第3章 空駆けるもの ②
ティテの後ろ姿が見えた。彼女は何か見えない力によってどんどん遠くへと連れ去られていった。どれだけ手を伸ばしてもサンカリの指先は彼女に届かず、どれほど進もうとしてもサンカリの足は一歩も動いてくれなかった。
「──!」
彼女が自分の名を呼ぶのが聞こえた。しかし、彼女は後ろ姿を向けたままだ。顔は見えず、その表情は窺い知れない。ただただ悲痛な呼び声だけが聞こえる。その間にもティテの姿はどんどん遠ざかっていった。やがて彼女の姿は真っ黒な景色の中へ溶けて消えていった。
サンカリは彼女の名前を呼ぼうとしたが、何故か声が出なかった。喉が焼けるように熱くなった。それでも必死に声を振り絞った。
「ティテ!」
やっと発することの出来た自分の声でサンカリは目覚めた。
青空が広がっていた。背中に草の感触があった。サンカリは大きな樹の下に寝かされていた。木の葉の隙間から太陽がちらちらと顔を覗かせ、辺りには水と緑の混ざり合った匂いが立ち込めている。
「気がついたか?」
威ある女声が聞こえた。白い詰襟の軍服を着た女性が空を背にして現れた。襟元に黄金の剣の徽章と三本の直線に二つの星の徽章がついている。カノリデーで追っ手の黒服からサンカリたちを守ってくれた女性だった。
「大丈夫です」と答えようとしたが、うまく喋れなかった。脳がぐらぐらと振動し、視界がぐるぐると回っていた。
「動かないほうが良い。頭を強く殴られたようだ」
仰向けになったまま、視線だけ動かして周囲を観察する。他にも数名の人間がいた。屈み込んで地面に残った足跡を捜索したり、下水道への扉(サンカリたちが出てきたものだ)を調べたりしている。
「心配しなくて良い。我々は軍の者だ。もちろん、奴らとは別のね」
周囲の者の格好も全員が上下とも真っ白で、襟元には金色の剣の章が留まっていた。
サンカリはゆっくり起き上がった。殴られた部分がずきずきと痛んだが、なんとか立ち上がることが出来た。胸元に手を伸ばすが、そこにいつもあるはずの虹の石はない。自分の体の一部をごっそりと削り取られたような感触がして、途轍もない不安に襲われた。
サンカリは歩き出した。
「お、おい、君!」
女性に体に手を回され、抱きかかえるようにされて前進を妨害された。
「待つんだ! どこへ行くんだ?」
「離してください。ティテを助けに行きます」
「竜守の女の子なら既に連れ去られたあとだ。奴らは今、我々の部隊が追っているんだ。我々に任せておきなさい!」
女性の語調は荒いが、サンカリを安心させようと精一杯の優しい声音で話そうと努力しようとしていることが感じられた。その気遣いはありがたかったが、サンカリに女性の申し出を素直に受け入れることは出来なかった。
「離してください!」
「この件については軍が責任を持って対処する! 民間人の君が出る幕じゃない!」
「力になるってティテに約束したんです!」
サンカリは女性の腕を引き剥がそうともがいたが、いくら力を込めてもびくともしなかった。女性の体格はサンカリとほとんど変わらないにもかかわらず、驚くほどの頑強さとしなやかさを併せ持っていた。
「サンカリ!」
サンカリたちの背に声がかかった。サンカリは女性に掴まれたまま、空を──声が聞こえた方向を見上げた。その声には聞き覚えがあった。いや、聞き覚えがあるなどというものではない。父から竜守の役目を継いで以来、一日たりとも欠かすことなく聞き続けてきた声だ。絶対に間違えるはずがない。
彼は青い空を突っ切り、真っ直ぐにこちらに向かって飛んできた。軍人たちも飛来するその姿に気づき、一斉にざわつきだした。ぴんとした耳、長い尻尾、大きな翼、黄金の毛並み。その姿が目に映ったとき、自然と涙が溢れてくるのをサンカリは止めることが出来なかった。
「シーヴェン!」
サンカリは、シーヴェンの飛来に驚いて力の緩んでいた女性の腕を振り払い、友に向かって駆け出した。竜は四本足で地に降り立った。翼に煽られ砂が舞い上がり、巨体が地面を揺らした。サンカリは草地を踏み切って彼の顔に飛び込んだ。小さな体でシーヴェンの大きな顔に抱きついた。柔らかくて硬くて、つややかで、ほのかに温かい鼻先の感触。彼の鼻息がサンカリの頬をくすぐった。
「シーヴェン! シーヴェン!」
サンカリはシーヴェンの頭にしがみつき、耳に触れ、鼻筋に顔をうずめた。離れていた時間は一日にも満たないというのに、抑えきれないほどの懐かしさに襲われた。嬉しさと安堵と形容できない様々な感情がいっぺんに心の奥から湧いてきて、涙になって瞳から溢れ出た。
