破月.04
達騎と別れたあと、私、桜井キョウは屋上に向かうことにした。
「……」
案の定、誰一人居ない塔屋階。手摺の陰だけが床面に模様を描いていた。
少しだけ風が強い気がする。肩口まで伸びた髪が、ザァっという音とともになびいた。
「…寂しいな」
校庭を見下ろす。部活に励む生徒の影は無く、あるのは風に躍らされる木の葉ぐらいだった。
通り魔による殺人事件が始まってからというもの、この町では毎晩誰かが殺されている。警察も必死になって警戒網を張っているようだが、犯人はそれすら嘲笑うかのように犯行を繰り返していた。カニバリズム(特殊な精神状態における人肉捕食等の事)による犯行ということ意外は何の手がかりも無く、凶器と思われる刃物すら見つかってない。ただ、犯行時刻が日没以降、日の出未満であることから、こうして放課後の構内での活動は、生徒、教員ともに禁止されているのだ。
しばらく校庭を眺めていると、にぎやかな三人組(一人は引きずられている達騎だ)が、校門に向かって歩いていった。
「…トーマさん…」
達騎党真。私の兄弟子に値する人だ。
―Blood*Beat―
砕鬼流という武術道場を営んでいる私の家に、数年程前トーマさんは現れた。入門方法が分からなかったのか、入ってきた早々「たのもぉーう!」などと叫んだせいで道場破りに間違えられ、父に容赦なく打ちのめされていたのを覚えている。私は、その数日後に稽古を始めたばかりだったが、トーマさんは、そんな私に一撃も与えることが出来ないほど弱かった。そしてそれは、最後まで変わらなかった。
砕鬼流は空手に近い部分が多く、よく大会にも出場していた。もちろん、私やトーマさんも例外ではない。
ある日、小・中・高校生、一般とが出場する、大規模な大会での出来事だ。高校を卒業したばかりのトーマさんは、一般の部で出場。上達してきたその腕なら一回戦突破は容易かに思われた。
―そう、いつも通りの彼なら。
敷き詰められた畳の上に立つトーマさんは、まるで辺りが見えていないようだった。殺意に満ちた視線は、眼前の相手に向けられている。それに対して、相手の方は気持ち悪い笑みを浮かべながら、ゆっくりと帯を締めなおしていた。周囲の人間は、その些細な変化を気にもしない。父は、気が付いてはいるものの、腕組みをしたまま黙り込んでいた。
開始の合図が出される。同時に
「―――――」
トーマさんが何かを呟いていた。
「ならんッ!!」
父が叫ぶが、彼の耳には届いていない。
「――――ッ!!」
物凄い勢いで相手の懐に飛び込む。あの頃の私にはそこまでしか見切れなかったが、ただ、鼓膜が割れるかと思えるほどの轟音だけは、今でも鮮明に思い出せる。
対戦相手は重症。トーマさんは、以降の大会の出場停止。更には父に破門を言い渡された。「惜しい存在だった」と、父が何度もそう言っていたのを覚えている。
後に分かったことだが、あのとき対戦相手の男は、ケイスを人質にとってトーマさんを脅していたらしい。試合開始直前で、トーマさんの協力者(女性だったと聞いている)に助けられたようで、それを知った彼が、その男に容赦無い一撃を喰らわせたと言うのが、事の全貌だ。
「…手を抜いていたんですね」
私は道場を去ろうとするトーマさんを呼び止めた。今まで手合わせをしてきて、トーマさんは一度もあの技を出してこなかったことが、私に対して本気を出していないように思えて悔しかったからだ。年下だから、女だからという理由で手を抜いたのであれば、きっと私はこの人を殴り飛ばしたに違いない。
「手なんか抜いてないよ?」
苦笑いを浮かべたその顔は、明らかに嘘をついている顔だった。
「…キョウちゃんこそ、本気じゃなかったでしょ?」
すっと細めた目トーマさんは、冷笑を浮かべながら私に言った。
「ふ、ふざけるな!」
精一杯否定した。私はいつも本気だったと。手を抜いていたのはあなただったと。
「『年上が相手だし、負けてもいいや』…かな?」
僕と戦うとき、君はそんな風に考えていたんじゃないの?と、目が語っていた。
「ッ!?」
「その低度って事だよ。君が戦う理由は」
「…ちが…それは…」
言葉が詰まる。図星を突かれたからだ。言い返せない事が苛立ちを割り増しさせていく。その感情はどこに向けられるわけでもなく、ただただ涙として頬をつたっていった。ぼやけていく視界の中で、トーマさんはきびすを返した。
「本気じゃない人間に、僕は本気になれない」
「……」
私が戦う理由なんてのは、一人っ子で、あとを継ぐ人が居なかったから。親に薦められたから。いずれにしたって、私自身の意志が無いことは分かる。仕方ない、そう言い聞かせて今まで稽古をしていたが、この時ばかりはそうはいかなかった。
「…じゃあ!貴方はどうなんですか!?」
これは負け惜しみだ。この人が戦う理由は明白で、単純で、なにより強く、温かかった。そう…
「たった一人の家族を守る為」
あぁ、敵わないな。と、ようやく理解した瞬間だった。
「…ぅ……っ…く……うああああぁあっ!」
急に泣き出した私に、あの人はわたわたとうろたえていただろう。慰めようと何かを口にしていたが、今ではよく思い出せない。
なぜ、あの人は弟を守るために力を望んだのか。それだけは今でもわからなかった。
―Blood*Beat―
グッと、握った拳に目を落とす。
「…私は本気になれるんでしょうか?」
トーマさんに会うたびに、私はそう聞いていた。あの人はいつも「大丈夫」とだけ言って、自分より身長の高い私の頭をなでてくれた。が、そうやってやさしく笑ってくれる人はもういない。
あの頃からずっと、私は本気になれる理由を探している。あの人に負けない、立派な理由を見つけない限り、私のプライドが許してはくれないだろうから。
どのくらい物思いに更けていただろう。完全に日は沈み、月が昇っていた。
「…帰ろう」
立ち上がってから、スカートに付いた埃をはらう。空の鞄を持って、ウンと背を伸ばした。
―ドクン。
少しだけ強い風が吹いた。肩口まで伸びた髪が、ザァっという音とともになびく。
―ドクン。
振り向くべきか、一瞬だけ戸惑った。
―ドクン。
振り向かなければよかったと、少しだけ後悔した。
―ドクン。
月明かりを背にした脅威が、ニタリ、と、不気味に笑った。