前夜
「そういえば、シン。明日からあんたも学校に行けることになったから」
晩飯の唐揚げをもぐもぐしていると、出し抜けに姉貴はそう言った。俺はとりあえず口の中のもの嚥下して、
「……また急だな。俺、一週間くらいは猶予があるもんだと思ってたけど」
「お祖父様が頑張ってくれたのよ。それであんたは、病弱で今まで家族と離れて療養していた妹って設定ね。そういうふうに先生たちにも話してあるらしいから、男と気づかれたくなければボロを出しちゃダメよ」
「ん、わかった。頭に入れとく」
俺の知らないところでそんな設定まで練ってたのか。まあ自分で考えるのも面倒だし享受することにして、俺はひとつの疑問を呈する。
「名前はどうすんのさ? そのままってわけにはいかないだろ」
「――千冬」
姉貴は長いまつげを伏せ、味噌汁をすすり、言った。
「あんたの名前は、これから外では二階堂 千冬。これもお祖父様が考えたようだから、大切にしなさい」
「……千冬……かぁ」
千颯と千冬で、いかにも“姉妹”らしい名前だな。
じい様が考えた名前というなら、大切にするのは吝かではなく。家の中では「シン」と呼ばれるのに変わりないようだし、心理的抵抗も少ない。
姉貴に限って呼び方をたがえることもないだろうから、名前に関しては俺が「千冬」と呼ばれるのに順応するのが先決だろう。
「あと、言葉づかいや普段の立ち振舞いも気をつけなさいよ。注目されたくないんならね。よほど面倒なことがあれば、私を頼ってくれてもいいわ」
「善処します……」
染みついた何気ない男の挙措はどうすることもできないので、最低限、言葉づかいは完璧にしないとな。
かといって女口調は無理だ。男としてプライドがある。……敬語で喋ることにするか、そうしよう。病弱で療養していた設定なら、つねに敬語でも怪訝に思われまい。たぶん。ついでにそれらしい素振りも勉強しておくか。
そうと決まれば練習だ。俺はこほんと一度咳払いをして、弱々しく儚げにほほえみながら、口を開く
「お姉ちゃん、ソース取ってください」
「……それ、やめといた方がいいわよ」
妙に真剣な声音で忠告された。あれ、気持ち悪いとか言われるものだと予想してたんだが、何だこの反応は。
今日はしっかり皿洗いの仕事をこなし、俺はいま入浴中だ。乳白色の湯船に肩まで浸かり、女になって初めての安息を満喫していた。
幸い濁ったお湯のおかげで身体は見えないので、考え事もはかどる。――俺は実際、男に戻れるのか?
いままで意識的に深慮しないでいた一番の懸案事項。俺はもしかすると、これから一生女のままかもしれない可能性について。
戻れないとしたら、どうしよう。いや……戻れるはず。戻ったところで何をしたいわけではないが、十数年をともにしてきた男の身体を一日二日で諦められるほど俺は悟っていない。
この身体は何かと不便で、重いものは持てないし、飯は全然食えないし、歩幅が小さいから歩くのにも時間がかかる。対人関係においては抜群に便利だけど、ちやほやされるのも結構疲れるのがわかった。
うん――そうだな、できれば男に戻りたいな。俺は自分の内心にそう整理をつけ、思考を明日のことへ切り換えた。
「学校か……」
早くも明日は学校だ。今日は火曜日で、土日を含めると四日ぶりの登校になる。そういや姉貴は俺のつきそいで二日学校を休んだのか。あとで謝っとかないと。
ともあれ、学校で数少ない友人に会えるのは楽しみだ。相手はこんな姿になった俺のことはわからないはずだし、また前のような友人関係を築けるかは不安だが、そんなのは些事である。
二度と会えないよりマシだ――そう思いこみ、俺は目をつむって湯船からあがった。手間ではあるが、姉貴に教えられたとおり丁寧に身体を拭いて、髪を乾かして、今日も早めに寝ることにしよう。
――思えば、そのとき俺はまだ、この身体になったことを楽観視していたのかもしれない。