第2章 竜が飛ぶとき、人は空を飛ぶべからず ①
アフォンヒルグルという地名は、そこを流れるアフォン川に由来する。アフォン川には、東西に横断する本流とそこから枝分かれした無数の支流が存在しており、旅客船や貨物船の輸送路として、アフォンヒルグルの人々の生活を支えている。
夜明け間もない薄暗い中で、アフォン川の支流を一艘の細長い船が進んでいた。
船は積載量ぎりぎりまでコンテナを積み込み、白い煙をもくもくと吐き出しながらゆるやかに川を下った。操舵室では、船の形とよく似た細面の男が煙草を口に咥えたまま慣れた手つきで舵輪を握っていた。男はベネミスといった。ベネミスは操舵主だった。そして船長でもあった。船員はベネミス一人だけなのだった。
サンカリとティテは、その船のエンジン室にいた。
「……そっか。それで、私を助けてくれたのね」
サンカリから経緯を聞き終えたティテは納得がいった様子で頷いた。二人とも衣服は身に着けておらず、白い大きな毛布に体を包んでいる。脱いだ服は壁に張ったロープに吊るされ、エンジンの排気熱にはためいていた。
トライクごと川へ落ちたあと、最初に通りかかった船が知り合いのベネミスのものだったのは幸いだった。川底へ沈んでいくトライクを乗り捨てて、濡れた体を引きずって川岸を歩いていたところをベネミスの船に拾われ、港町であるカノリデーまで同乗させてもらうことにしたのだ。ベネミスの航路上にたまたまカノリデーがあったことも幸運だった。
沈んだトライクはもう使い物にはならないだろう。イーサが長年かけて少しずつ改造したお気に入りだったのに。何と言って謝ろうか、サンカリは頭を悩ませていた。
「シーヴェンはどこへ飛んでいったのかしら」
ティテは目を伏せて考え込んだ。狭いエンジン室の中では駆動機が轟々とやかましく音を立てており、顔を近づけて大声を出さなければ相手の声が聞こえない。
「分からない。でも、もしかしたらティテの竜を探しに行ったのかもしれない。なんとなく、そんな気がするんだ」
言葉どおり、気がするだけだ。シーヴェンがそう言ったわけではないし、他の根拠があるわけでもない。だが、虹の石を握りしめるとその推測に確信が持てた。
「おーい、サンカリ。服乾いたか?」
頭上から声がかかった。天井のハッチが開き、ベネミスが舵輪を握ったまま顔を覗かせた。
「そろそろ川の流れに乗れるから、エンジンの出力下げちまうぞ」
「うん、大丈夫。ありがとう、ベネミスさん」
「気にすんなよ。しかし、お前が女の子連れとは、大きくなったもんだな。こないだまで子どもだと思ってたのによ」
ベネミスは視線を前方から外さないまま、悪戯っぽくからかうように笑った。
「だから、そんなんじゃないってば!」
サンカリの抗議を、ベネミスは笑い飛ばすだけでさっさとハッチを閉じてしまった。
「まったく、何度も何度も!」
サンカリとベネミスは、船に拾い上げられたときとエンジン室を借りたときの二回、同じやり取りを繰り返していた。
間もなく、エンジンから吐き出される熱風が和らぎ、室内の轟音が落ち着いた。
「だいぶ乾いたみたいね」
ティテは吊るされた衣服の状態を確かめ、手早く回収すると、サンカリの服を彼に渡し、自分の分を胸に抱えて駆動機の裏へと駆け込んだ。
「着替えるから、あっち向いてて」
サンカリの位置からティテの姿は全く見えないのだから、彼女の言葉に従う必要はないのだが、サンカリは馬鹿正直にその場で回れ右をして壁面に向かって着替え始めた。
背後でぱらりと衣擦れの音がした。こんなことならエンジンが動いているうちに着替えるんだったな。サンカリは自分の顔が熱くなるのを感じた。
「そういえば、ここってアフォンヒルグルなのよね?」
「うん、そうだよ」
「随分遠くまで来ちゃったんだわ」
「ティテはどこから来たの?」
「スィンクリルよ。知ってる?」
ティテはエンジンの影から顔を出した。もう着替えは終わったようだ。
「スィンクリル? 山の中に湖がいっぱいあるところだよね? ここからずっと南東のほうじゃないか」
「そう。その湖の一つの近くに、私は祖母とトゥスクと暮らしてた」
◇ ◆ ◇ ◆
スィンクリルには、湧水が溜まってできた湖が数多くある。
ティテの住む家のすぐそばには、ひと際大きな湖があった。その湖は中央に小さな島のあるドーナツ状の湖だった。湖畔には簡素な船着き場があり、中央の島にも同じような船着き場があった。
ティテは毎日、船を自分で漕いで中央の島へ通っていた。
島の船着き場には木製の小さなラックが置いてあり、中には桶やブラシ、布巾などが整頓されて置かれている。ティテは桶を取り出し、湖から冷たい水を汲んだ。
太陽は出ていたが、空には小さくて分厚い雲がいくつも浮かび、日の光はあまり差さない。鏡面のような湖は鈍い雲の色を映し込んで、どことなく気怠そうだった。嫌な天気だ。
島には、小さいがよく手入れされた小屋が建っていた。ティテは重い桶を抱えて小屋へ向かった。
「おはよう! トゥスク!」
ティテは扉を勢いよく開けると、陰鬱な空模様を吹き飛ばすような声で小屋の中の友に声をかけた。
