第1章 竜守の少年 ②
サンカリの家は森の中にぽつんと一軒だけ建っている。今では珍しい木製の平屋である。サンカリの先祖がここで暮らし始めてから幾度もの改修や建て替えを繰り返しているらしいが、それでもなお外観は古臭い。屋根は苔むし、壁面には蔦が絡まり、遠目ではどこが建物なのか分からないほど自然と調和している家だった。もちろん、ここでいう「調和」とは褒め言葉ではない。
サンカリが家に戻ると、玄関先にトライクが停まっていた。トライクのハンドルのアクセルグリップには竜の翼の形の石がぶら下がっている。虹の石を模してサンカリが削り出した物だった。
サンカリは玄関扉に近づいた。ギターの音色がドア越しに聞こえてきた。そっと扉を開けた。家を入ってすぐのところはリビング兼キッチンとなっており、部屋の中央のテーブルに大量の荷物が置かれている。そこで、父のイーサが椅子に腰かけてギターを弾いていた。
サンカリはイーサの隣の椅子に座った。イーサはサンカリに気づくと、演奏を続けたままサンカリに優しく微笑みかけた。
左手がギターのネックを大胆に移動し、右手の太い指は驚くほど繊細に弦を弾く。力強さと優しさが同居した音色の隙間から、ほんのわずかにもの悲しさが見え隠れする。そんな音だ。母はこの演奏が大好きだったという。だからだろうか、演奏を通じて母をも感じられる気がするのだ。
一曲弾き終えると、イーサはギターを置いた。
「ただいま、サンカリ」
「お帰り、父さん!」
イーサは両腕を広げた。サンカリは父の懐に飛び込んだ。
「いつ戻ってきたの?」
「たった今だ」
イーサの日焼けした手がサンカリの頭を撫でた。父の手はサンカリの頭がすっぽりと包み込まれてしまうほど大きい。重労働で使い込まれた手のひらは荒れて固くなっていて、サンカリの頭には少し痛いくらいだったが、父の手つきはそれ以上の柔らかな優しさと思いやりに満ちていた。
「ちょっと見ない間に、また背が伸びたな」
サンカリは、へへ、と笑って父の胸に顔をうずめた。潮の香りがうっすらとした。
「いつまでいられるの? また、とんぼ返り?」
「いや、今回は少し長めに休みをもらえたから、しばらくはいるぞ」
イーサはカノリデーという町の港で働いている。普段はそこで暮らし、収入とそれで得た生活用品を家に戻ってサンカリに渡す、という生活をしている。つまりは出稼ぎである。テーブルの上に置いてある荷物は、食料品、調味料、灯油、包帯、蝋燭など、イーサが今回の出稼ぎで購入してきた品々である。
「食料は足りてるか? 燃料は?」
「ご飯は平気。灯油は、ちょっとぎりぎりだけど、明かりをこまめに消せば、なんとかなるよ」
「苦労をかけるな」
イーサは肩を落とした。
「かつては竜守というだけで周辺住民からの寄付や供物で生活が潤っていたような時代もあったと聞くが、今ではここに竜がいることもほとんど知られていない。時代が違えば、お前にもっと楽をさせてやれたかもしれないのに」
「大丈夫だよ。節約するのって結構楽しいよ。それに、父さんだって、そうやってたんでしょ?」
サンカリが生まれたとき、既に祖父は亡くなっていた。母も産後の肥立ちが悪く間もなく亡くなったという。サンカリが竜守を継ぐまでの間、父は家計を支えながら竜守の役目を全うした。サンカリの祖父もイーサに竜守の座を譲ってからは出稼ぎで生活を支える役目を貫いたという。サンカリも、いずれはそういう生き方をするようになるのだろう。
「他の竜と竜守がどこにいるのかも、そもそも今でも生き残っているのかも分からない。もしかしたら、我々が世界で最後の竜守なのかもしれないな」
「だったら、なおさら頑張らないと」
サンカリの家系の歴史は竜守の歴史と同義だ。祖先はシーヴェンとともにアフォンヒルグルの地に居を構えた。それから代々、サンカリの家計は竜守として生きてきた。竜とともに生きよ。その言葉を守り続けてきた。
「竜守は竜とともに生きるものだから。シーヴェンがいる限り、竜守の役目は受け継いでいかないとね」
イーサは包み込むような笑顔を覗かせた。
「父さんがいくつのときに竜守になったか話したことがあったかな?」
「ううん、聞いたことない」
「二十四歳のときだ」
今から十八年前のことということになる。サンカリは頭の中で父の現在の年齢と引き算をした。
「お前が父さんより十歳以上も若くして竜守になった理由が分かった気がするよ」
イーサはサンカリの頭をくしゃくしゃともう一度撫でた。サンカリには父の言葉の意味がよく分からなかったが、とにかく褒めてもらえたので、彼は笑顔になった。
イーサは再びギターを抱えて椅子に腰かけた。
「さて、もう一曲ぐらい何か弾こうか。何が良い? サンカリ」
「何でも! 父さんに任せるよ」
「そうか? それじゃあ……」
イーサの言葉の後半は聞き取れなかった。空を切り裂くような凄まじい音が鳴り響き、イーサの声を掻き消したからだ。
クアアアアアアアアアアア
尋常ならざる事態を感じさせる音だった。窓ガラスが震えた。空気が振動しているのだ。
「なんだ? 飛行艇でも墜落したのか?」
サンカリは弾かれたように立ち上がり、駆け出した。
「サンカリ!? どうしたんだ!」
聞いたことのない音だった。彼がそんな風に鳴いたことはないからだ。しかし、サンカリにはすぐに分かった。あの声は間違いなくシーヴェンだと。
サンカリは家を飛び出し、森を駆け抜け、洞窟へ飛び込んだ。ランプの火は消してあった。通路は暗く、自分の足もほとんど見えない。凹凸の激しい地面と曲がりくねった岩壁が続くが、毎日歩いてきた慣れ親しんだ道を踏み外すことはなかった。
クアアアアアアアアアアア
二度目の咆哮が聞こえた。鼓膜が破れるのではないかと思うほどの爆音に、サンカリはたまらず両手で耳を塞いだ。
「シーヴェン!」
竜の寝床に飛び込み、サンカリは友の名を叫んだ。
シーヴェンは藁の上に二本足で立ち、空を見上げていた。サンカリの呼びかけには応えず、ただ視線のみを動かしてサンカリを見やる。炯炯とした目つきと鋭い牙を隠そうともしない。今まで見てきたシーヴェンのどの表情よりも険しく、猛々しいものだった。
「シーヴェン! 一体どうしたの!」
サンカリの必死の呼びかけにもシーヴェンは応えない。
「とうとうこのときが来たか」
シーヴェンは、ほとんど聞き取れないほど小さな声で呟き、翼を広げ、そして、
クアアアアアアアアアアア
三度目の咆哮とともに翼をはためかせた。
「うわ!」
風が巻き起こり、つぶれた藁や細かい砂礫が容赦なくサンカリに襲いかかった。
ふわりと浮かび上がったシーヴェンの体は、次の瞬間には天井の穴を抜け、空の向こうへと姿を消した。
「シーヴェン!」
竜の姿はもう見えなかった。舞い上がった砂埃がぱらぱらと落ちてきた。




