ただ人として
黒の四番の宿場町、その宿の一室にアーキスはいた。
既に食事も湯浴みも終え、あとは明日の出発に備えて休むだけ。
足りぬものはないかと荷物を検める途中、目にした開封済みの封筒にふっと笑う。
紫三番を出てから十日。
本当に色々あったなと、そう思う。
請負人組織本部を出てから、まっすぐ技師連盟本部へと向かったアーキス。赤の四番のすぐ近く、ローザル地区内にあるハウアーンの街に到着したのは三日後の夕方だった。
街の中央よりはやや手前にある広場の一角に入口を構える大きな建物が、技師連盟本部の窓口。付近の建物も関連施設であり、街の一画を占める。
窓口が閉まる前にと、とにかく先に受付をしに行った。
中は待機場所として椅子が並んでいた。奥への廊下の隣には、四人ほど並んで立つことのできる長いカウンターがある。おそらくもうすぐ閉める時間なのだろう、部屋には誰の姿もなく、受付係もひとりだけだ。
どんなご要件ですか、とにこやかに問う受付の女性。ばさりと登録証の束を置き、アーキスもにっこりと笑う。
「これ、全部返還したいんです」
置かれた束からアーキスへと視線を移した女性は暫し固まってから、上の者を呼んで参ります、と笑みを貼り付けたまま言い残してカウンター奥へと消えた。
暫く待っていると、女性は中年の男を連れて戻ってきた。優しげな顔ながら隙のなさそうな雰囲気は、長年ここで交渉事などをしているせいもあるのだろう。
男は呆れたようにアーキスを見てから、全く、と呟く。
「数年振りに顔を出したと思えば…」
「ご無沙汰してます、ルゼックさん」
技師連盟幹部職員であるルゼック。
アーキスとは旧知であり、父フォードの友人であった。
置かれていた登録証の束を手に、ルゼックはわざとらしく息を吐いた。
「立ち話も何だから。奥へ」
理由はわかっているので、頷いてルゼックについていく。
廊下の両側には多少込み入った話もできるようにテーブルと椅子が設えられた小部屋が並んでいた。手前の一室に入り、向き合って座る。
「お前も知っての通り色々とあって。こちらも体制を整えているところなんだ」
「知っての通りって…」
リーの故郷に行った際、隣町のニキールスで偶然詐欺行為をする自分の偽物と遭遇した。この一件に関しては、おそらく自分の名も技師連盟に伝わっているだろう。しかし、体制を変えることに繫がるような事案ではない。
そうなると、残る事案は―――。
「なぁ、アーキス」
登録証をテーブルに置き、じっとアーキスを見据えるルゼック。
「保安は伏せていたが。アリュートの一件もお前だろう?」
アリュート山中で行われていた、反組合集団による金属の溶解と再製。そこでは間違いなく技師しか知らぬはずの知識が使われていた。
「…そのことで、俺からも話しておきたいことがあるんです」
支部ではなく、避けている故郷の目と鼻の先であるここ本部に来た理由。
もちろんリーに話したように、後悔していないのだと示すためでもあるが。もしルゼックに会えたなら、直接伝えたいことがあったのも事実。
脳裏に浮かぶ、やせ細った子どもの姿。
同じ技師としても、人としても、到底許せることではなかった。
話せる範囲でアリュート山での出来事を話したアーキスは、今後の対応をルゼックに願う。
「今保安と協力して、まず調合師と鋳造師の所在を確認をしている」
ひとまずの対応としてそう答えたルゼックは、今後は定期的に報告義務を課すことと、店側に売った相手の記録をつけてもらうよう調整していると告げた。
「反組合に与した者がいるなら、これで少しは絞り込めると思うんだが…」
言葉を切り、アーキスを見る。
「問題は、知識だけが流れている場合だ」
「…あり得る、と?」
技師にとっての知識は商売道具であり商品同然でもあり、物によっては作り方が一般に広まれば扱う価値がなくなってしまう。
だからこそ技師もまた、己の持つ知識を無駄にひけらかしたりはしないのだが。
「お前だって同じ調合師から相談されれば、基本的な知識程度なら口にするだろう?」
ルゼックが何を言いたいのかを察し、アーキスは口を噤んだ。
身分を偽り素人が薬品のレシピだけを手に入れた場合、その者は調合師たちがその身に刻み込む危険性を当然知らぬまま。本来ならすべき注意をしないまま作業をすることとなる。
あの山で行われていたことは、まさしくそういう状態であった。
「この点については各自に徹底してもらうしかないが。注意喚起は行っていくとして…」
一旦言葉を切ったルゼックの纏う空気が変わったことに気付き、アーキスも改めて向き合う。
旧知の間柄としてではなく、父の友人としてでもなく。目の前にいるのは、技師連盟の幹部としてのルゼックであった。
「件の子どもたちに確認を取りたい。協力を頼む」
「あの場で何があったかは保安から聞いてるはずですよね?」
「技師が教えたのか、素人がレシピだけを見て教えたのか。彼らに実践してもらえばわかるだろう」
少し冷えたアーキスの声に動じる様子もなく、淡々と続けるルゼック。
「結果によっては離反者がいないとの証明にもなる」
「連盟としての面目のためなら断ります」
あの山で危険な作業を強いられていたニックとラック。彼らはもう日常に戻っている。つらい記憶は忘れ、子どもらしく普通に日々を過ごすべきだ。
怯える姿を思い出し、テーブルの下で拳を握りしめる。
もう二度と、あんな顔をしてほしくなかった。
きっぱりと言い切ったアーキスに、それでもルゼックは引かない。
「もちろんないとは言わないが、それだけではない。もしそうなら所在確認もこれ以上保安員の手を借りずに済む」
アーキスが僅かに瞠目したことに気付いたのだろう。ルゼックは短く息をつき、連盟幹部としての顔を棄てた。
「彼らが優先すべきことがほかにあることは、俺だって…お前だって知っているだろう?」
苦々しげな声音には、割り切れぬ葛藤が見えて。
アーキスもまた唇を引き結び、視線を落とした。
思い出させたくはないが、ほかの誰かが聞くよりは自分とリーの方がいいかもしれない。
本人、親、組織、団にも了解を得てから。実際にニックとラックを前にして、聞けそうだと自分たちが判断したら。
アーキスが告げた条件を呑んだルゼックは、要請はこちらからしておくと答えた。
顔を見合わせて苦笑する。
これでようやく本題に入ることができると思っているのはお互い様だろう。
「どのみち今からは無理だ。明日また書類を書きに来てくれ」
調合師以外の弟子名を手放す意向を確認し、それから、とルゼック。
「報告義務は名を手放してからの方が厳しくなる。お前には必要ないとわかっているが、特別扱いはできないからな」
もちろんそれでいいと頷くアーキスに、ルゼックはふっと表情を緩めた。
「…後悔はない、か?」
家を出たこと。弟子名をすべて手放すこと。
どちらとも取れる問いを投げかけてこちらを見る眼差しは、子どもを見守る親のそれで。
幼い時から自分のことを知っているルゼック。家族同様家を出てからは一度も顔を合わせていないが、今更ながら心配をかけていたのだと知る。
「ないよ」
語調を崩したアーキスに、ルゼックはどこか嬉しそうにそうかと返した。