第2章 竜が飛ぶとき、人は空を飛ぶべからず ⑤
町の外れのほうまで来たとき、サンカリの目に古ぼけた煉瓦の建物が飛び込んできた。
「待った! ティテ、こっち!」
「え、ちょっと!」
サンカリは有無を言わさずティテの手を引っ張り、煉瓦の建物の正面にどっしりと構えられた金属製の重い扉を開けて中に滑り込んだ。体当たりをするような勢いで扉を閉めた。
「はぁはぁはぁ」
二人とも息を整えるのにしばらく時間がかかった。
室内は狭く、古ぼけた棚と一対の机と椅子でいっぱいになるほど狭い。裸電球が一個吊るされているだけで、薄暗かった。棚の中には、書類の束や軍手、ホース、バケツの他に何に使うのか分からない機械が雑然と詰め込まれている。机の上には飲みかけのコーヒーのカップが置きっ放しになっていた。
壁も天井もしっかりした煉瓦造りで、少しも湿気を外へ漏らすまいとする徹底した構えになっている。それ故に室内の湿度は高く、じめっとした空気に満ちていて、何もせずとも肌が汗ばんでくる。
「ここ、どこ?」
「下水道の管理小屋だよ」
ティテの問いかけに答えながら、サンカリは室内を見回した。
「セバー! いないの、セバー?」
サンカリが大声で呼びかけると、部屋の奥の暗がりから小さな男が出てきた。身長はサンカリとほとんど変わらないが、首や腕の太さは倍近くあり、丸太のように固い。肌は浅黒く、髪もぼさぼさに伸ばし放題で、顔には無精ひげ。ずんぐりむっくりした体型と相まって、物語に出てくる子鬼のような印象を与える男だった。
「おう、サンカリ。どうした。……って、彼女連れかよ、サンカリのくせに」
「追われてるんだ、匿って!」
「ああん?」
セバーは眉を吊り上げると、のしのしという表現がぴったりの歩き方でサンカリたちの横を通り過ぎ、入口の扉を薄く開けて外を覗き込んだ。
「……あいつらか?」
セバーが顎でしゃくって「見ろ」と指し示した。道路の向こう側を歩く三人の黒服が見えた。男たちはカノリデーの住民が好奇の目を向けるのを気にも留めず、街路に踏み込み、人家の窓を覗き込んで見て回っていた。
「見ない制服だ。アフォンヒルグルの軍じゃねえな」
セバーは開けたときと同じ慎重さで管理小屋の扉を閉めた。太い首を巡らし、目つきの悪い相貌でサンカリとティテを見やる。
「お前ら、何をやらかしたんだ? 軍に追われるなんて只事じゃねえぞ」
「何もしてないわ!」
ティテが叫んだ。
「あいつらが突然やって来て私とトゥスクを襲ったのよ! 私たちは何もしていない!」
ティテは拳を握りしめてセバーを睨みつけた。
「落ち着いて、ティテ」
サンカリはティテの肩に手を置いた。
「たしかにあいつらは軍人だけど、なんだかおかしいんだ。僕もベネミスさんもあいつらに襲われたんだ。ね、信じてよ」
「ふむ」
セバーは平べったい手で無精ひげを乱暴に撫でつけ、しばらく黙考してから口を開いた。
「お前、俺の前職を知ってて言ってるか?」
「え? あ……」
十年ほど前に、戦争終結からかなりの年数が経過したことと折からの財政難を理由に、軍事費の大幅な削減とそれに伴う軍縮が断行された。セバーはその際に自主退役した一人だった。つまり、元軍人である。ティテが不安げな視線をサンカリに向けた。咄嗟の判断で知り合いのセバーがいる小屋へ飛び込んでしまったが、失敗だったかもしれない。
「ついてきな」
セバーはサンカリとティテの間をすり抜け、部屋の奥へと入っていく。
「町の外まで案内してやるよ」
「良いの、セバー?」
「出自の知れねえ軍隊より、お前の彼女のほうが信用できらあ」
セバーはぼそりと呟くように言うと、暗がりの向こうへと姿を消してしまった。
サンカリとティテは顔を見合わせた。サンカリは彼女の瞳に安堵と歓喜の感情が宿っているのを見た。おそらく彼女もサンカリの瞳に同じものを見たはずだ。
二人は急いでセバーの背中を追った。
部屋の奥には小屋の入口と同じような金属製の頑丈そうな扉があった。セバーは扉を開けると、壁に吊るしてあった大きな懐中電灯を手にして中に入った。二人もあとに続いた。
