スリッパと共に去りぬ。
私たちにとっての安住の地は、凶暴で凶悪で強靭な巨人の足元だ。
彼らに見つからない限りは、ゴミを漁って食料を見つけ出し 寒風の届かない暖かな住処を見つけることもできる。
巨人の居住区は大きく、私たちの住むところだって沢山あるのだ。
だけど、それでも。
巨人の足元で生きていくには不安も多い。
彼らは私たちを見つけると、容易く叩き潰して殺す。あいつらにとって私たちは何の理由もなく殺される程度の、酷くつまらない存在なのだろう。
彼らのおこぼれを拾いながら、彼らの視界に入らないようにして生きていく。プライドも矜持も恥さえもない、それが私たち弱者の生き方なんだ。
でも、希望だって見つけた。
「エミリア、食料を見つけたよ。一緒に食べよう」
「……アレックス!! 来てくれたのね!!」
恋する相手だ。
アレックスと出会ったのは、私がいつものようにゴミの中を駆け回っていた時のこと。あまりに腹を空かせていた私は、巨人が近寄ってきていることに気が付かなかった。
巨人の影に気が付いた時には、奴はもうすぐそばにいた。
「どうしよう……!! どこかに隠れなきゃ!!」
焦る思考はどこまでも鈍く、焦れた視界は何よりも狭い。浅い呼吸を繰り返しながら、何とか活きる場を探していた私の聴覚に、声が響いた。
「早く!! こっちへ!!」
私は声のした方へと一目散に駆け出した。そこは巨人のごみ置き場の陰となった小さな隙間だった。
何とか巨人に見つかる前に隠れ切った私は、奴の姿が見えなくなるまで身を潜めていた。
「……いなくなった、かな? 良かったよ、君が助かって」
「ありがとう、助かったわ」
「いいよ、困ったときはお互い様だ」
その時、私は初めて彼の顔をはっきりと見た。
決して端正な顔立ちのイケメンというわけではないけれど、しかし健康的な浅黒い肌と優しそうな彼の雰囲気に、私の胸は小さく弾んだ。
「初めまして、私はエミリア。……あなたは?」
「うん、ボクの名前はアレックス。よろしくね」
同じ巨人の家に住んでいることもあり、私たちは顔を見合わせることが多く、そして それだけ互いに支え合う機会も多かった。
そんな私たちが恋に落ちるまでは、時間は掛からなかった。やがて私たちは、一日の大半を二人で過ごすようになっていた。
「不思議ね」
「え? 何がだい?」
「こんなにも心安らぐ日が来るだなんて……思ってもみなかったわ」
アレックスの顔を見つめているだけで、私は今日も頑張ろうって思える。
以前はその場しのぎで人生を生きていたようなものだったのに。
「ああ、ボクもだよ」
そう言ってアレックスも私に微笑みかけてくれる。
たったそれだけのことで、こんなにも胸が高鳴るだなんて。
でも、いま私が幸せな理由はそれだけじゃない。
「ねえ、アレックス。あなたに伝えなきゃいけないことがあるの? ……ふふふ」
「それは幸せなことなのかい?」
彼は私のことなら何でもお見通しだと言わんばかりに、優しく微笑んだ。彼の言葉に私は驚き、目を丸くした。
「え? どうしてわかったの?」
「そりゃあ、そんなに幸せそうな顔をしていれば誰にだってわかるさ」
「あら、そう。そうね、確かに つい口元が緩むくらいには素敵なことよ。……実はね、私。子どもができたのよ。あなたとの子よ」
「……嘘!! そんな、本当かい!?」
「本当よ。こんな嘘をつくわけが——」
私の言葉は彼によって遮られた。
アレックスの熱い抱擁に私は何も言えなくなった。
ううん、何も言わなくてもよかった。
言葉は交わさなくても、彼から伝わる体温と言葉にならない優しい涙があれば、私たちが今お互いに『最高に幸せだ』って思ってることなんて、容易く伝わるんだから。
けれど、その幸せは長くは続かなかった。
「おおおおおあああああああああああああああああああああッ!!!!」
気が付いたとき、私たちは巨人によってその姿を照らされ、奴の邪悪な目は私たちに向けられていたのだ。
巨人の上げる叫び声に私は委縮して体が動かない。
「何でッ……こんな時にッ!!」
「……ボクが時間を稼ぐ!! 君は早く逃げてッ!!」
「駄目よ!! 戻ってアレックス!!」
咄嗟にアレックスは巨人の足元へと駆け出した。
だけど、私はそれを止めることはできなかった。
彼も私も分かっていたのだ、私たちはどちらかしか生きられないと。
そして今の私が背負っているのは、一人分の命ではないと。
私はアレックスに背を向けて駆け出した。巨人の手が届かない暗く狭い、しかし希望にあ触れたその先へと。
しかし その時、背後で鈍い音が響き渡った。
振り返っても、きっと辛いだけだとは分かっていたのに、私は見てしまった。
巨人たちが『スリッパ』と呼ぶ平べったい形状をした鈍器によって叩き潰され、白い体液が体から流れて死んだアレックスの無残な姿を。
あんなに立派だった触角は折れ、六本の足はひしゃげてしまっていた。
「……ああッ!!」
溢れそうになる涙を必死にこらえ、私は冷蔵庫の下へともぐりこんだ。巨人の手の届かない安住の地へと、私はたどり着いたのだ。
アレックスの死という大きすぎる代償を払って。
「アレックス!! アレックス!! アレックス!! ああ、……あなたは もう居ないのね」
私は触角を震わせて泣き崩れた。
私が愛したあのゴキブリは、もうどこにもいない。
でも、それでも私は生きていかなくてはならない。
最愛の彼が残してくれた、最も守るべき子ども達がまだ残っているのだから。
薄暗い冷蔵庫の下で、私は卵を抱きかかえて決意を固めた。
——考えてほしい。
いくら不快害虫だからと言って、命あるものを殺すことは本当に正しいことなのだろうか、それだけはぜひとも皆さんに考えてほしいのだ。
まあ作者なら考えた上でスリッパでなくスプレーで殺すのだが。