1 【冷蔵庫の卵】
【冷蔵庫の卵】
冷蔵庫にある卵を割ってしまおうか。
私の頭はその考えでいっぱいだ。
寝ぼけた頭に無理やり記憶を思い出す。
そう、その目の前にある卵はこの一ヶ月の間、少しも動いていなかったのだ。
私は考える。もしこの卵を食べてしまったら腹を壊すかもしれない。
最悪の場合、爽やかな朝から始まる一日を台無しにしてしまうかもしれない。
ここで一つの解決策を思いついた。冷蔵庫の扉を閉めて見なかったことにしよう。
しかし私の腹の音がそれを止める。
では卵を見なかったことにして、他のもので腹を満たそうと考えた。
野菜室、冷凍室をくまなく探してみたが何もなかった。この冷蔵庫は一つの卵しか入っていなかった。
私はまたどうしたものかと頭を悩ました。すると冷蔵庫からブーっと警告音がする。扉を開けている時間が長く、このままでは冷蔵庫の中のものが腐ってしまう。それを防ぐための機能が働いたのだった。慌てて私は腹の音と共に扉を閉めた。
もう何も食べないでいようと思った。しかしこのまま仕事に行ってしまうと、みっともない腹の音を会社の人間に聞かせることになる。
では仕事に行く道中に飯を食べようと考えたが、すぐに浅はかだったと気づく。
手軽に食べられるファストフード店や、安く腹を満たしてくれる牛丼屋、食事どころか生活用品の全てが揃うコンビニまでもがこの辺りにはない。そのうえ会社の近くにある店まで行こうにも、そのための時間がないと掛け時計が教えてくれる。
この絶望に満ちた顔が最高点に達した時、ノーベル賞を取った科学者のように閃いた。
カップ麺がある。
私はすぐにお湯を沸かし、棚を開けた。
しかし期待は裏切られて頭が真っ白になった。カップ麺がないのだ。
記憶違いでなければ、昨日棚を開けてそれをこの目で見たのだ。
棚の奥を探ってみるが何もない。
するとぼんやりと記憶が蘇る。
私は昨日棚を開けてカップ麺を見て、そしてそのままお湯を入れて食べてしまっていた。
ゴミ箱を開けると、その残骸が確かにあった。
私は意を決した。腹には逆らえない、あの卵を食べよう。
冷蔵庫を開けると変わらず卵が一つある。
手を伸ばし、それを掴む。
そのとき豊かな想像力がここぞとばかりに頭を巡らした。
一日中トイレに入り会社に迷惑をかけるかもしれない、食べた直後は何もなく、時間がたち電車の中でいい大人が漏らしてしまうかもしれない、病院で治療を受けるかもしれない。
その深く続く思考が私を襲った。
ではどうするべきか、このまま卵からヒヨコが生まれるまで待つべきか。
また冷蔵庫から警告音が鳴って、慌ててドアを閉める。
手の中にスッポリと入った卵を見つめた。
もう冷蔵庫から出してしまっていた。
取り敢えず、フライパンを出し、油をひいて火をかける。
卵を割ってようやく私は食べることに決めたのだ。
色の濁っていない黄身が油の中に落ちる。
それを見て私は初めて安心のため息をついた。
油が跳ねる音とともに卵白が固まった。
黄身がカチカチになるまで焼き、端っこに焦げ目が出来たのを確認して火を止めた。
フォークを取り出した、そして腹が鳴る。
一つの目玉焼きに皿を使いたくない私はフライパンに入れたまま黄身の真ん中にフォークを刺した。
すくい上げ、そのまま口に入れる。
ぱさぱさになった黄身が口の中で粉々になり、それを固まった卵白についた油で洗い流した。
フォークをシンクにおいて、コップに水を入れた。
水を飲み、口に広がった黄身のかすを胃の中に運ぶ。
私は腹をさすって、時計を見た。
慌てて身支度をして家の鍵を閉める。
小走りで道を歩く頃にはいつも通りの生活になった。
会社に着き、昼食までの間は腹の音がいつもより多く鳴った。しかし気にすることではなかった。
そんなことより、いつお腹の調子が悪くなるのかについて冷や冷やしていた。
その後、昼食は近くの飲食店で済ませ、腹が溜まることの幸せを嚙み締めた。
そして今朝の出来事を忘れ、仕事を終えた午後5時、私はそそくさと会社から離れる。
スーパーマーケットに寄って晩御飯の安い弁当をカゴに入れた。
レジに近づいたとき冷蔵庫に何も無かったことを思い出して卵を1パックだけカゴに入れる。
私は先月にも今朝のような出来事が起きたことを思い出したが、気にせずレジで会計を済ませたのだった。
≪終わり≫