白い十数年
さ...ハら....さちはら..幸原!
ハッとなって顔をあげる。
見慣れた白いテラスに手には同じく純白のコーヒーカップにすっかり冷めた黒い液体がなみなみと注がれている。
「どうした、ぼーっとして。昼寝をするにはまだ早い時間帯だし、俺らにそんな時間なんてないぜ。俺がお前の名前何回呼んだと思う...?」
そんなことを割と本気で寂しそうな顔をして言ってくる見慣れた顔を呆然と見ながら自分がなにをしていたか思いだす。そして溜息と同時にどうにか言葉を絞り出す。
「そりゃ、俺にだってぼーっとすることもしたい時もあるぜ。有永。」
「ほーほー医学部主席卒業の君にもまだ人間らしさが残っていたかね?幸原御幸くん。」
「何言ってんだ...医者を志す以上人間味を残さないでどうしてやって行ける?」
「そんな事言ってると、教授達にいいように使われて人間味すり減って二年後には言う事変わってるってことになりかねないぜ?」
「そんなことではだめさ。人間を救うのは神でも悪魔でもない、人間なんだから。人間を救う立場である俺達が人間を捨ててどうしてやって行ける。」
「あーあー、お前の性善説は在学中に聞き飽きたぜ。その言葉が何年続くか楽しみだよ。まぁ、俺もずっとその言葉が聞きたいと思うし聞けなくなることを残念だと思う気持ちを捨てるほど人間をまだ捨てちゃいないぜ。」
頭の上で腕を組みガタイのいい体を大げさに揺らし、そう話すあれからの十数年間で唯一出来た友人、有永公正とそんな会話を交わしつつ今日も研修医としての仕事をこなすため持ち場に向かう。
そう。あの約束から十数年達俺は、大学の医学部を主席で卒業した後、そのまま大学病院に残り、今は研修医として働いている。
どうして、医者を志したのか理由はとうに忘れてしまった。それでもきっとどこかで子供の頃の自尊心を突き進んできたからだろうな、とは思っているし我ながら少し呆れてもいた。
それにしても...どうして今更あんな約束を思い出して浸ってしまっていたのだろう。確かにサキと交わしたあの約束を糧に頑張って来れたというのも少しはあるだろう。
しかし、近年はサキのことはなんの音沙汰も、ないことと、激務をこなす疲労感で思い出すことも少なくなっていた。
それに...向こうはあの約束を覚えているのだろうか?いや...きっと覚えていないのだろう。覚えていれば連絡のひとつくらいあるはずだし、覚えていたとしても子供の夢見がちな絵空事と思っていても仕方がない。
向こうがわすれても俺はそれを頼りにして道を進んでこれた。
それでいいじゃないか。最近はそんなふうに思うようになってすらいた。
もちろん、覚えていて欲しいと願う気持ちもある。
自分の容姿はそれなりに整っているし、当然中、高、そして大学に至るまで、特に大学では医学部主席ということもあり、それなりに魅力的な女性に迫られたこともある。しかし、一度それを許してしまえば、今まで自分を引っ張ってきてくれた手網を手放してしまいそうで怖かった。
それに、思い出の中のサキと比べると、健康的な笑顔にサラッとした黒い髪がチラつくと、どうしても、迫ってくる女性が色あせて見えてしまう。
きっと、美人になっているだろうな。などと馬鹿なことを考えていると、有永に足を蹴られた。
「おい、本当に今日はどうした?さっきから教授が睨んでるぞ。」
おっと、やべっ。と小声で呟き、教授の長ったらしい話に意識を戻す。
話が終わり、病棟を有永と回る。
「確か今日は、一般病棟の7階だったな。」
担当するフロアにたどり着き、患者さんの話を聞いて回る。いつも通り、いつも通りだった、はずだった。
フロアのほとんどを回り終え、終盤に位置する個室をノックする。ドアには724号室の文字。
開け放ったドアの向こう。
むせ返りそうになる純白の部屋。その中央に位置するベッドに俺の目は釘付けになった。
この十数年間俺を支え続けた笑顔。それを生み出した人物の昔と何ら変わらぬ艶やかな黒髪がそよ風と共に揺れていた。
俺は、十数年前の約束の"本当"の意味。そして連絡が来なかった、いや、取れなかった理由を知ることになる。
知らなかった方が幸福だっただろうか。それともこの物語が最善だったのだろうか。