屈辱
じい様の家に行くまでの僅かな間ではあるが、俺にひとりの時間が与えられた。
少し前に姉貴は一階へ降りていったが、いろいろと考えることがあるのだろう。それは俺も一緒――なのだが。
「だけど……これ、どうすんのさ」
俺の思考は、姉貴が去り際に置いていった女ものの衣服を前にして固まっていた。
「その身体に慣れる意味もかねて、一人で着替えなさいよ」なんて姉貴は言っていたが、その意図に同意はすれど行動は難しい。
いや別に女の子の身体に触れるのが恥ずかしいわけではないんだ。生憎とそこまで初心ではないし、そろそろこの身体が自分のものである自覚もできてきた。
でも、いま寝間着として着ているスウェットを脱げば、女ものの下着など身につけていなかった俺は当然上裸になる。
肌着くらい着とけばよかったと思うが、今更すぎる後悔だ。どうすることもできない。
「はあ」
とりあえず俺は女ものの衣服を腕にかかえ、鏡の前に立った。最初の混乱でまともに覚えていない“現”自分の顔をつぶさに見つめる。
「……可愛いよな、すごく。てか、俺の面影まったくねえし……何となく姉貴に似てるとこはあるような」
あえて“元”自分の顔との共通点を挙げるなら、つり目くらいだろう。ただ少女のつり目はキツイ印象を与えるものではなく、子猫のような可愛らしさを演出しているのに対し、男であった時の俺のつり目はまさしく凶刃であり、悪鬼羅刹の眼光と恐怖されるものだった。この格差は何だろう。
不意に泣きたくなるのを堪えながら、肩まで伸びた黒髪にふれる。柔らかく、絹のような手触りだ。かつてのボサボサの短髪はどこの次元へ葬られたのだろう。
「身長もだいぶ縮んだな。本棚とか一番上、背伸びしないと届かねえじゃん。……にしても顔小さいな」
軽く部屋を見回して、自分の視界が前とくらべてずいぶん下がったことに気づく。男の俺の身長が百八〇で、そのとき見ていた光景より三〇センチは低い。
思えば、姉貴の顔を見上げる姿勢になったことからも明らかだ。姉貴は百六十八で、女としては高い方だがいつも俺は見下していた。
そして上から姉貴を見ていると、決まって背中に強烈な蹴りをもらうのだ。俺はそのとき理不尽の意味を知った。
そんなことを思い出すうち、背中に鈍い痛みを感じていると、不意にコンコンと壁を叩く音が聞こえてふり返る。
「あね……姉ちゃん」
「やっぱり。まだ着替えてない。もう、その服貸しなさい。私が着させてあげるわよ」
――え、誰これ。俺の姉貴だよな?
姉貴にそもそもノックの概念――肝心のドアは蹴破られたまま放置されているが――があったことにまず驚きだし、こんな優しい言葉はじめて聞く。誰だよこれ。まさか俺だけでなく、姉貴にも変化が? 優しくなるって? いやいやいや……
「姉貴」って呼びかけたのに気にしてないし。むしろ唐突な優しさに恐怖を覚え、俺は服を胸に抱きながら無意識に後ずさった。
姉貴が一歩すすみ、俺が一歩さがる。一歩すすみ、一歩さがる。すすみ、さが――しまった! 行き止まりだ!
「ま――まって! 姉ちゃん、自分で着替えれるって!」
「ふーん。じゃあどうして鏡の前に立ってしばらく経つのに着替えはじめないのかしら」
「なっ、て、てめ、覗いてたな――むぐっ」
「女の子がはしたない言葉つかわない。ええ、覗いてたわよ。可愛い“妹”の着替えだもの。男のあんたの着替えなんて逆立ちしても見たくはないけど、女の子として初めての着替えだもの。心配になるのは当たり前じゃない? そうよね」
「…………そ、そうですね」
ぐっ、やっぱ本質は変わってないみたいだ。頬を掴む手の力が弱いことや、言葉の端に少なからず憂慮を滲ませている以外、普段とかわらない。
概して「優しくなった」ことに間違いはないみたいだが――俺に有無を言わせないのだから、結局おんなじである。
顔を近づけ、にこりと微笑む姉貴。その大和撫子然とした仮面の裏で、俺のスウェットに手を伸ばすと強引にまくりあげようとする。
「――ッ!? ちょ、まっ、ま、ま、ま、やめ、ばか」
「いいじゃない」
よくねえ! と声高に突っ込みたいところだが、脱がされまいとスウェットを死守するのに必死だ。このバカ姉貴、本当に女と思えない馬鹿力である。
両手で裾を押さえこむも今度は下に手をかけられ、片手で姉貴を制することはできず、あっという間に半裸だ。目尻に涙を湛えつつ懸命に拒否の意を示すが、姉貴の服をはぎ取る動作に一切のよどみはなく――
「じ、自分でっ、着替えるから! 姉貴はで、で、出てけよぅ! や、やめやめやめ――」
決死の抵抗むなしく。上ばかりか下も剥かれた俺は、泣きじゃくりながら姉貴に服を着せてもらうという屈辱を味わうこととなった。