過去からの客
夜も更けた、青の五番の宿場町。光量の落とされた食堂から出てきた暗青の髪の男が、辺りを見回してから表に出していた案内板を店内へと取り込んだ。
「入れてきました」
「ああ、ありがとう、ヤト」
店内を片付けていた初老の男性がそう返す。
「あとは店の掃除を頼んでもいいかな?」
「わかりました」
施錠した入口に案内板を立てかけて掃除を始めるヤト。暫く忙しなく動いていたが、ふと手が止まり、店の奥をじっと見やる。
「……サーシャ、心配だな」
店主のジグの声に我に返ったヤトが、眉を寄せて頷いた。
「はい…。でも、リゼリアがついていてくれて助かりました」
沈んだ声でそう返し、ヤトはジグへと頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「何を水臭いことを言ってるんだ。元はといえばリゼリアが余計な真似をしたからで。それにふたりともうちの従業員なんだから当然だろう」
窘めるような声音の奥の温かさに、ヤトは表情を緩めてリゼリアのせいではないと首を振る。
「昨日も今日も。俺まで泊めてもらってありがとうございます」
「いや、こっちも助かるよ。やっぱり男手があると違うねぇ」
自分に気を遣わせないための言葉だとわかっていたが、今はありがたく甘えることにする。
「とりあえず、掃除終わらせますね!」
切り替えるつもりでそう声に出し、ヤトは再び動き出した。
保安協同団南支部の玄関口である青の六番。保安員見習いとして訓練中のソリッドがいるそこに近い場所で、ヤトは仕事を探していた。
ともに道を踏み外した自分とソリッド。堕ちきる前に救われ、酌量されたとはいえ、罪は罪。風当たりの強いだろう保安で頑張るソリッドの力になりたくて、帰る場所のない彼の故郷代わりになれればと思った。
かつて料理人を目指していた自分。できれば料理のできるところで働きたかったが、そうそう都合よく募集をしているはずもなく。もう近辺ならなんの仕事でもいいかと思っていた。
そんな時、偶然入った青の五番にあるこの食堂。給仕をしていたジグの孫娘のリゼリアが客に絡まれていたところを間に入った。仕事を探すヤトと、働き盛りの夫婦を亡くして人手も男手も足りない食堂。互いの利害が一致し、近くの町に家を借りて姉サーシャとともに通いで働くことになった。
過去の出来事から男性恐怖症になったサーシャも、初老の男と孫娘しかいないこの店では気を張らずに過ごせるようで、給仕はまだ無理だが、怯える様子もなく裏方作業をしている。
こうして少しずつ克服してくれればと、そう思っていた矢先のことだった。
若い男がふたり来店したのは、まだ夕方の早い時間帯だった。空いているので接客はリゼリアひとり。ヤトは厨房で下拵えなどジグの手伝いを、サーシャは同じく厨房で食器や食材の準備をしていた。
男たちに水を出しにいったリゼリアが、戻るなり厨房に駆け込んでくる。珍しく興奮した様子でうしろひとつの三つ編みを揺らし、リゼリアはまっすぐサーシャの前へと来た。
「ね、今来てるお客さん、なんかすっごくいい感じなの!」
声だけは潜めてそう告げて、リゼリアはサーシャの腕を取る。
「あんな感じの人ならサーシャも平気かも。ほかにお客さんもいないし、私も一緒に行くから、注文取りに出てみない?」
「リゼリア。無理強いをするな」
ジグの声が飛ぶが、耳を貸さずにじっとサーシャを見るリゼリア。
姉が普段からジグたちを助けるためにも早く接客ができるようになりたいと言っていることを知っているヤトは、口を挟まず成り行きを見守っていた。
サーシャは戸惑った様子でリゼリアを見ていたが、ちょっと覗いてみたら、というリゼリアの言葉に覚悟を決めたように頷いた。
奥の席に座ってると教えてもらい、棚の影からそろりと顔を出したサーシャ。じっと店内を見るその顔が見る間に青ざめていく。
気付いたヤトがサーシャを奥へと引き戻した。
「姉さん!」