「大丈夫? デゼルターに襲われたって聞いた。怪我は?」
「ないよ。大丈夫。大丈夫だよ」
「サンカリ、泣いてるの? どこか痛い?」
シーヴェンの顔に頭をくっつけたままサンカリは首を振った。髪がシーヴェンの顔に押しつけられてぐしゃぐしゃに乱れて、涙がシーヴェンの毛を濡らした。
「良かった、また会えて」
嗚咽の合間にその言葉だけを喉から絞り出した。言いたいことは他にもたくさんあったのに、会ったら文句の一つも言ってやろうと思っていたのに、サンカリの口から出てきた言葉はその一言だけだった。それだけ伝えたら満足してしまった。聞きたいことだって幾つもあったのに、シーヴェンの声を聞けただけで、どうしようもなく安心してしまった。
シーヴェンは一瞬だけ驚いた表情を見せて、涙を流す直前のような、慈しむような顔になった。
「心配かけて、ごめん」
シーヴェンは友である竜守の少年の顔に自分の毛を擦りつけた。サンカリは日向と香ばしい藁の匂いを感じた。
「君はシーヴェンの竜守なのか?」
白い軍服の女性が驚きを隠せないといった様子でサンカリに尋ねた。サンカリはシーヴェンから離れて、涙を袖で乱雑に拭った。
「知り合いなの、シーヴェン?」
「うん、ちょっとね」
「我々は脱走兵の追跡を任務としている。シーヴェンも私たちも同じ男を追っていたんだ。彼とはその道中でたまたま知り合った。怪我を負っていたので、僭越ながら治療させていただいたんだ」
「シーヴェン、怪我したの!?」
サンカリは振り返って竜の顔を見上げた。
「大したことないよ」
ほら、とシーヴェンが体を動かして見せる。右後脚の付け根辺りに、サンカリの手のひらくらいの大きさのガーゼとテープ式の包帯が貼りつけてあった。竜の体格からすればたしかに大したものではないのだろう。だが、サンカリは竜の肌の頑強さを知っている。サンカリが知る限り、シーヴェンが怪我を負ったことなど一度もない。そのシーヴェンが多少なりとも傷つけられるなんて、いったい何があったのか。
「それより、トゥスクの竜守の女の子が連れていかれたんだね?」
シーヴェンの緊迫した声でサンカリの思考は中断させられた。
「うん、僕の虹の石も持っていかれた」
「そうか……」
シーヴェンは少しの間、深刻な顔で思案したあと、
「僕はトゥスクたちを助けに行く。サンカリは……」
「嫌だよ」
サンカリはシーヴェンの言葉を遮った。シーヴェンはサンカリの強い語調に驚き、言葉を詰まらせた。
「ここに残れって言うんでしょ? 嫌だよ。僕はティテの力になるって約束したんだ。たとえシーヴェンが僕を置いていったって、一人でも僕は行く」
シーヴェンに対してこんなにはっきりと拒絶の意志を現したのは初めてだった。しかし、サンカリはティテの力になると決めたのだ。竜守である彼女のために、竜守として力になると。竜守として心の声に従って選んだ決意を、途中で投げ出してしまったら、サンカリは竜守ではなくなってしまう気がした。竜とともに生きよ──竜守のたった一つの役目を全うするために、竜守として決めたことを中途半端なまま放り出してしまうわけにはいかないと思った。
サンカリはシーヴェンを見つめた。シーヴェンもまたサンカリを見つめた。竜の赤く大きな瞳の中にサンカリの姿は完全に収まりきってしまい、彼は竜の瞳を通じて自分自身と向き合った。
「分かった。一緒に行こう」
長い沈黙のあと、シーヴェンは短くそう言った。根競べに負けてあきらめたような言葉だった。だが、決してそうではない。むしろ、サンカリの言葉を喜んでくれているということが、ずっとともに過ごしてきたサンカリには分かった。それが分かっただけでサンカリは満足だった。
「君が竜守の少女と一緒にいたことも偶然ではなかったということなのかな」
軍人の女性がサンカリに話しかけた。
「あの、シーヴェンを助けてくれてありがとうございました」
サンカリが頭を下げると、女性は「大したことはしていないよ」と手を振った。
「色々とありがとう。手当までしてもらってろくに礼も出来ないままで済まないが、僕はもう行くよ」
「竜が飛ぶことを我々程度が阻めるとは思っていないよ。ただ、軍人としては少年にはここにとどまってほしいところなんだが」
女性はちらりとサンカリを見た。口調は穏やかだが、軍人らしい厳格な視線だった。女性はすぐに「まあ良い」と視線を逸らした。
「あの男は部下とともにこの先の遺棄された砦に潜み、竜と竜守の少女を捕えているはずだ」
「何者なんですか、あの男?」
サンカリの質問に女軍人は答えた。
「奴の名前はデゼルター。脱走兵だ」




