あの日抱いていたものを
その日は技師連盟の所有する宿泊施設に泊まったアーキスは、翌朝手続きのために再び本部を訪れた。
朝一番の受付前の椅子には既にひとり座っていた。その赤銅色の髪を目にした瞬間、アーキスが動きを止める。
「アーキス」
朝から来るとわかってくれていたのだろう、カウンター内からルゼックが名を呼んだ。その声に弾かれたように振り返る赤銅色の髪の男。
向けられる、自分と同じ藍色の瞳。
「……アーキス…」
立ち上がって小さく名を呟くフォードを一瞥し、無言で軽く頭を下げて。アーキスはそのままルゼックの前へと立った。
「おはよう。手続きに来たよ」
「アーキス…」
背中側から声をかけられるがアーキスは振り返ろうとしない。ルゼックの咎めるような表情に気付き、居心地悪そうに視線を落とす。
「少し話を……」
「手続きに来ただけだから」
両者を見比べ呆れたように息をついたルゼックは、アーキスの前にばさりと書類の束を置いた。
「枚数が多いからな、昨日の部屋を使っていい」
頷いたアーキスが書類を手にした瞬間、ルゼックはだからと続ける。
「そこで書きながら話せばいいだろう」
狭い部屋で向かい合って座りながらも、アーキスはフォードを見もせずに書類を書き続けていた。
それを見つめるフォードは時折何か言おうと口を開きかけるが、結局は言葉にならず。
場を占めていた重い沈黙が破られたのは、六枚目の書類を書き終えた時だった。
「…元気だったか……?」
ぼそりと呟かれた言葉にも、アーキスは七枚目の書類から視線を上げず、まぁ、とだけ返す。
再び暫くの静寂のあと、仕事は、と聞かれた。
「楽しいよ」
「…そうか、それならよかった……」
記憶にある声とは似ても似つかない、弱々しいそれ。
六年振りの父からはなんの圧も感じず。顔を上げかけるが思いとどまり、ざわつく気持ちから気を逸らすべく書類に集中する。
静まり返った部屋で、ただ書類にペンを走らせる音だけが響いていたが。
「…すまなかった」
聞こえた悔恨の滲む声に、十二枚目の書類を書く手が止まった。
「なぜ何も言わずに行かせたのかと、リドたちにもエレンたちにも言われた」
弟と乳母の名に、アーキスは彼らに家を出ると告げた時のことを思い出す。
もう決めたことだから。
どうして、と問われ。自分はそれしか答えなかった。
「お前が思い詰めていたことにも気付かなかった私には、止める資格はないと…。ただ望むようにさせてやるのがいいと、あの時はそう思った」
初めて聞く父の本音。驚愕と動揺の中、アーキスはただ手に持つペンを握りしめる。
突然家を出たいと言い出した自分に、何も聞かず頷いた父。ずっと、呆れられたからだと思っていた。
「私の言葉が足りなかった。あの時話し合うことができていればと、何度……」
途切れた言葉には、ただあの日の後悔と。
息子への謝罪が込められていた。
アーキスがペンを置いた。再会して初めて、まっすぐにフォードを見返す。
「家を出たことは後悔してない」
向き合う藍色の瞳。記憶よりも年齢が窺える目尻に、父も年を取ったのだとふと思う。
「請負人は天職だし、今の環境にも不満はないから。何を言われても戻る気はないよ」
「わかっている」
言い切ったアーキスに頷くフォード。
「もちろん戻れとは言わない。だが、ひとつだけ」
その表情が、柔らかく緩む。
「あの家は、今でもお前の家だから…」
ただ受け入れ、慈しむ眼差しに。
アーキスは無言のまま視線を落とし、再びペンを手に取った。
書類を書き始めたアーキスと、ただ見つめるだけのフォード。静けさは変わらずとも、先程までより間違いなく空気は軽く。
やがてすべての書類を書き終えたアーキスがペンを置いた。脇に避けていた書類を手に取り、とん、と揃えて置く。
