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第3章 空駆けるもの ①

「入れ」

 痩躯の男に無理矢理引きずられ、ティテは薄暗い部屋へ足を踏み入れた。

 アフォンヒルグルの駐屯軍の砦の一つ。軍縮の際に閉鎖され、そのまま再利用されることもなく放置され、今は無人になっているということを、男はティテが聞きもしないのにべらべらと話してくれた。ティテが今いるのはその廃墟の地下だ。

 人の温もりに触れなくなって久しく、風化が始まった煉瓦の壁と錆びついた鉄格子が、埃をかぶった裸電球に照らされている。地下牢獄だった。片側の壁に牢屋が並んでいる。いずれも扉は開け放たれていて、ぼろぼろになった簡易ベッドの残骸が打ち遣られているだけだ。廊下の一番奥に何か大きなものが雑然と置かれているが、明かりが届かなくてよく見えない。

 窓のない軍用車に乗せられて連れてこられたので、カノリデーからどの程度、どの方向に移動したのかは分からない。ティテが今、唯一所持している情報は、ティテとトゥスクを襲った黒い飛行艇が砦の傍らに停泊しているということだけだった。車から降ろされるときにちらりと見えたので、それだけは分かった。遺棄された砦に電気が通じているわけがないから、この電球は飛行艇から電力を供給されているのかも。うすぼんやりと明滅する明かりを見ながら、ティテはそんな関係のないことを考えていた。

「こんなところに連れてきて、どうするつもり?」

 ティテは痩躯の男を睨みつけた。

「随分じゃないか。せっかく感動の再会をお膳立てしてやったというのに」

 男はティテの睥睨を泰然と受け流し、自らの視線をティテの後ろ──廊下の奥へと向けた。男の目は我情を多分に含んだ赫奕としたもので、裸電球の心もとない明かりの下でも視線の動きをはっきりと見て取ることが出来た。男の視線は廊下の奥の巨大な物体に注がれていた。

 限られた光源の中でそれが何なのかを判別するのは困難だった。ティテはじっと目を凝らした。そして、その正体に気づいたとき、彼女は駆け出した。

「トゥスク!」

 暗がりの中で無造作に床に転がされ、微動だにしなかった物体は、ティテが探し続けていたトゥスクだった。

 ティテは塵芥が服につくのも構わずトゥスクの傍らの汚れた床にひざまずき、大切な友の顔を覗き込んだ。

「ティテ……」

 もはや動かないのではないかと不安になったが、トゥスクはティテの呼びかけに反応して弱々しく首をもたげ、消え入りそうな声で少女の名を呼んだ。いつもの澄んだ涼やかなものとは違う、明らかに衰弱した声だった。

「ひどい怪我……」

 トゥスクの皮膚の至るところが真っ黒に焼け焦げ、まるで消し炭のようになっていた。スィンクリルの湖のように美しかった竜の鱗が、見るも無残な姿に成り果てていた。

 ティテは恐る恐る手を伸ばし、元は鱗だった部分に触れた。かさりと乾燥した音を立ててあっけなく崩れて散って落ちた。トゥスクがぴくりと耳を動かし、小さく呻いた。

「なんてことを……」

 あまりに痛ましく凄惨な友の状況に、ティテの目には自然と涙が溢れた。

「ここに虹の石がある」

 ティテたちのことなどまったくお構いなしで、男は話し始めた。男は黒い軍服の胸ポケットから小さな透明のケースを取り出した。中には竜の爪のような形をした石が入っている。男がケースを目の高さで二度三度と振って見せると、石はケースの中で跳ねてからからと乾いた音を立てた。

「それからここに、君の石と、君と一緒にいた少年の石」

 男は、今度は脇のポケットから革紐と絹紐に結わえられた二つの石を引っ張り出した。革紐の先には竜の翼の形の石が、絹紐の先には竜の牙の形の石がぶら下がっている。牙の形の石はティテの物、翼の形の石はサンカリの物だ。

「これで虹の石が三つ揃った」

 男は両手にそれぞれ持っていた石を無造作に片手にまとめた。裸電球の弱々しい光に照らされた三つの石は深海のように凝った暗い色をしていた。

「虹の石を三つ揃え、そのうち一つの持ち主と竜がともに望むことによって、竜の台座への閉ざされた道が開ける」

「竜の台座……」

 セバーが口にしていた言葉だ。地上を支配していた竜の世界。

「あんたの目的は竜の台座なの? そのために私とトゥスクを襲ったっていうの?」

「そのとおり。そして、君と君の友である竜には、竜の台座への封印を解いてもらう」

 男は唇の端を吊り上げて嫌らしく笑い、物分かりの良いペットを見るような目つきでティテを見やった。男に対する怒りと恐怖がない交ぜになった感情がティテの背筋を駆け上った。

