破月.09
――そこで夢から覚めた。
朝、起きると兄さんが珍しく早起きをしていて、朝食が用意されていて、遅くまでゲームをしていた俺はソファーをベッドにして横になっていた。夜中に帰った兄さんがかけてくれたと思われる毛布が暖かい。
「おらー。おきれー」
テキパキガシャンと食器を並べながら、兄さんは俺を起こそうと話しかけていた。もう五分、なんて使い古された返答をしようと口を開く。
「――――」
声が出ない。
「―どうした? ケイス」
いつの間にか、兄さんは俺を見下ろすように立っていた。
「―――――ッ!?」
ソファーから起き上がろうとして、気が付く。俺は、いつの間にか兄さんの前で跪いていたのだ。
「僕は“オキロ”と言っているんだ」
「っ!」
思わず息を呑んだ。その時の兄さんの声は、本気で怒っている時の声だった。瞬間、ガラガラと音をたてて背景が崩れていく。
「逃げるな」
わしっと頭を掴まれて、ぐしゃぐしゃと撫でられる。俯いていた顔を上げ、俺は兄さんの顔を見た。と、今度は優しく微笑んで、しかし力強くこういった。
「お前には“助けられる”力がある」
兄さんの言っていることが分からない。赤黒く染まった世界で、同じような色に染まった左腕が脈打つ。
「大丈夫」
さっぱり分からない!! 何を根拠に大丈夫なんだよっ!! 俺にある力って、この“化け物の手”のことかよ!! 笑ってないで答えてくれよ!! そんなふうに声にならない声で叫ぶが、兄さんの気配はだんだんと遠ざかっていくだけだった。
「お前は、俺の弟だ」
最後に、それだけ言い残して、兄さんは消えた。そして、これが夢であることにようやく気付く。遠くで、雨の音が聞こえた。
―Blood*Beat―
耳障りな雨の音。覚醒していく意識。夢は、ほんの一瞬の出来事だったらしい。まだ、服は濡れきっていない。
「……」
左腕に目を落とす。直視するだけでぶり返してくる吐き気は、まだ何とか耐えられる程度だった。
俺は、何処で何を間違えたんだろう。項垂れたまま、後悔にも似た感情が押し寄せてくる。この場から逃げて、全てを見なかったことにして、いつもどおりの生活に戻ろうと、そんな考えが過ぎった時だ。
「逃げるな」
「…え?」
豪雨のなか、まだあどけなさの残るその声はハッキリと耳に届いた。小さな手が、俺の頭に置かれる。
「大丈夫」
ゆっくりと、頭を上げる。
「オマエは、トーマの弟だ」
そう言って、まだ中学生にもなっていないような少女が笑い掛けた。どこかで見たような、そんな気がした。
「キミ…は」
そうだ、確か昨日、俺はこの子を追いかけたんだ。それで、その後、俺は腕を…
「……」
立て、と。少女は俺を促した。別にダメージを受けていたわけでもない俺は、ようやく落ち着いて現状を見極めるほどの余裕を手に入れたらしい。
「…先輩ッ!!」
駆け寄ろうと踏み出すが、物凄い力で服を掴まれてしまう。
「何すんだ! 放してくれ!」
ぐいっと引っ張りかえすが、ビクともしない。むすっとして、少女は俺を睨んだままだった。
「落ち着け、無駄死にされてはこちらの面目が立たん」
「なっ!?」
…何だこのませた態度は!? 挙句にあきれた顔でこっちを見上げている。
「だいたい、勝算も無い、戦う術も知らない、状況もわからないでどうする?」
「…う」
「ただ突っ込むことが悪いわけではないが、今は得策とは言えないな」
放した手を組み、自分の言葉にうんうんと頷いている。
「じゃあどうしろと? というか、そもそもキミは――」
誰? と、聞き返そうとする俺を、少女は得意げに鼻を鳴らし一刺し指で制した。
「我を受け入れよ」
「断る」
即答した。そして先輩を助けるべく、俺は今度こそ駆け出す。
「おま、ちょ、待たんか!!」
「うおおぉおおおおッ!!」
気が付けば、今まさに先輩の身体を貫こうと、何本かの大剣が降って来ていた。駆けると同時に、昨日の夜のことを思い出す。襲って来る恐怖より、今は助けたい気持ちが勝っていた。
「やぁめぇ…ロォオオオオオオッ!!」
左腕を振りかぶり、そのまま殴るように突き出す。同時に、風を切るような音。それも一つではなく、幾重にも重なった斬撃のごとき凄まじさを持っていた。
「いけぇッ!!」
腕を覆うように発生した斬撃の塊は、降り注ぐ剣の悉くを粉砕する。一掃した後、バチンと、その嵐を発生させた“三つの爪”は、手首の辺りに収まった。
「先輩ッ!!」
一瞬で抱きかかえ、その場から離れる。高温の左腕に触れないように、右肩に担いで運ぶ。体制に躊躇いがあったが、今は気にしていられないと判断した。
「…っし! 救出成功だ! ザマミロ!」
屋上の入り口まで走りきる。つまらなそうに壁へ寄りかかっている少女に、俺は得意げに悪態をついた。
「…で? どうするのだ?」
「?」
意味がわからない。どうする? 何を? 先輩のことか? いや、そんな口ぶりではない。ちょいちょいと、人差し指で俺の背後を指差す。
「?……ッ!」
振り向いた先には、両手に自身の身長の倍はあろうかという大剣を持った殺人鬼がいた。早歩きで、不気味な笑みを浮かべるその様子は、おぞましさしか感じなかった。
「そら。また突撃するがいいさ。今度は相手もお前しか目に入っていないようだぞ? さっきの技でもやってみるがいい。…まぁ、すべて見切られて、お前の首が飛ぶだけだがな」
「くっ…」
出来ることならそうしていた。さっきは無我夢中で出来ただけの“ラッキーパンチ”だというのは重々承知だ。現に、さっきの爪は動かそうとしても何の反応も示してくれない。
「ほれ。どしたどした?」
物凄くムカついた。ぶん殴って黙らせた方がいいかと迷った。…でも、選択肢は残念なことに一つしかない。
「……んだ」
「?」
ワザとらしく小首をかしげる少女。確実に聞こえていた筈だが、俺はもう一度、大きく息を吸って叫んだ。
「どうすればいいんだッ!?」
「こう…するのさッ!!」
俺の“右腕”を掴み、少女は自らの鳩尾に押し付けた。ズブリ、とあまり気持ちの良くない感触が腕全体を包む。
「ば! 何してんだ!」
視界を遮る、眩い閃光。右腕に溶けてゆく少女。中指にはめられた兄さんの形見の指輪が、燃えるように熱い。
「知っているか?」
頭の中に少女の声が響く。
「これは、トーマが手にした“守る力”…」
―未来を拓く銀の鍵!!!
閃光が、瞬時に収まる。いや。右の掌に吸い込まれたのだ。
「アガート…ラーム」
人工物のような、機械的なフォルム。何の装飾も無いようなガントレットは、黄緑色の小さな光を表面に走らせていた。
いつの間にか雨は止み、また月明かりが顔を出す。
月明かりは、少し暖かかった。