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第2章 竜が飛ぶとき、人は空を飛ぶべからず ③

 カノリデーの街の港は活気づいていた。船着き場には貨物船が入港し、日焼けした男たちが荷物を山積みにした台車を次々と船に積み込んでいる。煉瓦造りの店の軒先では恰幅の良い女性が入荷したばかりの魚を怒涛の勢いで売り捌いている。道行く人々はそんな日常風景を気にも留めず早足で石畳の道を歩いていく。

 カノリデーに限らず、アフォン川沿岸の街に住む人間にはせっかちな性格が多い。鮮度が命の魚介類を扱う人間が多いからだろうかと、この街のテンポの速い人通りを見る度にサンカリは思う。

「はい、ティテ」

 サンカリはフィッシュフライのサンドイッチをティテに手渡した。

「ありがとう」

 川沿いに並ぶ露店の中の一軒で買った物だ。焦げ目のついた胚芽パンに揚げたての白身魚のフライと新鮮なレタスが挟まれ、タルタルソースがこれでもかというほどたっぷりとかけられている。

 二人は並んで煉瓦の壁に背を預け、サンドイッチを頬張った。昨日の夜から何も食べていない。新鮮さでは比肩するもののないアフォン川の魚のフライは、一瞬だけでも様々な不安を吹き飛ばしてくれるくらい美味しかった。

「船の駅なんて初めて見たわ」

 ティテは激しい往来に目を奪われながら独り言のように呟いた。ここは貨物船の発着場でもあるが、旅客船の駅でもあった。

「アフォン川は支流も含めるとアフォンヒルグル全体に行き渡ってるからね。陸路よりずっと便利なんだ」

 カノリデーに着いてすぐ、サンカリは駅へとやって来て切符を二枚買った。カノリデーからはアフォンヒルグルのあらゆる場所への定期便が発着している。シーヴェンたちを探すのにも、黒服たちから逃げるのにも、どこへ向かうにしても最適な場所であった。それに、商船や貨物船が多く行きかうアフォン川では情報の伝達も早く、どこの駅でも検問の情報はすぐに手に入る。カノリデー以西は川の枝分かれが多く、その分だけ港駅も増える。乗り換えを継いでいけば黒服たちと遭遇せずに移動することも出来るはずだとサンカリは考えていた。

 サンカリたちの目の前を人々が右へ左へと通り過ぎていく。船が到着すると、乗っていた人たちが駅から出てきて、カノリデーの中心街へと消えていく。それと同じくらい多くの人々が駅舎へと吸い込まれていく。やがて、船が出発する。その繰り返しだ。

「それで、ティテ。話の続きを聞かせてよ」

 ティテは、あ、そっか、という表情になって、

「あいつらのせいで、途中で止まっちゃってたもんね」

 サンドイッチからはみ出たレタスを咀嚼して、話し始めた。



 ◇     ◆     ◇     ◆



「なんなの、あいつら!」

 ティテはトゥスクの背中の上で叫んだ。

「トゥスク、撃たれたわよね! 大丈夫なの!?」

「大丈夫。あの程度では僕の鱗には傷一つつかないよ」

 トゥスクは極めて冷静で、明日の天気の話でもするような穏やかな物言いだった。

「誰なのか分からないけど、危険な奴らみたいだね。このまま安全なところまで避難しよう」

 トゥスクは碧色の翼をはためかせ、さらに高度を上げた。

「僕の翼の間に窪んでいるところがあるでしょう。そこに入って動かないようにしていて。そこなら僕の力で君を守ることが出来る」

 ティテが言われるままトゥスクの背中を這っていくと、たしかに誂えたように入り込むのにぴったりの大きさの窪みがあった。窪みの中に入ると、風の強さや寒さを感じなくなった。まるで結界でも張られているみたいだった。

 ティテはトゥスクの首に手を回してしっかりとしがみつき、そっと下を見下ろした。湖の透明なブルーと茶褐色の岩肌がどこまでも続くスィンクリルの景色だった。トゥスクが空を飛べるなんて、初めて知った。

 ぴくり、とトゥスクの耳が動いた。

「雲の中に何かいる」

「え?」

 トゥスクは首を動かさず視線だけを上に向け、警戒するように目を細めた。ティテも空を見上げた。分厚い灰色の雲がいくつも浮かんでいる。スィンクリルらしくない陰鬱な雲。その向こう側。鯨のようなずんぐりとして鈍重な、しかし機械的で人工的なシルエットが見えた。

 エンジンとプロペラの音を轟かせながら、それは姿を現した。

「飛行艇……。こんなところに?」

 巨大な飛行艇がスィンクリルの湖に影を落としていた。街で見たことのある観光用の定期便よりもずっと大きくて無骨なデザインをしている。上部や底面には大小様々なサイズのプロペラと砲塔が並び、後部には巨大な尾翼とエンジンの排気口がついている。それが鯨だとしたら目に当たる位置に黄金の剣の紋章が描かれていた。そして何よりも特徴的なのは──。

「黒い飛行艇……」

 その飛行艇の全身は真っ黒だった。船体も砲塔も尾翼も何もかもが。黄金の剣だけがまるで獲物を狙う猛獣の眼のように煌々としていた。

 砲塔が火を噴いた。

 ひゅごっ、という聞いたことのない苛烈な音とともに、ティテの顔ほどもある大きさの黒い鉄の塊が凄まじい速さで飛び抜けていった。砲塔からは灰色の煙が立ち上った。空気が振動し、ティテは頬がびりびりと震えるのを感じた。