一歩踏み込むと、下り階段だった。ひんやりとした空気が駆け上り、うなじの辺りに纏わりつく。
「暗いから気をつけろ」
そう注意したセバーは特に気をつける様子もなく軽快な足取りで階段を下っていった。数段先ですら見えないほどの暗闇で、セバーの持つ懐中電灯だけが唯一の光源だった。サンカリとティテは壁に手をつきながら一段ずつ慎重に降りていった。石の壁は下からの冷たい風のせいで氷のように冷たく、じっとりと湿っていた。
水が流れる音が聞こえてきた。階段を下りる度に音は大きくなっていった。それにつれて、酸味混じりの独特な刺激臭がつんと鼻腔を突いた。階段を降りきると、目の前に川が現れた。しかしその川はアフォン川のような美しい川ではなく、汚物交じりの濁った川だった。カノリデーの下水道だ。
「くっさい……」
ティテは手で鼻を塞いだ。サンカリも感想を口にこそしなかったが、同じように鼻に手をやった。
「そのうち慣れる。こっちだ」
セバーは三人の中で誰よりも大きな鼻をしているにもかかわらず、この臭いを何とも思っていないようで、平然と歩き出した。
下水道は、石造りの通路の真ん中を汚物の水路が流れる構造になっていた。水路のところどころに簡素な橋が架けられ、両側の通路を行き来できるようになっている。セバーはすぐ近くの橋を渡って向こう側の通路へ行ってしまった。こんな真っ暗闇の中では、懐中電灯を持つセバーから離れると、どこが道でどこが水路なのかすぐに分からなくなってしまう。サンカリとティテはセバーにぴったりとくっついてあとをついていった。
セバーは全く躊躇うことなく、角を曲がり、橋を渡り、先に進んでいく。どうやらセバーの頭の中にはこの町の下水道の完璧な地図が描かれているようだった。濡れた床も黴の生えた壁も目印にするには無個性すぎて、サンカリたちは既に自分たちの位置を見失っていた。
「おう、そういえば、サンカリよう。お前んとこの竜、昨日の夜に飛んでなかったか?」
「セバー、見たの!?」
セバーの口から出た意外な発言にサンカリは思わず大声を出した。驚嘆が湿気を含んだ壁に吸い込まれて通路の先にまで響き渡る。
「でけえ声出すなよ」
「ご、ごめん。それで、本当に見たの、セバー?」
「おう、アフォン川に沿うようにあっちからこっちへ飛んでった。空が曇りだしてからすぐのことだ」
セバーは中空で指を動かしてシーヴェンの軌跡を描いてみせた。時間的にもサンカリの元を飛び去ったころと一致する。
「あれを見てから、俺はもう気が気じゃなくてよ」
「どういうこと?」
「竜が飛ぶとき、人は空を飛ぶべからず」
セバーらしからぬ戒めるような厳格な口調で彼は言った。
「飛行機乗りや軍の間で昔から語り継がれている言い伝えだ。空は竜の領域で、人間はそこを借りているに過ぎない。だから本来の持ち主である竜が飛んでいるとき、人間は竜に空を明け渡さなきゃならんって言われてる」
セバーは前を向いたまま歩みを止めずに話し続けた。
「雲が竜の形に見えるときは天気が荒れる兆候だから空を飛ぶなっていう、ただのジンクスみたいなもんだったんだがな」
彼は幅広の肩をすくめて盛大にため息を吐いた。
「だけど、本当に竜が飛んでるところなんて見ちまうと、つい何かあるんじゃないかと身構えちまうのよ」
「へえ……。竜が飛ぶと……何だっけ?」
「なんだ、お前、竜守のくせしてそんなことも知らんのか。──って、それもそうか、空飛ぶ奴じゃなきゃ、こんな話をする機会はねえか」
昔からの言い伝えのようなもののようだが、サンカリは初めて耳にする言葉だった。隣のティテに身振り手振りで「知ってる?」と尋ねたが、彼女も首を横に振るのみだった。
「竜が飛ぶとき、人は空を飛ぶべからず、だ。空の上にはな、竜の台座っていう竜たちの本拠地みたいなのがあって、世界はそこの竜たちに監視され、支配されていたんだってよ」
「竜の台座……」
サンカリはセバーの言葉を反芻した。これも初めて聞く言葉だった。
「先輩軍人が後輩に空の怖さを教えるための脅し文句みたいなもんだから、どこまで本当かは眉唾もんだけどな」
セバーは最後にそう付け足したが、信じていないような口振りではなかった。