「…エレンから、手紙もらってるんだ」
視線は書類に向けたままで、アーキスが呟いた。
「リドとカルフォも書いてくれてる」
「知っている。家からだとお前が気にするだろうから、エレンがうちから出す、と」
「……知ってたんだ」
「読みはしてないが、ふたりとも返事が来ると嬉しそうに内容を教えてくれるからな」
少し笑うフォード。
「今は落ち着いたものだが、最初に返事が来た時はもう大変だったぞ」
「大変って」
「文字通りだ」
何かを思い出すように瞳を細め、それから短く息をつく。
「…ありがとう。私ではカルフォを励ますことができなかったから……」
兄さんに僕たちの気持ちはわからないよ、と。
かつて自分に告げた言葉を後悔していると綴っていた下の弟。
返事を出そうと思えるまで一年以上かかってしまった。その間ずっと苦しめていたのではないかと、今になって申し訳なく思う。
そんなことにさえ気付けないくらい、何も見えなくなっていた自分。
そんな自分に、好きに生きることと自暴自棄になることは違うのだと教えてくれたのは―――。
「…リーのお陰なんだ」
自分を変えてくれた恩人。
その名を口にし、アーキスも辞色を和らげた。
緩んだアーキスの表情に、フォードの顔にも安堵が浮かぶ。
「手紙でもよく出る名だな」
「今こうしていられるのも。父さんと話せてるのも。リーのお陰」
そう呟いてから、アーキスはひとつ息をついた。
向かいに座る、記憶よりも少し歳を重ねた父の姿。
家から逃げて六年も音沙汰のなかった自分にこうして会いに来て、謝り、あの日の後悔を話してくれた。
今更聞かされてもと、思う気持ちがないわけではないが。
(…でも、リーならきっと……)
ようやく話すことのできた自分の葛藤を、その罪悪感を、たった一言で収めてくれたリーならば―――。
アーキスの雰囲気が変わったことに気付き、フォードが表情を固くする。
拳を握りしめ、まっすぐにフォードを見据えて。
「…あのまま家にいたら、俺は俺じゃなくなってた」
自身もまた、あの日の思いを語るアーキス。
「あの頃の俺は、ただの父さんの代替品」
「そんなことはっ」
「少なくとも俺は、そう思ってた」
立ち上がらんばかりの勢いのフォードに淡々と返し、だから、と苦笑う。
「家を出て、俺は俺として。自由に生きて…」
そのうち死ねればよかったと、続けることはできなかったから。
「……過ごせたらいいって、そう思ってた」
言葉が進むにつれ、フォードの顔に浮かぶ悔恨の色。
自嘲を見せながら、アーキスもまた後悔を口にする。
「話もしないで逃げてごめん。俺も勝手だった」
ぐっと息を呑んで何かを堪えるような表情で見つめ返していたフォードは、次第にうなだれ、語り終えたアーキスへと力なく頭を振る。
「………すまない…」
零れた言葉は弱々しく、悲哀に満ちていた。
切り替えるように、アーキスが大きく溜息をついた。
「今はそんな風には思ってないから。もうここだけの話で終わらせて」
ゆっくりと顔を上げたフォードに、まだ苦さの残る笑みを見せる。
「リーのお陰で俺も変われた。だから大丈夫」
少し呆けたようにアーキスを見返してから、長く深い息を吐いて。
「…そうか……」
同じく苦い笑みを貼り付けて、フォードが頷いた。
再びの沈黙は、互いに吐き出した本音の分か、最初の時ほど重くはない。
アーキスは書類の束とペンとを手に持ち、じゃあ、とそれを散らす。
「手続き、今日じゃ終わらないし。またここに来ないといけないだろうから、その時寄るよ」
すぐには意味を取りきれず見返していたフォードが、はっと瞠目した。
その変化をどこか照れくさそうに見届けてから、アーキスは穏やかに笑む。
「……合の月にはできてるだろうから。その時に」