「あんた、馬鹿じゃないの? トゥスクをこんな目に合わせて、私が素直に従うと思ってるの?」

 ティテは感情の中から恐怖だけを蹴り落として怒りに任せて語調を荒げた。

「思ってはいないさ。だが、従ってもらう」

 男は空いている手を懐に差し入れ、黒い塊を取り出すと、その手をトゥスクへ差し向けた。男の手元で火花が弾け、破裂音が牢獄に響く。同時にトゥスクが「う」と小さく呻いた。

 男の動きにまったく躊躇いがないので、ティテの反応はやや遅れた。少し経ってから、男が手にしている物が拳銃であり、それをトゥスクに向けて撃ち、そして友人が痛みに唸り声を発したのだと気づいた。竜の鱗は拳銃の弾丸程度では傷一つ負わないはずだった。しかし、それは万全の状態であったならばの話だ。今の満身創痍の状態のトゥスクの鱗は弾丸を弾き返せるほどの頑強さは持ち合わせていなかった。

「何するの! 止めてよ!」

 ティテはトゥスクを庇うように覆いかぶさり、男を睨みつける。拳銃を握ったまま男は笑っていた。その笑顔には人が人である限り決して持ち得ないだろう感情が現れていた。ティテには男が人間ではない別の生き物に見えた。先ほど食べたばかりのフィッシュフライサンドが食道を逆流してきて、口の中が酸っぱくなった。吐き気を催すほどたまらなく不快な笑みだった。何故こんな目に合わなければならないのか。自分たちが一体何をしたというのか。この男は何者なのか? 目的は? 竜の台座に行って何をするつもりなのか? そもそも竜の台座は実在するのか? 何もかもが理不尽で歪だった。それでいて、男のティテとトゥスクに対する執着だけが淀みなく強固だった。

「良いことを教えてあげよう」

 男は拳銃の先をトゥスクに向けたまま口を開いた。

「竜の台座の封印を解けば、君の友の傷は癒える。竜の台座からのエネルギー供給が始まるからな。その程度の傷など、たちどころに回復するだろう」

 講釈を垂れるような、知識をひけらかすような、落ち着いているが鼻につく語り口だった。言葉と行動と表情が同じ人間から発せられているとは思えない不自然な存在感を放っていた。

「信じるかどうかは君の自由だ」

 男は唇の端を吊り上げて、にたり、という表現がぴったりの笑みを浮かべた。

「だが、信じなければ君の友が死ぬだけだ」

「……卑怯者!」

 普段のティテならば命を懸けてでも男に抗ったかもしれない。どんな手を使ってでも男に一矢報いようと画策しただろう。ティテはそれぐらい強烈な嫌悪感を男に抱いていた。だが今のティテが懸けているものは自分の命よりもずっと重かった。友の命は自分のそれよりもずっとずっと重かった。

「待て……」

 ティテの足元でトゥスクが凛とした声を上げた。

「肝心なことを忘れているぞ。竜の台座の封印は竜と竜守がともに望まなければ解けない。たとえティテが望んだとしても、僕が望まなければ封印が解けることはない」

 トゥスクは首を必死に持ち上げ、男を睨みつけた。視線で男を射殺さんとするほどの鋭さだった。しかし、もたげられた竜の長首はすぐに力尽き硬い床に落ちて埃を舞わせる。

「トゥスク! あなた、死んじゃうわ!」

 ティテは屈み込み、友人の頭を労わりを以って抱え込んだ。碧色の巨躯の内には、わずかに身じろぎする程度の余力も既に残されてはいないようだった。しかし、

「駄目なんだ。竜の台座は、二度と、甦らせてはならないんだ」

 その目には強い信念の光が宿っていた。多少のことでは揺らぐことのない確固たる信念の光が。

「君こそ大事なことを忘れていないか?」

 トゥスクの不屈の心を前にしてなお男は余裕の態度を崩さなかった。いや、トゥスクが決して折れはしないということを男は初めから承知しているようだった。男は左手をゆっくりと動かす。

「人質は君じゃない。彼女のほうだ」

 銃口がティテの顔の前で止まった。トゥスクの瞳に明らかな動揺が浮かんだ。トゥスクが懸けなければならないものもまた彼自身の命よりも遥かに重かった。

「さあ、どうする?」

 それは質問の体裁を為していたが、男はトゥスクに選択を迫っているのではなかった。最初から選ぶ余地などなかった。男の笑い声が牢獄に木霊した。

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