眠り姫
聞き慣れた音がして、浅い眠りから覚める。眠気はない。もう、習慣になってしまっているからなのか、単に昨日随分早くに眠りに落ちてしまったからなのか。
カーテンを開け、曇りがちな空を見上げた後、シャワーを浴びるため浴室に入る。
今日もサキの病室の担当だった。その考えが念入りに身体を洗わせた。
ワイシャツに腕を通し、慣れた手つきでコーヒーを煎れる。苦い。
朝の朝刊を開くと、またどこかの県の殺人事件の記事が一面を飾っていた。
それを見て、思いだす。小学生の頃の道徳の時間。アリも、人も命の重みは一緒だ、という授業だったはずだ。
あの時俺は教師がそう述べたあと、笑顔で返事をしたことに、そしてそれを見て満面の笑みを浮かべた教師に、"馬鹿らしい"、これから足元を気にして歩くやつなんているわけが無い。利口なやつがいたとしても、せいぜい、1日2日、下を気にして歩くくらいだろうと思い教師に噛みつき、盛大にクラスの雰囲気を壊したはずだ。
今は...どう思うだろうか。どう思っているだろうか。
ふと、昨日の朝、有永に述べた言葉を思いだす。
「人を救う立場の俺達が人間を捨ててどうしてやっていける...か。」
果たして、足元のアリを気にして歩くのと、気にせず笑顔で教師の言ったことに返事だけをし、道を歩く。
果たしてどちらが人間味だろうか...
トーストを齧りながらそんなことを考えて時計を見ると、家を出る時間が近づいている、大急ぎでトーストをコーヒーで流し込み、歯を磨く。
もう1度念入りに前髪をいじった後白衣をカバンの中に入れ、家を出た。
車の中でも小学校のクラスの憧憬が頭をよぎっていた。道徳の授業風景が、ではない。
俺の意見に賛同するように、裂かれた上靴をプラプラさせていた、サキの笑顔を、だった。
いつも通り就業時間の30分前に研修室に入ると、珍しく有永の姿が見えた。
「おはよう。」
と、声をかけると、
「おはよう。きちんと眠れたか?今日はシャンとしててくれよ?」
そうして、嫌味の中にも気遣いがある友人に心の中で感謝しつつ、苦笑いするに留めておいた。
いつも通り、教授の長ったらしい話に耳を傾け、内科医志望の俺達は、診察の見学をした後に、いよいよ、病室回りの時間になった。
「今日も、昨日と同じフロアだよな?」
一応俺が確認すると、有永は不思議そうな顔をして
「珍しいな、お前がそんなことを聞くなんて。病室回りの仕事なんて、颯爽とこなして、いつもは、早く次に行こう。なんて言うのに。」
「い、いや、ただ気になっただけだよ。」
苦笑いしながら、そう答えるとキョトンという表現が相応しい顔をしているが、一応は納得してくれたみたいだった。
「ちょっと、カルテを見せてくれないか?」
俺がそう言うと、有永は無言でカルテを渡してきた。一応目を通すフリをして、パラパラと724号室のカルテを探す。
そして見つける、まさしくサキの名前だ。
そして、恐る恐る、病名を見る。
するとおかしなことに、病名の欄には不明、の二文字。
どういうことだ?と考えを巡らせ有永に尋ねる。
「この、724号室の患者、病名が不明って、どういうことだ?」
すると、有永は、少し驚いた表情になり、こう言ってきた。
「なんだ?知らなかったのか?昨日病室で、少し様子がおかしかったから知ってるもんかと思っていたんだが。結構俺らの中では有名なはずなんだが...」
と、若干言いにくそうな顔で言ってきたので、チッ、どうせお前以外友達なんていねぇよ、と心の中で毒づくと同時に、昨日病室での様子のおかしさをあまり言及されなかったのはそういう事だったのか...と納得する。
「で、結局なんなんだ?」
急かすように言うと、有永は少し言いにくそうな顔をして言った。
「.....わからないんだ。」
「え?」
俺が思わず聞き返すと有永はもう1度渋い表情を作って深呼吸した後こう言った。
「わからないんだ。彼女の病気は、原因も病名も、全くわからない。ただ、わかっているのは必ず、夜の12時から、正午まで、一切、どんなことをしようとも起きない。それ以外に特に何もないが、おかしな話だよ。症状は随分と長いらしいな、アメリカかどっかの病院に長いこといたらしいんだが、お手上げって話だ。なんせ、病気なのかもよくわからないってレベルだ。必ず、一秒違わず夜の12時になると、どんな状況でも眠りに落ちてしまう。そして、正午になると目を覚ます。原因もわからないってんじゃあ、お手上げさ。」
そう言って、肩をすくめるジェスチャーをする有永に詰め寄る。
「症状が長いって...どのくらい?」
「さぁな?小学生の頃からって話だ。」
それを聞いて俺は戦慄する。
まさか、あの約束の時、既にサキは...
転校も病気のためか?確かに外国に行くとは聞いていたけど...。
「まぁ、向こうで匙を投げられて、こっちに...どうも故郷らしいが、に帰ってきたそうだ。あんな美貌も相まって眠り姫なんて呼ばれてるけどな。まぁ、話はここまでだ。行くぞ。」
その話を聞いてとっくに脳のキャパをオーバーしていた俺は今日も友人に心配されることになりそうだな、と苦笑いしつつ歩き出した。
少年と少女の不思議な物語の始まりです。