怒りの日
今日もまた姉貴と一緒に家をでる。
学校に着くまでの道のりを、姉貴の背中にかくれて歩くのも変わらない。姉貴は呆れているのか諦めたのか、あるいは両方か。俺がそうすることに何も言わなくなった。これは俺の勝利といえるかもしれないな。実にしようもない勝利だ。
そうして学校に着くや否や、ねぶるように数多の視線が絡みついてきた。――な、何だ? やめてくれよ。女の身体になってからというもの、不躾な視線の的にされるのは茶飯事だが、今回のこれはそんなに生温くない。にぶい俺でもわかるほど、思春期の男の欲望やら独占欲やら、あるいは加虐欲みたいなものまでもが、そこに充溢していた。
そんな視線に耐え切れず、姉貴の腰にしがみついてしまった俺を誰が責められようか。姉貴にすがる俺をみて、男どもはさらに色めき立つ。こんな辱め同様の状況におかれ、男として情けないやら、恥ずかしいやら――でも何か一矢を報いなければと思い、男どもを睨むがそれは完璧に火に油をそそいだ形となった。
まあ、いまにも泣きそうな顔で睨まれて素直に引き下がるやつであれば、こうも直接的に欲望をぶつけてはこないだろうからな。
「……ち、千冬ちゃんが泣きそうだぞ……やりすぎたんじゃ……」
「いや、まだだ……それに見てみろ、あの顔を。すげえ、こう……いじめたくなる顔じゃん」
「はあ、かわいいなあ……このまま泣かせてみたいな――」
好き勝手いいやがる。でも怒る勇気もない。とうとう俺が顔をそむけるように姉貴の背中に押しつけ、ぎゅう、と密着せんばかりにしがみついたところで、
「――へえ、誰の妹を泣かせるの?」
――姉貴が怒った。
抑揚のない声の裏には、例外ない“死”を予感させるほどの激情が煮立っている。そして姉貴はおそらく遠巻きに俺を見ていた一人ひとりにいま、路傍のゴミでも見るような眼差しを向けているのだ。
美人というのは、万の怒号よりなお雄弁である。またたく間に周囲の興奮が冷め、凍てつき、等しく恐怖に覆われた。反抗する気概のある者など、誰一人現れない。
もはや「女帝」というより魔王とでも名乗るべき抜群の威力。弟ながらおそろしく、しかし同時に頼もしく思う。姉貴は一息つくと、数年ぶりに俺の頭を優しく撫でた。
昇降口につき自分の下駄箱を開けると、桜やハートのあしらわれた便箋が数十枚入っていた。心配して俺についてきた姉貴が、無表情でそのすべてを押収した。
そんな一幕を朝に挟んで、いまは昼休み。俺は昨日の約束どおり、櫻井と瀬野と机を並べて昼食を摂っていた。
朝の一幕はすぐに校内中に知れ渡り、男どもがよってたかって女の子を泣かせようとしたという事実は、大半の女生徒を義憤に駆らせたようだ。憔悴しきった様子でふらふらと教室に入ってきた俺を、クラスの女子は温かく迎えてくれた。俺はあの後、男が近寄るたび無意識にびくついてしまうので、男子生徒は半径五メートル以内まで近寄ってはならないという強制措置が執られた。
「でも千冬、本当に男たちの考えてることに気づいてなかったんだね……」
しみじみと瀬野が言う。俺は今日ようやく、昨日の男どもの不可解な行動に思い至ったのだ。要はあいつら……女の俺に惚れている。最悪だ。この世の地獄だ。男に戻りたい。
櫻井と瀬野は先ほど、苗字じゃよそよそしいからとの理由で俺を「千冬」と呼びはじめた。二人もまた俺に「ほのか」と「凜花」と呼ぶようにいってきたが、やっぱり気恥ずかしい。
「ず……ずっと療養していたので、ああいう視線を向けられることがあまりなくて……」
「そうねぇ。ふつう、あんな失礼に女の子を見ないもの。ここの男の子たちがおかしいのよ」
「そうそう。それにしても朝は酷かったね。よってたかって……本当、気持ち悪いったら」
俺がそれらしく理由を繕うと二人は心底軽蔑したように、一隅に集まった男どもを見やる。怒った女子たちに隅っこへおいやられたのだ。でもいまだに俺に欲望まる出しの視線をぶつけてくる輩もいるので、反省はしていないのだろう。つくづく懲りないが、しかし俺にそこまでの魅力があるのかまことに疑問である。それはさすがに女子にも訊けないからな。
俺が嘆息すると、櫻井がよしよしと頭を撫でてきた。まるで子ども扱いだが、実際に庇護されているのであながち間違いではない。
「う……」
「……でもなんか、いじめたくなる気持ち、少しわかる気もするなぁ……」
頬を朱に染めた俺に、櫻井はぼそっとそんなことを呟いた。やめろ、理解なんて示さないでくれ。