第39話 祈りを捧げよ
馬車がゆっくりと止まった。
かすかに揺れる感覚のあと、外から扉が開かれる。
リュミは躊躇いがちに足を動かし、小さな靴で石畳に降り立った。
視線を上げた瞬間――そこに広がる景色に、心臓がひとつ強く跳ねる。
白。すべてが白い。
壁も柱も、階段も塔も、なにもかもが、どこまでも白い。
遠くから見ると美しいのに、近づくほどに、その白はただ冷たく、無言でリュミを圧迫してくる。
そして、気づいた。
(……ここ……)
この場所を、リュミは知っている。
ここは――リュミの運命が変わった場所。
スキル《ふわふわ》を授けられた、人生の分岐点。
あの日のリュミは、緊張しながらもどこか浮き立つ気持ちで見上げていた。
けれど今、こうしてもう一度立ってみると……全然違って見える。
記憶よりもずっと高く、無機質で冷たく、近づきがたい。
完璧すぎるほど整ったその姿が、かえって異質だ。
(……やっぱり、こわい)
以前は見えていなかったものが、今は見える。
気づかなかった重さ、空気の張り詰めた感じ、白の奥に潜む感情のない静けさ。
(……フォルステアの、おうちみたい)
言葉にできない不安が押し寄せてきて、胸がぎゅっと苦しくなる。
美しくて、完璧な世界。だけど、ひとつの汚れも許されなさそうで、足を踏み入れるのが怖い。
「さあ、こちらへ」
やさしいけれど決して逆らえない声に導かれ、リュミは神官の手に引かれて歩き出した。
長くて静かな回廊。両側の壁には、女神さまの絵がずらりと並んでいる。
一枚一枚、描かれている場面は違うはずなのに、どの女神さまも同じ顔。
同じ笑みをたたえて、同じようにやさしく微笑んでいる。
でも――そのやさしさが、どうしようもなく冷たく感じた。
リュミの足音が石の床に響くたびに、神官たちがぴたりと立ち止まり、頭を下げる。
そのたびに、まるで空気が凍るように張り詰めていく。
整いすぎた空間に、リュミの小さな足音だけが浮いて聞こえた。
「……大神殿に行くんじゃなかったの?」
不安そうに尋ねると、隣の神官が微笑みながら頷いた。
「ええ、行きますよ。でも、その前に立ち寄るべき場所があるのです」
やがて、一行は白くて大きな扉の前に立ち止まった。
神官が手をかざすと、鈍い音を立てて鍵がはずれ、扉が重たく開いていく。
中に広がっていたのは――広々とした祭具庫だった。
天井の高い梁には、何枚もの封印札が貼られている。
水晶の灯りがかすかにまたたいて、淡い光を放っていた。
床には銀色の紋章が刻まれ、祈祷に使う器具が美しく整列している。
ひとつとして乱れがなく、まるで誰の手も触れていないような完璧な静けさ。
なぜだろう。その完璧さが、息苦しく感じる。
部屋の中央に、重たそうな鉄の檻がある。
その中に閉じ込められているのは、一匹の獣。
毛並みは黒く、ところどころ汚れていて、目は濁っている。
呼吸も荒く、苦しそうに喉をならしていた。
でも、リュミにはすぐにわかった。
(この子……魔物じゃない)
瘴気におかされてはいるけれど、魔物ではない。
怯えて弱っている、ただの獣。リュミの持つスキル《ふわふわ》では、癒やせない存在。
「この魔物を救いなさい」
神官のひとりが、リュミの背中を軽く押した。
「女神の御心に従い、あなたの力で救うのです」
リュミは首を横に振った。
「……できない、です。だって、この子はちがうもん。リュミの《ふわふわ》は、この子には……効かないの」
神官の表情から、すっと笑みが消えた。
冷たい空気が、背筋をなぞるように広がっていく。
「……やってみなければわからないでしょう」
静かに言われたその言葉に、リュミは思わず声を荒げた。
「やったことがあるから言ってるんだもん! リュミ、試したの! この子みたいな子には……効かないの!」
涙声だった。けれど、必死の訴えだった。
なのに――神官たちは、誰ひとりとして動じなかった。むしろ、沈んだ空気の中に、いっそう不気味な静けさが満ちていく。
先頭に立っていた神官が、目を細めてリュミを見下ろす。
「……そうですか。それでも、女神はあなたに祝福を与えた」
ゆっくりと歩み寄ってくる。
足音が床に響くたび、リュミの心が凍っていく。
「女神の御心に背くことなど、あなたにはできないはずです」
「ちがう……ちがうもん……!」
「あなたがどう思おうと、結果がすべてなのです。祈れば光が降りる。それを、我々は見てきた」
別の神官が、リュミの肩を掴んだ。
「さぁ、膝をついて。ここで祈りなさい。言葉は要りません。あなたの力があれば、それでいい」
「やめてっ!」
リュミは必死で腕を振りほどこうとする。けれど、大人の力に敵うはずもなかった。
押さえつけられ、両肩をかたく握られて、無理やり跪かされる。
「……もう、やめてよ……」
リュミの声が、寒々しく響く。
冷たい石の床。
頭上に浮かぶ水晶の淡い光が、遠く霞む。
「どうして……どうしてこんなこと、するの……」
震える声で、リュミはつぶやいた。
けれどその問いかけに、誰も答えてはくれなかった。
神官たちはただ静かに淡々と――しかし執拗に、リュミを祈らせようとしてくる。
その顔に怒りはなかった。怒鳴るでも、睨むでもない。
ただ感情のない目で、リュミを見下ろしている。
それが、なにより怖い。
わけがわからない。
リュミが嫌だと言っているのに。できないと言っているのに。
怒っているならまだいい。泣きたいほど怖い顔なら、逃げたくなるだけで済む。
でも、怒ってもいないのに怖いことをしてくる大人たちが――一番、怖い。
どうしてそんな目で見るの?
どうして無理やり祈らせようとするの?
わからない。全然わからない。
(どうして? どうしてなの?)
理由がわからないから、もっと怖い。
頭がぐるぐるして、胸がぎゅっと苦しくなる。
「女神の命に、逆らうことはできません」
女神の願いは、森を守ることだ。
瘴気を溜め込んだ魔物をふわふわにして、やさしい気持ちに戻してあげる――それがリュミの力のはず。
「あなたの手で救うのです。これまでそうしてきたように」
言葉が、繰り返される。重ねられる。
祈れ、祈れ、と……。
リュミはぎゅっと目を閉じた。
(やだ……こわい……ここ、もう、いや……)
声にならない叫びが、胸の奥で渦を巻く。
(……パッロ……リンコ……エルド……たすけて……リュミ、ここにいるよ……)
そのときだった。
手首に、細い糸の感触が走った。
冷たいようで、でもどこかぬくもりを感じる。
(ムスティの糸……。ムスティ?)
心の中でそっと呼ぶと、糸がかすかに震えた。
大丈夫、見てる。
そんなふうに、励まされている気がした。
神官たちの声が、遠くに響いている。
「もっと強く、祈りを――!」
でも、リュミの心には、森の風が戻ってきていた。
木々のそよぎ、やわらかな草のにおい、鳥たちの歌う声。
(リュミ、負けない……森に、帰る……)
その一途な願いが胸の奥で光になり、リュミの体の中心から、ふわりとあたたかな輝きが生まれる。
光はムスティの糸を伝って神殿の外へ――静かに、けれど力強く、流れていった。
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