声をかけるが視線が合わない。血の気の失せた顔で震える己の身体を抱きしめたサーシャが、小さく唇を動かした。
「……テ…レス……」
耳に入った名にヤトが瞠目する。
慌てて問いただそうとしたその瞬間、がくりとサーシャが崩折れた。
リゼリアたちに気失ったサーシャを任せ、ヤトは男ふたりに注文を取りに行く。
ひとりは茶髪に褐色の瞳の男。もうひとりは濃紺の髪に琥珀の瞳の男。ともに二十代中程だろうか。もしかしたらアジトで見たことがあるかと思ったが、どちらにも見覚えはなかった。
緊張と怒りで心臓がうるさい。
姉を騙し追い詰めたテレスは茶髪に琥珀の目をした男だという。
このふたりのどちらかが、そのテレスであるかもしれないのだ。
もういっそのことふたりとも殴ってやりたいと思いもするが、どうしてもそれはできなかった。
テレスが反組合の一員であるのはおそらく間違いない。
反組合に誘拐されたまま行方のわからない子どもたちがまだ残っている。何があっても軽はずみな行動はするなとジャイルからきつく言われていた。
「…ご注文は?」
震えそうになる声を抑え込み、できる限りの平静を装う。何か話していたふたりが顔を上げ、何がおすすめかと聞いてきた。
「えっ…と……」
まさか話しかけられるとは思っておらず。口籠ってしまったヤトに、濃紺の髪の男がにこりと笑う。
「接客、大変ですよね」
人好きのする笑みを浮かべ、男はヤトを見上げていた。
「すみません、急に。緊張しておられたようなので、まだ慣れてないのかな、と」
向けられた眼差しにふと覚えた感情は、先程までの自分が抱くはずもないもので。
「……そうなんですよ、いつも裏方なので。えっと、おすすめでしたね。それならこれと―――」
動揺を呑み込み、ヤトはメニューを指差し答え始めた。
あのあと、男たちは食事をして店を出た。こっそりあとをつけようと裏口から出たヤト。男たちは店の前で二手に別れたが、迷うことなく濃紺の髪の男を追う。
ただ少し気遣う言葉をかけられただけ。
姉をあんな姿にした相手かもしれないというのに、それだけのことで好感を持ちかけた自分に愕然とした。
幸いすぐに冷静さを取り戻せたが、今となってはあの時の己の心境が不可解でならない。
男が宿へと入っていったことを確認し、ヤトはその足で保安の詰所に向かった。
犯した罪を含めて自分のことを知る女性保安員に男たちのことを話してジャイルへの報告を頼むと、あとは任せて動かぬようにと念を押される。
何かあれば伝えるからとの言葉をもらい食堂へと戻ったヤト。サーシャの意識は戻っていたが、すっかり怯えてしまっていた。
外に出るどころか話すこともままならぬ様子に、ジグは落ち着くまでふたりともここにいればいいと勧めてくれた。雇ってもらう前に自分たちのことを話した時も、彼は少しも態度を変えなかったなと思い出す。
面倒事に巻き込んでしまった罪悪感はあれど、その優しさと、それを向けられる喜びもまた感じながら。
ヤトは素直にその言葉に甘えることにした。
夜が明けて暫くしてから、男ふたりの確認ができたのであとは任せろとジャイルからの伝言をもらった。
自分にできることはなく、邪魔をせぬよう待つしかないとわかっていても。やりきれない思いとともに日中を過ごし、今に至る。
なんとか話せるようになったサーシャから、やはりあの濃紺の髪の男がテレスだと思うと聞いた。
姉自身は部屋から出ようと思っていても、実際は出ると碌に動けなくなるらしく。今も責任を感じたリゼリアが世話をしてくれている。
あれだけ回復していたのにと悔しく思う一方で、これでテレスが捕まればサーシャも安心できるかもしれないと、どこかで期待しながら。
(……ジャイルさん、お願いします……)
願うことしかできない自分がもどかしいが、それでも今できることはサーシャを支えること。
あの時とは違い、傍にいられる。
そして、姉も自分もひとりではない。
早く姉がそのことに気付けばと、そう祈りながら。
動きを止めると這い上がる不安を振り切るように、ヤトは閉店作業を進めた。