第38話 女神への誓い
ゆっくりと重たいまぶたを盛り上げたとき――そこには、見たことのない天井があった。
天井は低く、古びた木材の節が不規則に並んでいる。
ぎしり、と小さく軋む音。がたん、がたん、と一定のリズムで揺れる床。
耳をすませば、遠くで馬の蹄の音も聞こえてくる。
薄暗く、閉ざされた馬車の中。
窓には布がかけられ、光はほとんど差し込んでいない。扉もきっちりと閉ざされていて、リュミの小さな体でも抜け出せそうな隙間は見つからなかった。
鼻の奥には、まだ残っている。
あの甘く、くぐもったにおい――薬草のようでいて花蜜にも似た、どこか現実離れしたにおいだった。
自分がなぜここにいるのか。
思い出そうとするほど、頭の奥がぼんやりと霞んでいく。
それでも少しずつ、ゆっくりと記憶が戻ってきた。
村の広場。
笑い声があふれていた、あの時間。
そのとき、ひとりの子どもが血相を変えて走ってきたのだ。
『おねえちゃん、リュミおねえちゃん、はやく助けてあげて!』
泣きそうな目。掠れた声。
その必死な表情を見たとき、リュミの心は自然と動いた。
助けたい。
ただそれだけだった。
迷う理由なんて、どこにもなかった。
それが、リュミにとって一番大切な気持ちだったから。
けれど。
駆け寄ったその瞬間、煙を嗅がされた。
むせかえるほど甘い、濃密なにおい。
薬草とは違う。花の香りとも違う。
意識が一気に遠のき、気づけば闇の中だった。
ふと、足元に感じたかすかな重み。
視線を落とすと、そこに小さな生き物がいた。
「……ムスティ」
ささやくように呼ぶと、小さな体がびくりと動く。
くるんとした丸い目が潤んで、リュミに寄り添ってくる。
ひんやりとした感触。
それが、今ここにあるただひとつの確かなものだった。
(……ムスティがいる。なら、まだ……だいじょうぶ)
対面に座席に、ひとりの男が座っていた。
白い外套に銀糸の刺繍。見覚えのある神殿の紋章。
「目が覚めたか。体は痛まないかね?」
声は穏やか。
けれど、その目は少しも笑っていない。
リュミは体を強張らせながら、掠れた声を絞り出す。
「……ここ、どこ?」
「王都へ向かっているよ。君の力を正しく導くためにね」
ぞくりと、背筋が冷たくなる。
「……やだ。リュミ、もどりたい。森に帰りたいの。みんなのところに……」
男――神官は、小さく首をかしげた。
その動作はやわらかいのに、目だけはひどく冷たい。
「君は特別だ。女神に祝福された、選ばれし子。魔物を従える奇跡の存在……そんな力を、ただ森の中だけで使うなんてもったいないと思わないか?」
「リュミ、したがえてなんかない!」
声が震え、喉が詰まる。
「魔物はね、こわくなんかないよ。みんな、やさしくて、いい子たちなの!」
神官はゆっくりと立ち上がり、リュミの目の前にしゃがみ込んだ。
「……そのやさしさが罪になることもある。女神の恵みを、一部の者だけが持っていてはいけない。それは、世界の均衡を乱す」
言葉はやさしい。けれど、まるで刃のようだった。
笑顔も穏やかで、語りかける声も静かだったのに、その奥にある意志は冷たく、まっすぐだ。
「……リュミの力はね、こわいのをふわふわにするの。なかよくなるの。だから、こわくなんかないんだよ」
「だからこそ、危ういんだ」
神官は立ち上がり、低くつぶやいた。
「理解されぬまま使えば、いつか秩序を壊す。力は、正しい場所で、正しく管理されなければならない」
リュミには、その言葉のすべてがよくわからなかった。
けれど、胸の奥がひどく冷たくなっていくのを感じる。
神官は黙って座席に戻り、目を閉じて祈りの言葉をつぶやき始めた。
リュミはじっと窓のほうを見つめる。
わずかな隙間から、光がちらちらと差し込んでいた。
(……ねぇ、女神さま。リュミ、まちがってないよね? 森が好きで、みんなが好きで、こわいのをふわふわにするのがいけないことなの? どうしてこんなことになっちゃったの……?)
そのときだった。
ムスティがそろりと身を起こし、まるで空気のように音も立てず、窓の隅に忍び寄る。
体をまるで紙のように薄くして――するりと、外へ抜け出した。
リュミはまだ気づかない。
閉じたまぶたの奥で、女神に向かって小さな祈りを続けていた。
馬車の外壁にぴたりと張りついたムスティが、風に吹かれながらもじっと耐えている。
そして、金色の糸をそっと、少しずつゆっくりと引き始めた。
細く、先生で、けれど切れないように紡がれた糸。
それは枝から枝へ、木から木へと伸びていく。
陽光を受けて、キラキラと光る一本の糸。
まるで、それは、リュミへと続く道しるべ。
きっと、誰かが見つけてくれるように。
きっと、大切なあの子たちが駆けつけてくれるように――。
やがて、窓の外に淡い光が差し込んだ。
リュミはその光に気づき、そっと顔を上げた。
(……ひかってる?)
馬車の隙間から、ふわりと揺れる金の糸が見えた。
まるで空を舞う綿毛のようにやさしく、けれどたしかにそこにある。
胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
涙が今にもこぼれそうになって、リュミは唇をきゅっと噛んだ。
(ムスティ……ありがとう。リュミ、がんばるね。みんなが来るまで、ちゃんと……まってるから)
両手を胸にあて、深く息を吸う。
(女神さま。リュミ、もう泣かないよ。ちゃんと、森に帰るって決めたの。ちゃんと、ただいまって言うんだ)
誓った瞬間、リュミの胸の奥がやわらかく光った。
誰にも見えない小さな光。
リュミのまわりをそっと包み、やがて金の糸に溶け込んでいく。「ここにいるよ」という声と一緒に、森の仲間たちのもとへ――。
馬車はまだ、停まらない。道は遠く、先は見えない。
けれど、リュミの瞳には希望の光が灯っていた。
(リュミ、負けない。かならず、帰る。森のみんなのところに……)
風に揺れる馬車の窓辺。
その隅に、ムスティの小さな影が、今もじっと留まっていた。
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実はこのお話、全部で42話でもう完結まで書き上がってます。
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