お姉ちゃんはかく語りき
私の「弟」が、「妹」になってひと月が経った。
あの日の朝は、鮮明に思い出せる。いつものように朝食を用意していると、弟の部屋から少女の悲鳴が聞こえてきたのだ。すぐさま駆けつけると、そこに弟の姿はなく、怯える少女の姿だけがあった。
私が困惑して弟の居場所を問うと、少女は震えた声で、自分がその弟本人であると答えた。最初は脅されているのかと思ったが、家族だけの秘密を知っているようだったし、それにあの小心者の弟が犯罪を行うとは思えなくて、私はじっとその少女を観察した。――少女の細かな仕草は、間違いなく弟のものだった。
そんなわけで私の弟は突如、女になった。直後はいろいろと大変だった。両親は仕事柄、一ヶ月以上連絡がとれないこともざらなので、私がなんとかするしかない。少女の姿になっても、血を分けた唯一の弟なのだ。……どんな手段を尽くしても、守らなければと思った。
まず病院へつれていくことを考えたが、何をされるかわからない。私は祖父の権力を借り、弟の身分を偽装させ、ひとまず女の子として学校に通わせることにした。
女になったからといって家に引きこもらせておけば、必ず歪みが生じるだろう。外部との交流だけは絶対に断ってはいけない。それで、わずかでも気を紛らわすことができれば僥倖だ。そう顧慮して、私はなるべく積極的に弟を外へ連れ出すことにした。
――祖父の尽力もあり、学校へはすぐに通えることが決まった。問題は山積であるし、学校生活においても様々な懸念はぬぐえなかったが、その報せをうけて私はようやく一息つけた。
ただ、私は学校生活における懸念をいささか軽視していた。弟の容姿は男のころの無愛想な強面ではなく、奇跡のようなバランスで顔立ちの整った美少女になっていて。小柄で華奢で、脆いガラス細工のように儚げなのに、挙措のひとつをとっても嗜虐心をくすぐる。姉の私は、それらに当然気づいていたが、中身は弟なので特に魅力だと認識していなかった。しかし、それがもたらす作用はきわめて重大であり、それが惨事を招いた。
弟はおそろしいほど、学校中の男子に好かれたのだ。平和だったのは初日だけで、翌日から怒涛の求愛が続いた。登校する姿を見守られ、下駄箱に数十枚の恋文を入れられ、囲まれ、告白され、ときに追い回され――
私も、度が過ぎる行為に対しては制裁を加えたが、それでも男子の勢いを制御下におくのは不可能だった。弟は何度か、危ない目に遭ったとも仄聞している。
最近はいくばくか沈静化しているものの、夏休み直前になれば何とか約束を取り付けたい男子が、再び活発になるのは容易に予想できる。
まあ、弟も誘いを断るのに慣れてきたようなので問題はないかもしれない。角の立たない、それでいて有無を許さない拒絶はなかなか器用だと思う。すぐ調子にのるから、褒めないけれど。
……そんな中で私も少しずつ、弟が女になった生活に慣れてきた。弟は台所の手伝いをするようになったので一緒に夕飯をつくったり、お風呂あがりに丁寧に髪を乾かしてあげたり、買い物に出かけたり――まるで本当の妹を相手しているようだが、それは弟が変化をはじめているのも影響している。弟は女になってからというもの、起伏が大きくなり、よく甘えてくるし、言うならばどこか幼くなった印象をうけるのだ。ついつい、世話も焼きたくなってしまう。
数日前も、私がソファーに腰かけてテレビを見ていると横に座って、自然と肩に頭を預けてきた。男のときに同じことをされたら問答無用で蹴り出していたのは確実だが、いまの弟にされると庇護欲を刺激されてしまう。そんな私の機微を知る由もない弟は、さらに膝を枕にて寝転んだり、腕をだき枕にしたりと、好き勝手にくつろいでくれた。どれも、そしてどちらも、以前は寸分も想像できなかったことである。
小学生のころは私によく懐いていたけれど、中学で一時荒れていたころに「姉貴」と呼びだして、腹が立ったのでこてんぱんに叩きのめし「お姉ちゃん」に呼び方を修正したことは記憶に新しい。
あの小生意気な弟は、いまはいない。正直、小指の先ほど寂しく思わなくもない。でも、妹のままでも、それはそれで楽しいのも事実だ。
身勝手な結論ではあるけれど、私は弟がどうなろうと構わない。――たとえどうなろうと、あいつが望めば、私はその手助けをするだけなのだから。