破月.03
「わるかったね」
いやはや。とぼやきながら、先輩は軽く笑っている。陽が沈みかけているのか、辺りはオレンジ色に染まっていた。
「…早まる事なんて無いさ」
遠くを見るように、そして、遠くに話しかけるように先輩は言った。
「トーマさんを知る人は、誰一人として彼の悪口を言わない。君はその事を誇るだけでいいんだ。君が手を汚す事を、トーマさん自身は望んでない筈だからね」
“君が”の部分が少し強調されていた事が、少しひっかかる。俺以外なら許されるという意味なんだろうか?いや…
「…兄さんなら俺以外の人でも、ソレを望まないと思いますよ?」
「…なら、どうして君は…」
少しだけ強い口調で聞き返してきた先輩に、自分自身の矛盾した感覚に気付かされた。
一瞬言葉に詰まったけど、少し考えて納得のいく答えが出た。
「俺は、俺にしかなれない…から」
そう、俺は兄さんじゃない。
確かに、兄さんなら望まないだろう。復讐する事で何かが変わるとは思えないけど、でも…落ち着いてみると、復讐だけが動機とは思えない自分がいた。
「…なんてね。ぶっちゃけ、自分でもよく分かってないんです」
軽く笑って見せたけど、先輩はずっと遠くを見たままだった。
黙っていた先輩は、しばらくして「そうか」と言い残すと、放課後を告げるチャイムとともに立ち上がった。
「…よく考えた方がいい。…私が君に言えるのは、“いらぬ興味は捨てろ”という事だけだ。…止めても、無駄だろうからね」
「…助かります」
軽く肩をすくめると、先輩はのんびりと去っていった。あとに残された俺は、しばらくぼんやりと夕陽を眺める事にした。どうせルカ達が探しに来るだろうなんて思いながら、形見のリングを夕陽にかざす。鈍く反射する紅に、一瞬、目を細めた。
―Blood*Beat―
カァンカァンカァンカァン……
何度、私はここに来ただろうか。そう思いながら、少女はぼんやりと、通り過ぎる電車を見下ろしていた。後ろには、履いていた靴が並べられ、その上には一通の封筒が置かれている。
外そうかと迷っていた眼鏡は、やっぱりかけておくことにした。
誰一人として通行人は居ない。線路をまたいだ橋には、近くの遮断機のアラームだけがむなしく響いている。丁度、大通りに面した所に地下通路が出来てからというもの、回り道にしかならなくなったここは、有って無いような扱いになっっていた。
錆だらけの手摺に手をかける。じっとりと、手が汗ばんでいるのがわかった。
―ドクン。と、心臓が鳴る。飛び降りるという行為に、足がすくんでしまう。終わらせたいという思いと、終わってしまう恐怖。矛盾が、心の中をグチャグチャと音を立てて掻き回しているようだった。
「…どうしたら…」
痛々しい少女の叫びは、しかし、誰の耳にも届かないまま、遮断機の音にかき消された。
そして太陽は沈み、夜が来る。
朝日とともに目覚める者がいるように、夜の帳に身を起こす者がいる事を忘れてはいけない。
一つの身体に芽生えたもう一つの心は、ゆっくりと、少女の魂を蝕んでいった。