第1章 竜守の少年 ①
サンカリは岩壁に取りつけられたランプに火を入れた。
ランプは一年ほど前にサンカリが取りつけた物だ。
シーヴェンの住む洞窟は、深くはないが曲がりくねっているので、昼間でも明かりが必須だ。にもかかわらず代々の竜守が松明を使い続けていたのは何故だろうと、不思議で仕方がない。
サンカリは朝ご飯の入った鞄を肩から提げ、新しい藁の束を担いで洞窟の最深部まで歩いていった。
天井の穴から差し込む日光に当たりながら、シーヴェンが穏やかに寝息を立てていた。
「シーヴェン、朝だよ!」
藁の束を放り出し、備え置きのブラシを手に取って、彼の鼻の頭を擦り上げる。
「ほらほら、起きて! 朝だよ!」
「んー……」
シーヴェンは「やめてよぉ」と寝ぼけた声を出すが、サンカリは遠慮なくブラシを動かした。ブラシは飛行艇の甲板を掃除するための物で、先端がものすごく硬い。人間の肌に同じ事をしようものなら、たちまち赤く腫れ上がってしまうが、シーヴェンにとってはこれぐらいのほうが気持ち良いのだ。
「分かったよ、起きる。起きるから」
シーヴェンはやっと瞼を上げ、宝石のように美しい瞳でサンカリを見た。
「おはよう、シーヴェン」
「おはよ──くあー」シーヴェンの挨拶は途中から欠伸に変わった。
「今日は交換の日だよ。どいてどいて」
シーヴェンは「どっこいしょ」と立ち上がった。太くて短い首をぶるぶると回して体から尻尾までを振るう。腹についていた藁がぱらぱらと落ちた。
サンカリは鞄を洞窟の片隅に置き、ブラシをフォークに持ち替え、のそのそと四本足で動き出した竜の尻尾をかいくぐって、藁の山の中へと足を踏み入れた。シーヴェンの重みですっかりぺちゃんこになってしまった藁を思い切り掻き出していく。古い藁が綺麗に片づくと、新しい藁を敷き詰めていった。十分と経たずに、平べったい古藁の寝床がふかふかの新藁のベッドに生まれ変わった。
「戻って良いよ」
サンカリに促され、シーヴェンは定位置に座り込んだ。顎や尻尾の置き場所を何度か調節して、やがて目を細めて笑い、満足そうに鼻息を吐き出した。
サンカリはブラシを持って、丸くなっているシーヴェンの背中によじ登った。首と翼の中間あたりにブラシの先端を当てると力を込めて擦り始めた。
竜の毛は、先端のほうこそ高級なクッションのように柔らかで心地良い手触りだが、根元に近づくにつれ、まるで鋼線のような硬さを持つようになる。だから、ブラシは硬いほど良い。
サンカリブラシを動かすたびにシーヴェンの尻尾がぱたぱたと揺れた。
「くあー」不意にシーヴェンが口を開け、大きな欠伸をした。
「うわっと!」背中が揺れて、サンカリは危うく落ちそうになる。サンカリはブラシの柄でシーヴェンの背をつついた。「ちょっと、シーヴェン! 毛繕いのときに欠伸しないでっていつも言ってるでしょ!」
「ごめんごめん」
シーヴェンはあまり悪びれた様子もなく、欠伸を噛み殺した。サンカリは重ねて文句の一つも述べてやろうと口を開いたが、思い直して止めた。どうせ言ったって聞きやしない。
ブラッシングの道具は様々な物を試してみた。竹箒、熊手、街の港で掃除用に使われていたブラシ(管理人と仲良くなってわざわざ一本譲ってもらった)、棒の先端に動物の毛繕い用のブラシを取りつけて自作してみたこともある(すぐに壊れた)。しかし、飛行艇の甲板用のデッキブラシがシーヴェンの一番のお気に入りだった。
「よし、終了!」
尻尾の付け根までのブラッシングを終えたサンカリは、ブラシを放り投げて、シーヴェンの背中へと倒れ込んだ。シーヴェンの翼の付け根は大きく窪んでいて、そこはサンカリが寝転ぶのにちょうど良い広さだった。
「んー」
手足をぴんと伸ばして強張った筋肉をほぐし、シーヴェンの背中に顔をうずめた。シーヴェンの翼がサンカリの顔を覆い、直射日光を遮った。シーヴェンの背中は日向の匂いがした。ほのかな暖かさに包まれて、眠ってしまいそうな心地良さだ。
