面白くないわ。講師の顔を見たら余計に。見ての通りとても忙しくて、貴女のトンデモ理論に割く時間は惜しいのよ。柏木教授の推薦じゃなければ、中に入れもしないのに」

「それは困った。ここで起こった”現象”は私にとって貴重なサンプルだし。あと、隣のコンピューティングパワーを独占されて不便してるんだけどな」

「もともと工学部ウチの施設よ。チラシの裏に計算らくがきしてなさい。得意でしょう」

「残念。その段階はもう終わった」

「じゃあ、表のお買い得商品を見てなさい。貴女の机上の空論よりずっと意味があるわ。経済的に」

「私は理論だから実験りょうりは得意じゃないんだよ」


 巌のような男と柔らかい笑顔の女性。二人の視線が衝突した。周囲の緊張が高まる。科学者が冗談でK.Y.場と呼ぶ物が振動している。世間一般の基準ではK.Y.場(くうき)弱い相互作用(よめない)とされている彼らにして、気まずい空気に居たたまれなくなる。


 そんな中、女性は何の気負いもない表情で、


「それに、普通オーバの物理学じゃ解けないでしょ。この問題」


次の爆弾を放り込んだ。

読んでいただいてありがとうございます。


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