バッド・トリップ
俺はこの日もまたケイトの研究室に訪れていた。
別に、遊馬の奴に仲良くしてくれと言われたからではなく。自分の意思で、である。
男の俺を知らない相手というのは、変に気負いをしなくて話しやすいのだ。
屋敷の清掃の合間に、ここへ訪れるのはもはや習慣と化していた。
「――で、今日は何を作ってるんだ」
俺は備え付けのベッドに腰かけつつ、フラスコとにらめっこするケイトへ問いかける。
ケイトはこちらへ振り向こうとはせず、
「これは、身体の成長をうながす薬ですわ」
「はあ? ……それはなんでまた」
「もちろん、千冬お姉さまのためですわ」
「……いや、ためですわと言われても、頼んじゃいねえんだけど」
思いもよらない回答に俺は頬をかき、自分の身体を見下ろしてみる。
初雪のように白い肌。華奢で、繊細な印象を与える手足。全体的に「幼い」といって差し支えない身体に相応しい、なだらかな膨らみ。
もし、俺の精神が歳相応の女の子であったなら、確かに成長してほしいと思うかもしれない。もしかすると、自分は魅力にとぼしい身体だと憂鬱になるかもしれない。
ただ、俺の精神は歳相応の男の子であり、今の少女の身体から成長してほしい、などと思うことはない。魅力にとぼしかろうが、胸が貧相だろうが、気にならない。……気にならないのだ。
「ちなみにお兄さまは胸の大きい女性が好みですわ」
「なおさら勘弁してくれよ……何度も言ってるけど、俺は恋愛には興味ねえの」
ケイトは俺を義姉として迎えたいらしく、事ある毎に俺と遊馬をくっつけようとしてくる。
人に気に入られるのは素直に嬉しいが、わざわざ身内にならずとも、友人として付き合えばいいだろうに。
とりあえず恋愛にまだ興味がない(男に興味がない、と言ったらレズを疑われたので。まあ、それでも構わないが……)という設定にして、のらりくらりと躱しているが、日に日にケイトは手段を問わなくなっている気がする。
「もったないですわ。とても可愛らしいお顔をしていらっしゃるのに」
「そいつはどうも……そのわりに、俺の口調はいいのかよ」
「お兄さまには、それくらい凛々しい方のほうがお似合いですわ」
「よくわかんねえ……」
それきりケイトは実験に再び集中をはじめ、会話が途切れる。
沈黙の息苦しさみたいなものは感じないものの、少々手持ち無沙汰なのは否めない。
俺はベッドの上に横になると、傍に置いてある雑誌を取った。ケイトは実験室に篭りがちなので、雑誌や新聞で外の世界の情勢を知るそうだ。たまには外に出ればいいのにな。
パラパラと雑誌を流し見ていると、ふいに視界の隅に映るものがあった。
「あ、これ、飲んでいいか?」
「え? ええ、どうぞ」
あ、これ聞いてないな、こいつ。
よほど研究に集中しているのか、空虚きわまりない返事ではあったが、一応ひと言ことわったので問題ないはずだ。
俺は視界の隅に映ったもの――お茶の入ったコップを取ると、それを一口で飲み干した。
――――瞬間、ものすごい科学的な味がしてむせ返った。
「けほっ、く……!? けほ、っ、うぅ……な、なんだ、これ……」
わずかにコップに残っていた液体に鼻を近づけてみるが、妙な匂いはしない。無臭だ。
腐ってるわけではなさそうだ、というか、あの風味は明らかに薬品の感じだった。
「どうされました?」
「いや、ここに置いてあったお茶? 飲んだら、変な味がしてさ……うえ」
相変わらず実験に集中したまま、声だけを投げかけてくるケイト。
「お茶……ですか? 今日は私、ペットボトルのお水しか飲んでおりませんが」
「は? じゃあ、これって……」
そこでようやくケイトは手を止め、振り返った。まず俺の顔を一瞥し、次に件のコップを見ると、合点がいったのかひとりでに頷く。そして、数秒考える素振りをみせた後、ゆっくりと口を開いた。
「千冬お姉さまが飲んだもの。――それは、平たく言えば媚薬ですわ」
「え、は? いや……なに、もう一度――」
「千冬お姉さまが飲んだものは媚薬ですわ」
「びや……」
「媚薬ですわ」
――――媚薬ですわ。
その一言がぐるぐると頭を回り、迂回に迂回を重ねて理解へたどり着いてしまったときの心境を、表現する言葉を俺は持たない。
◇ ◇ ◇ ◇
人が望むにしろ、望まざるにしろ。
時間が経つのは必然であり、太陽が沈めば月が出るし、また太陽が顔を出せば一日がはじまるのだ。
俺は遠方に並び立つビル群の合間に、浮かび上がる太陽を眇めつつ、静かに息を吐き出した。
鳥たちの囀りが、この神聖なる朝を、そして俺を礼賛しているかのような錯覚――。
…………現実逃避は、よそう。
新しい朝がきた。絶望の朝だ。
結論からいえば、媚薬の解毒法はしばらく見つかりそうにない。ケイト曰く「まったくの偶然の産物」だからだそうだ。
俺が飲んだ媚薬は、要はケイトの開発しようとしていた肉体の成長を促す薬の失敗作らしいが、全身の感覚を敏感にするだけの効能しかなく、ただ何か使い道があるかもしれないとコップに注いで、忘れていたようだ。
作為めいたものを感じるが、ケイトが忘れていたと言うのなら、忘れていたんだろう。
俺は友人を疑うようなことはしたくない。
こんな身体でしばらく生活しないといけないのは辛いが、ケイトを責めることも、したくはない。
悪気はなかったんだろうからな……別に、優しさなんかじゃない。友人として、当たり前の配慮さ。
「……朝飯食うか」
俺はぬるい倦怠感と、いまだに高揚感のくすぶった心身を奮いおこし、ベッドから降りる。
そして速やかにベッドのシーツを剥がし、替えの下着なども持って、階下へ向かった。
……は、はやくシャワー浴びて洗濯機回さないと。
――――
「あら、おはよう。昨日はお楽しみだったわね。もうちょっと声抑えなさいよ」
そしてシャワーを済ませ、洗濯機を回し、すべての証拠を始末したと安堵しつつリビングへ現れた俺に、姉貴は開口一番そう言った。
その場で首をくくりたくなったのは、わざわざ言うまでもないだろう。
それから訥々と俺が昨日やらかした行為の詳細をセリフ付きで語り出した姉貴に、途中から恥も外聞もかき捨てて「お姉ちゃんお願いだからぁ……!」「もうやめぇ……」「いやぁ……いわないでぇ……」等々さんざん泣き叫んだのに、もの凄く面白い玩具を見つけたかのように喜色満面で、さんざん言葉責めしてくれたこと。
俺は、一生涯忘れることはない。