シーヴェンの尻尾が揺れて、地面を叩くぱたぱたという音だけが響いた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
シーヴェンが重そうな頭を持ち上げ、尻尾を一振りした。
「よし、行こう」
サンカリはシーヴェンの背から降りて、置いてあった鞄を提げ直した。シーヴェンの背によじ登り、ずんぐりした首に両手を回してしがみついた。
シーヴェンは四本足でのそりと立ち上がり、翼を天に向けて雄々しく広げた。そして、大きく一度、羽ばたく。翼が太陽の光を乱反射して、サンカリの視界が一瞬、真っ白になる。その間に、世界が下に動いた。
シーヴェンの巨体が、サンカリを乗せたまま、少しずつ浮かび上がった。
「行くよ、サンカリ!」
シーヴェンは大きく翼をはためかせ、空へ向けて駆けた。洞窟の天井に開いた穴へ真っ直ぐに。シーヴェンを中心に猛烈な気流が巻き起こり、次の瞬間には青空の上に到達していた。
太陽はほぼ南中している。雲一つない空は澱みのない透き通った青。髪を揺らす程度の小風。空を飛ぶにはうってつけの日だった。
シーヴェンは両翼を広げ、風に身を委ねて、空の上を滑るように飛んだ。空駆けるシーヴェンの周囲には猛烈な対流が起こり、その背に乗るサンカリは本来なら激しい風に晒されて吹き飛ばされてしまう。しかし、竜の背の窪みにすっぽりと収まった彼のところにその風が届くことはない。サンカリはシーヴェンの不思議な力に守られているのだった。
見渡す限り、森と平野が続いている。サンカリの住むアフォンヒルグルは平野が多い地方だが、この辺りまで内陸に入り込んでくると森も多い。森の深緑と平野の鮮緑のコントラストが美しい。
森の中にサンカリの家の屋根が顔を出しているのが見える。それから、道とも呼べないような荒い細道が木々の隙間からわずかに。遠方にはアフォン川の支流。それ以外は一切が緑。最寄りの街までは徒歩で一時間はかかる。そこまでは民家や商店の一軒もない。飛行艇の航路でもなく、軍の基地もない。辺境である。サンカリとシーヴェンの時間を邪魔される心配はなかった。
サンカリは鞄の中から使い古した弁当箱を取り出した。シーヴェンに乗りながら空の上で朝ご飯を食べるのがサンカリの日課だった。弁当箱の蓋を開ける。干し肉のサンドイッチと、赤く色づいた小さな果実が入っていた。
「ああ、そうか。もうそんな季節か」シーヴェンが鼻をひくひくと動かした。
赤い果実は、今くらいの時期になると毎年、サンカリの家の近くの木になる。今年は今日が初収穫だ。
サンカリは朝ご飯を食べ終えると、仰向けに寝転がった。背中や首筋に竜の毛の不思議な感触がさわさわと触れて、むず痒いような気持ち良いような感覚に襲われる。
サンカリはシャツの胸元からネックレスを取り出した。革の紐の先に竜の翼の形をした石がぶら下がっている。虹の石だ。
石は今、空からの光を受けて緑の色を映している。青ではなく、緑色に。それはつまり、サンカリが竜守であるということを示している。
サンカリが父からこの石を受け継ぎ、竜守となってから三年が経とうとしている。
竜とともに生きよ。それが竜守の役目だと父は言った。その意味が分かったとき、虹の石は緑色に輝くとも。
竜とともに生きよ、の意味を自分が理解できているのか、サンカリには分からない。十年前と三年前で何が違うのか。三年前と今で何が違うのか、サンカリにはよく分からない。しかし、シーヴェンと初めて会った日のことは覚えている。そのときに、サンカリが何を思い、何を感じたのかも、鮮明に。シーヴェンの黄金の翼のあまりの美しさに、触れずにはいられなかった。シーヴェンの目を細める仕草が彼の笑顔なのだと気づいたとき、嬉しかった。
竜とともに生きるとは、たぶん、そういうことなのだろう。
サンカリは腹這いになり、シーヴェンの首に手を回す。今の位置からではシーヴェンの表情は見ることが出来ない。しかし、彼がどんな顔をしているのか、サンカリには分かった。それはたぶん、サンカリがシーヴェンの竜守だからだ。