「撃ってきた! 撃ってきたよ、トゥスク!」

「大丈夫。しっかり掴まってて」

 トゥスクの声が砲撃音に紛れてかすかに聞こえた。こんな状況でも彼の声は落ち着き払っていて、ティテは少しだけ落ち着くことが出来た。

 トゥスクは翼を広げ、風を受けた。立て続けに飛来する砲弾の隙間を、滑るように上下左右へと飛び回る。

「きゃああああ!」

 大地が頭上に現れ、空を横目に見て、ティテは思わず叫んだ。それでも無事でいられたのは、トゥスクの背中の結界のおかげだった。

「口を閉じていて。舌を噛むよ」

 生きた心地がしなかった。しかし、ティテはトゥスクの言いつけを守り、ぎゅっと口を閉じ、目も同じくらい固く閉じ、トゥスクの背に必死でしがみついていた。

「もう少しで射程範囲を抜ける」

 何度目かの砲撃とトゥスクの急旋回のあと、彼の緊迫しながらも安堵した声が聞こえた。ティテは目を開けた。いつの間にかティテたちと飛行艇の距離はだいぶ離れていた。トゥスクの首の鱗に食い込ませていた指先は力の込めすぎで真っ赤になっていた。

 トゥスクの言葉どおり、砲撃の届かない距離になったせいか、飛行艇の砲塔群は火を吹くのを止めた。相変わらずエンジン音とプロペラが回転する音は聞こえていたが、それよりも高空の風の音のほうが大きく聞こえるようになった。

「このまま安全なところまで飛ぶよ」

「うん」

 トゥスクの言葉に、ティテは感覚のなくなりかけている指先になおも力を込めた。

 ぴくりとトゥスクの耳が動いた。彼の全身に緊張が走ったのが、ティテには分かった。トゥスクは眼球を人間では不可能な方向まで動かし、後方の黒い飛行艇を睨んだ。彼女も振り返り、飛行艇の様子を窺った。

 飛行艇の下部中央から細長い角棒のようなものが伸びた。棒には赤や青のケーブルが絡みつき、棒の根元には虫の羽のような形の金属製のパーツが六つ。根元、中ほど、先端の三か所に黄色いランプが点滅している。先端は角棒と同じ形の穴が開いている。随分と独特の形状をしているが、おそらくは砲塔だろう。少なくとも、物騒なものであることは間違いない。

「……なんだ?」

 トゥスクが訝る声を発した。それとほぼ同時だった。

 稲妻が走った。そうとしか形容のしようがない現象だった。飛行艇の細い砲塔から放たれたのは、重い金属の弾丸ではなく、凄まじい光と音だった。

「きゃああああ!」

 光はまるで生き物のように不規則に無軌道に縦横無尽に雲の間を駆け抜け、しかし驚くべき速さで、明確な殺意を伴って、一人と一匹の命を奪おうとしてきた。

「なんだ!? なんなんだ!?」

 砲弾の雨の中を飛んでいるときにも決して乱れなかったトゥスクの語調に初めて焦りが含まれた。

 トゥスクは再び縦横無尽に空を駆け始めた。しかし、その飛び方は先ほどまでとは違った。金属の砲弾を相手にしているときは、動きは激しくともトゥスクの心は落ち着いていた。だから、ティテは恐怖こそ感じていたものの絶対に安全だという確信はあった。トゥスクに任せれば大丈夫だと思えたからだ。しかし、今は違う。トゥスクの動きには明らかな動揺が現れていた。

「トゥスク! トゥスク!」

 ティテは訳もなく友の名を叫んだ。名状しがたい不安が、空を引き裂く殺意の光とともに這い寄ってきていた。

「ぐっ!」

 ぱぁん! という破裂音とトゥスクの声が同時に聞こえた。先ほどまで目まぐるしく動いていた世界が急に止まり、そして次の瞬間には灰色の雲と青い空が猛スピードで上へと昇っていく。いや、ティテと、彼女を乗せたトゥスクが落下しているのだった。

「きゃあああああああ!」

 ティテの鼻腔に焦げ臭いにおいが届いた。飛行艇から放たれた稲妻がトゥスクに直撃したのだ。

 眉間の辺りがびりびりと騒いだ。うっすら目を開けると、ごつごつとした岩の地表がどんどん近づいてきていた。もう駄目だ。ティテは意識が遠くなるのを感じて、目を閉じ、トゥスクの首に顔をうずめた。

 ──ティテ!

 彼女の大切な友が自分の名を呼ぶのが聞こえた気がした。すると、不思議なことが起こった。ティテを緑色の薄い膜が包み込んだ。地面への急接近が止まった。ティテを覆った緑色の膜はシャボン玉のように浮かんだ。重力に逆らってふわふわと漂ったかと思うと、少しずつ上昇し始めた。しかし、それはティテだけだった。緑色の膜に包まれたティテだけが、トゥスクの背を離れ、一人だけで空に昇り始めたのだ。

 薄れゆく意識の中でティテが最後に見たのは、雲の中へと落ちていくトゥスクの姿だった。

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