ここはいわゆる桃源郷
六限目は、体育の授業である。つまり、体操服に着替えなくてはならない。
それはごく当たり前のことなのだが、いまの俺は女で、そうなると当然ほかの女子たちと同じ場所で着替えなくてはならないわけで――。
もちろん、まずは一人で着替えることを考え、どこか空き教室を探そうとした。しかし一人で歩いていると突然行く手を阻まれたり、露骨なパンチラを狙ってくる輩とのエンカウントが多発するのだ。校内でなければ即事案発生の頻度で、である。
さしもの俺も貞操の危険を感じたので、ほかの女子たちと一緒に着替えることを決断した。向き合うなんざ臆病者の俺には無理なので、存在感を消すのに徹し、部屋の隅で壁を眺めながらひたすら無心と唱え続ける。
しかし、時折聞こえてくるなまめかしい会話だけでも、俺の羞恥心を煽るのに十分な威力を発揮した。――下着かわいいね、やら。胸大きいね、やら。挙句の果ては、さわっていい? やら。
俺はそんな会話に赤面しつつ、自分がその渦中に巻き込まれないことを切に祈った。神にではなく、姉貴に祈った。我が家のシヴァ神であらせられる姉貴だ。天佑があるかもしれない。
「千冬ちゃん? どうしたの、そんなところで……もしかして、また体調悪いの?」
俺は、びくっと肩をすくませた。おっとりとしていて、深い憂慮の覗くこの声は櫻井のものである。俺はすぐさま、祈る対象を間違えたことを悟った。
「いえ……その、あの、あれです。わ、私、自分の身体に自信がなくて、ですね。はい。だから恥ずかしくて……」
しどろもどろになりつつも、俺は体のいい言い訳を口にする。我ながら素晴らしい言い訳だ。自らの肉体的コンプレックスを理由にされれば、易々と説き伏せられまい。
内心で、勝利を確信していると――思わぬ掩護射撃を横合いからうけ、俺はあえなく轟沈することになった。それは同じく、未発達な身体の持ち主であるはずの瀬野によるものだった。
「成長期なんだし、大丈夫! 千冬はお姉ちゃんがスタイルいいんだし、安心しなよ!」
「そうね。それに私……千冬ちゃんがどれくらい細いのか、気になるし――ね?」
いったい、その無駄なポジティブな思考は何なんだ。貧乳のくせに。貧乳のくせにポジティブなのか。俺が反論する糸口を見出だせずにいると、櫻井と瀬野に肩を掴まれ、あえなく振り向かされた。
瀬野は体操服を着ていた。白い上着に、少し丈の短い青のハーフパンツ。胸の部分の布に、辛うじてふくらみを確認できる。対してその隣の櫻井は、上着を脱いで下着姿だった。
あふれんばかりの、圧倒的ともいえる双丘がブラジャーの中に窮屈そうに収まっていた。それは櫻井が僅かに身じろぎするだけで、別の生き物のようにぷるぷると揺れる。
……その、何だ。瀬野が可哀想になるな。そして眼福です。思わず見入っていると、ふいに櫻井が俺の上着をめくった。たっぷり一拍置いて、俺はか細く悲鳴をあげる。
「な――、なにする、ですか! ほのかさん、やっ、やめてくださいっ!」
「ふふっ……じっと胸を見てきたお返しかな」
「あうっ――」
――ぐっ、やはりばれてたか。目をそらすことで暗に降参を示すと、櫻井はくすくす笑った。別段、不快に思われたわけではないようなので安心するが、早く服を着てくれないか。目に毒で仕方ないぞ。
「千冬、早く着替えないと時間になっちゃうよ?」
「えっ? あ……うん……き、着替えないとですね……」
視界の端に映った下着姿の女子たちにも苦慮していると、瀬野が時計をさして言う。今日は屋外での授業なので、移動時間も考慮すると残りの猶予は三分ほど。たしかに急がないといけない……のだが。
櫻井と瀬野に見守られ、周囲からの少なくない注目を浴びる中、堂々と着替えるだけの度胸は俺にない。俯き、上着の裾に手をかけたところで硬直した俺は、上目で二人を窺った。
色っぽいタレ目に慈愛を滲ませる櫻井。物知り顔でうんうんと頷く瀬野。そんな二人を見て、何となく俺は覚悟を決めた。勢いにまかせ、上着を脱ぐと――女子が感嘆の声をあげた。
「わー、肌すごい綺麗だねー」
「ウエスト細いね。てか身体が細いなあ。うらやましい……」
「すごい華奢だよね、ご飯たべてるの? ……ダイエットとか、したことないんだろうね」
これほど女子に礼賛されながら、嬉しくないばかりか虚しくなることがあるだろうか。いや、ない。櫻井と瀬野は俺が下着だけになると、ぺたぺた身体中を触ってきた。くすぐったいが、我慢できないほどではない。
「――ひぅ!?」
「ち――千冬のほうが、大きい……!?」
瀬野に胸をもまれた。俺は泣いた。