第5話 狼魔物のパッロ
伸ばした手が、白くやわらかな毛並みにそっと触れる。
その瞬間、指先がふわりと沈み、思いがけないほどのぬくもりが肌に伝わってきた。
その温度は、信じられないほどやさしい。
天吼の白獣は、リュミの指先を受け止めるように、わずかにまぶたを伏せた。
耳が小さく動き、鼻先からゆっくりと息が漏れる。
天吼の白獣の体からは、わずかな緊張が感じ取れた。
まるで、自分が少しでも動けばリュミを傷つけてしまうと考えているかのように、息を殺している。
けれど、不思議と逃げようとする気配はまったく感じられなかった。
ただただ、そこにいてくれる。リュミの、目の前に。
「……あったかい……」
ぽつりとこぼれたリュミの声は、自分でも驚くほど微かで、掠れていた。
けれどその震えは、恐れや怯えからくるものではない。胸の奥がじんわりと満たされていくこの感覚に、張り詰めていた全身の力が少しずつほどけていくのを感じる。
(会えた……)
目を覚ましたときから感じていた、不安の正体。
自分でもわからなかった《なにか足りない》感覚が、今ようやく満たされていく。
このぬくもりを、リュミは求めていたのだ。
「あなたは……私のこと、守ってくれてたんだよね」
問いかけても、天吼の白獣は言葉で答えなかった。
それでも、その金色の瞳はまっすぐにリュミを見つめ、逸らさない。
深く、やさしく、そしてどこか寂しさを帯びた光が、リュミの瞳の奥へ静かに届く。
ふと、リュミの中にひとつの想いが浮かぶ。
この存在を呼びたい。名前で、ちゃんと。心から。
「ねえ、あなたの名前……」
口にした瞬間、自分でも戸惑った。
魔物に名前をつけること。
それは、危険で意味のない行為だと教わってきた。
理性を持たない存在に名前を与えるなんて。
そんなの、人間の自己満足だと。
(……でも、それでもいい)
そんな理屈なんて、今のリュミにはどうでもよかった。
この存在を「魔物」とひとくくりにすることが、どうしようもなくつらい。
傷つきながらも、リュミを追いかけてきてくれたこの子を。
自分の命よりも、リュミのことを優先してくれたこの子を。
ただの「魔物」というくくりにはできなかった。
名前をつけたい。
心を込めて、想いを託して。
リュミは、目の前にいる天吼の白獣の顔をじっと見つめる。
長く濃いまつ毛に縁取られたその瞳は、まるで雪明かりを映したように澄んでいる。
ふわふわの毛並みは、冬の空に浮かぶ雲を抱きしめたみたいで──そのとき、ふと、ひとつの言葉が頭に浮かんだ。
(……ルミパッロ)
それは、雪玉を意味する古い言葉。
白くて、丸くて、やわらかそうで……でもすぐに体温で溶けてしまいそうな、儚い存在。
けれど、その儚さが美しくて、愛おしい。
「あなたのこと、パッロって呼んでもいい?」
天吼の白獣は小さく首をかしげ、そして鼻先を近づけてきた。
そのしぐさは、まるで「それはどんな意味なの?」と問いかけているようにも見える。
金色の瞳がまっすぐにこちらを映す。
「……パッロ」
リュミが名を呼ぶと、天吼の白獣はその名を確かめるように、静かにつぶやいた。
「気に入った」
たった一言が、胸にやさしく響く。
リュミは自然と、にっこりと笑っていた。
胸があたたかくて、むずむずする。今までに感じたことのないこの気持ちに戸惑いながらも、心が弾む。
この気持ちはなんていう名前なんだろう?
わからないけれど、決して悪い気持ちじゃない。むしろ、ずっと抱きしめていたいような──そんな気持ち。
自分のつけた名前が、相手の中で生きていく。
それって、なんだかすてきなことだ。
リュミはそっと目を細める。
「……パッロ、会いにきてくれてありがとう」
パッロは喉の奥で小さく「グゥ」と鳴いたかと思うと、そっとリュミの肩に頬を寄せる。
その動作は、まるで雪が音もなく積もるかのように静かで、けれどたしかなぬくもりがある。
(……この子は、リュミのおともだち。初めての、おともだち)
不意に、胸の中にそんな想いがすとんと落ちてくる。
それがスキルの力によるものなのか、ただの勘なのか、今のリュミにはわからない。
けれど、パッロの存在は、たしかにリュミの支えになっていた。今、この瞬間にも。
「リュミ」
自分の名前を呼ばれたその瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
やさしい声。やわらかくて、深くて──まるで心に直接触れてくるような響き。
パッロは鼻先をリュミの頬に寄せ、そっと触れた。
毛並みのやわらかさと、深い呼吸のぬくもりがじんわりと伝わってくる。
「……ありがとう」
まるで心に直接届くような声。
リュミは目を閉じ、胸の内で返す。
(リュミも……ありがとう)
声に出さなくても、きっと伝わっている。
パッロの尻尾が、ゆっくりと左右に揺れた。風に合わせて、やさしく舞うように。
「これからも、傍にいてもいいか」
問いかけるその声には、どこかおそるおそるとした気配があった。
拒まれることを怖れているのだろうか。
でも、リュミにはその気持ちが痛いほどわかる。
「もちろん。リュミも……パッロといっしょがいい」
その言葉に、パッロは大きく息を吐いた。
肩の力が抜けたように、全身の毛並みがふわりと揺れる。
そのときだった。
背後から、足音が近づく。ぶつぶつとつぶやく、あやしげな声も。
パッロの耳がぴくりと動き、瞳の奥にわずかな警戒の光が宿る。
すっかり忘れていたけれど、今この場にいるのは、リュミとパッロだけではなかったのだった──。