内部に仕切りは一切なく、大きな部屋が一つあるだけ。天井も壁も同じ種類の木から切り出された薄張りの板一枚だけの心もとない造りで、湖の湿気のせいで内部の空気はひんやりとしている。四方の壁の上部にはめ殺しの窓が設けられていて、そこから申し訳程度の明かりが差し込んでいるが、人間が快適に暮らすには仄暗く、湖の底のような空気が漂っている。
その一番奥にトゥスクはいた。
「おはよう、ティテ」
両手両足を折りたたんだ礼儀正しい格好で座る彼は、低く落ち着いた声で返事をした。
トゥスクの碧い鱗が微々たる日光に照らされて透き通るように輝いている。まるでスィンクリルの湖のようだと、ティテはトゥスクの姿を見る度に思う。
トゥスクの傍らに桶を置き、浸けておいた布巾をきつく絞った。
「もうすぐ天気が崩れるかもしれないね。あまり良くない音が聞こえる」
「雨が降るの? どうしよう。洗濯物、干しっ放しで来ちゃったよ」
「大丈夫。降るとしても、たぶん午後からだよ」
それなら安心だ。トゥスクの耳に雨の音が聞こえるのなら、雨は必ず降る。そして、トゥスクが午後から降ると言うのなら、絶対に午前のうちは降らない。外界との接触を断ち、昼夜を問わず小屋の中で過ごすトゥスクの耳は、ティテには聞くことの出来ない音を捉えることが出来た。ティテの知る限り、彼が音の聞き分けをし損ねたことは一度もなかった。
「よし、拭くよ、トゥスク」
「よろしく」
ティテは湖の水で冷えた布巾をトゥスクの首元に押しつけ、鱗の一枚一枚を磨くように丁寧に拭いていった。ティテの手のひらがトゥスクの鱗の上を滑る度、彼の鋭角的な顔つきに不釣り合いなかわいらしい鼻がぴくぴくと動いた。
布巾がトゥスクの体温で温まってしまったら、桶の水に布巾を浸けて冷やす。彼の長い首をすべて拭き終えるまで、ティテはそれを何度も繰り返す。これが彼女の日課だった。
「誰か来る」
ぴくり、とトゥスクが耳を動かした。
「え?」
「船が近づいてくる」
トゥスクの声には警戒の感情が含まれていた。付近には住居の一軒もない。ましてや、ここは湖のど真ん中の島。外部の人間が立ち入るような場所ではない。
小屋の扉がゆっくりと開いた。ティテ以外の人間に動かされたのは久しぶりの扉がぎいと軋んだ。
男が立っていた。詰襟の黒服を着た痩躯の男。骨ばった顎が一番上まできっちりと留められたボタンの上で窮屈そうにしている。右側の襟元には黄金の剣の徽章。左には三つの星と三本の直線を組み合わせたデザインの徽章。しっかりした作りの天井と庇を持つ黒い帽子を小脇に抱えていた。帽子の前面にも襟元のものと同じ黄金の剣の徽章が取りつけられている。制帽だ。同じ格好をした部下らしき二名(左の襟元の星と直線の数がそれぞれ違った)を引き連れていた。
「失礼」
痩躯の男は欠片も失礼とは思っていなさそうな口調で一声かけてから無遠慮に小屋へ入ってきて、ティテへ不遜な視線を投げつけた。神経質で細かいことに拘りそうな刺々しい目つきだった。ティテは自分が好き嫌いの激しい人間だと自覚していた。そして、男は間違いなく嫌いなタイプの人間であると直感した。
「おばあ様と二人暮らしと聞いていたが、不在かな。ここに来る前に家にも寄ったんだが、そちらにも誰もいなかったのだがね」
「祖母なら昨日から街へ買い出しに行ってます。戻るのはたぶん明日になると思います」
「そうか、それは好都合」
ティテは男の相手を見下した目つきに苛立ちを感じて、わざと不愛想に答えたが、男は意に介した様子もなく悠然と頷いた。
「どちらさまでしょうか? 祖母のお知合いですか?」
男はティテの問いには答えず、それどころかまるでティテの存在そのものを無視するかのように、さらに一歩、踏み込んできた。室内をゆっくりと見回し、最後にトゥスクの姿を捉えると、男はかっと目を見開かせた。欲望を剥き出しにしたその表情に、ティテは嫌悪感を抱かずにはいられず、露骨に眉根を寄せてしかめっ面を作った。
「何の用ですか?」
ティテは、トゥスクを庇うように男の視線に割って入った。自分の声に敵対心がありありと現れていることに気づいていたが、もう隠す気にはならなかった。
男はぎょろりと眼球だけを動かしてティテの姿を認めると上着の懐へと手を滑り込ませた。真っ黒な何かを取り出した。
「え?」
ティテがそれを何なのかを理解するよりも早く、トゥスクが動いた。
「ティテ!」
トゥスクは驚くべき速さで立ち上がり、長い尻尾を振り回した。風が巻き起こり、埃が舞い、薄い木板の壁がびりびりと震えた。二人の部下はにわかに浮き足立って後退したが、痩躯の男だけは、驚いた様子もなく、落ち着き払っていた。
「ティテ、乗って!」
ティテと男たちの間に割って入る格好になったトゥスクが叫んだ。ティテは訳も分からないまま彼の背にしがみついた。
男が手にした黒い物が火を噴いた。ティテはやっとそれが拳銃だと気づいた。男は正確にトゥスクの顔面を狙ったようだった。しかし、金属同士がぶつかるような音を立てただけで竜の鱗には傷一つつかない。
クアアアアアアアアアアア
トゥスクは咆哮とともに浮かび上がった。薄い板の屋根を弾き飛ばし、ティテを乗せたまま空へ駆け出した。




