穏やかな幸せを
忘れていたいだろう記憶を引っ張り出すことになったニックとエルメ。ふたりの様子を見るためと、おそらく労いや謝罪の意図もあるのかもしれないが、宿の食堂に全員分の昼食が用意されることになった。
まだ時折咳をしているふたりは今も治療を受けているそうで。苦いから嫌だと言いながらしかめ面で薬を飲む姿は少しかわいそうではあったが、嫌だと素直に零せるようになったことはよかったなとリーは思う。
「リーたちは今日帰るの?」
最後に出された菓子を食べながら尋ねるニックに明日の朝だと答えると、エルメとふたり嬉しそうに顔を見合わせた。
「じゃあそれまで遊べる?」
「遊ぼう」
本当はこのあと確認したことを話し合う予定だったのだが、こちらから打診する前にルゼックに夜でいいと頷かれる。
「よし。じゃあ遊ぶか!」
「何がしたいか考えてね」
やったぁ、と満面の笑みを見せるふたり。昼食後は早速町へと引っ張っていかれた。
「高台、リーたちと一緒なら行ってもいいって!」
ゆっくりと町の奥の傾斜を登りながら、エルメにも見せたかったんだとニックが話す。
「ちょっとだけ海も見えるんだよ」
「エルメは行ったことないのか?」
リーの問いに、きょろきょろと周りを見回していたエルメがこくんと頷いた。
「だめって」
「僕たちまだ外で遊べないんだ。すぐしんどくなっちゃうのもあるけど、旅の人も多いから心配なんだって」
不服そうにでも、仕方なさそうにでもなく。ニックの声はそれをただ呑み込んだ事実として語るもので。
拐われたことで傷を負ったのは子どもだけではないのだと、改めて感じた。
登り詰めた先からは町が一望でき、その左側の奥には黒の街道沿いに植えられた木々が横たわっていた。その樹冠の隙間から空よりも少し濃い青が見える。
「ほら、エルメ! あそこ!!」
少し息を切らせたエルメの背を撫でながら、ニックが海を指差した。そちらに顔を向けたエルメの金の瞳が大きく見開き、そのまま釘付けになる。
呆けるその様子を嬉しそうに見てから、ニックも同じ景色へと向いた。
「……きれいだね」
身動きひとつせずに見つめていたエルメが不意にぽつりと呟く。
「ぼく、こんなきれいなの、初めて見た」
「うん。やっとエルメに見てもらえた」
声音に喜びを滲ませたニックは、満足気な顔で振り返った。
「ふたりはもっといろんな景色を見てるだろうけど。ここだってきれいだよね?」
どこか誇らしげなその様子に、リーたちも笑みを浮かべ、しっかりと頷く。
「ああ。町も外も見渡せる、いい場所だな」
「うん。高い場所から海が見えるところは少ないから。気持ちいい景色だね」
告げた言葉はもちろんお世辞のつもりもなく。ともに故郷から海は遠く、日常的に見るものではなかったふたり。たとえほんの僅かでも、異なる青を眺められるこの光景は珍しいものであった。
四人で並んで眺めながら、ふたりにここに来てからのことを聞いたり、ミゼットとネルの様子を話したりと、穏やかな時間を過ごす。
そのうちに、そうだ、とエルメがリーの袖を引っ張った。
「今日ね、リーに夢の話、したでしょ」
怪訝そうなアーキスにはあとで話してもいいかとエルメに了承を得ておいて、急かさず待つリー。
一生懸命に言葉を探すエルメが、狭い部屋に移ってからのことだと説明する。
「その時のこと、いっぱい考えてたらね、もうひとつ、思い出したの」
「思い出した?」
うん、とエルメが頷いた。
「黒い髪で、リーよりね、もうちょっと橙色の目のね、男の人がいたの」
初めて聞くはっきりとした人物像に、リーとアーキスが息を呑む。
「優しくなかったけど、好きだったの。喜んでくれたら、嬉しくって」
「エルメ。その男の顔、覚えてるか? 耳は…」
質問の意図が把握できずに首を傾げるエルメに、ミゼットのような耳だったかと問い直す。
「ううん。長くなかったよ」
「そっか……」
考え込むように視線を落とすリー。見上げるエルメの表情が不安気になったことに気付き、辞色を和らげた。
「教えてくれてありがとな」
頭を撫でるとほっとしたように緊張を緩ませるその様子に、リーは一旦浮かんだ懸念をとりあえず呑み込むことにした。
夕方までふたりと過ごしたリーたち。そのあとはルゼックと技師たちと今日の見解を話し合い、意見を合わせた。
アーキスもふたりの技師も、ニックとエルメは技師から教えられたのではないだろうとの判断だった。もちろんふたりに教えた人物が技師から教わったという可能性も残されてはいるが、あれだけ杜撰になるのなら、教わったとしても昔のことで誰かを特定するのは難しいだろう。
当面は材料の入手先に絞って調査を進めると、どうやら結果に応じた対応を考え済みだったらしいルゼックが告げ、今回の調査は幕を閉じた。
少し遅くなった食事のあと、部屋に戻ったリーはアーキスにエルメの夢の話をする。
「細かいことも聞いてみたけど、曖昧みたいでさ」
前の部屋に子どもが何人いたかも、覚えある部屋には人に連れていかれたかどうかも、どうやらはっきりとしないようで。だからこそ夢か現実かわからなかったのだろうと推測する。
「外には出てないみたいだし、それなりに大きなところっぽいよね」
「にしては見つかんねぇけどな」
以前エルメが言っていた監禁場所は、気温が低く、怖いものがいたところ。当該の施設どころかそれらしい場所も魔物もまだわからないままだった。
保安だけでなく、請負人も探しているのに一向に見つからない。建物自体が余程予想外の様相なのか、それとも場所がそうなのか。暗闇の中を手探りで探すように、あまりに不確かなことばかりだった。
「……黒髪に、橙…」
「リーよりも、だから。少し赤めの茶色かも」
そんな中、不意にくっきりと現れた人物像。
「……マルクさんにも報告しとかねぇとな」
エルフでないならば。
浮かぶひとつの可能性に、リーは溜息をついた。
翌朝には、皆揃って見送りに来てくれた。
「昨日はありがとうございました」
エルメの両親にまたもや頭を下げられて、リーたちは慌ててやめてもらう。
高台からの景色が余程気に入ったのだろう。エルメは帰ってからもその話ばかりしていたそうだ。
「今度ね、メリアムも一緒に、皆で行こうって」
にこにこと嬉しそうに話すエルメに、リーは昨夜のアーキスとのやり取りを思い出す。
両親の心配もあり、まともに外出していない様子のニックとエルメ。医者の診断はわからないが、体力をつけるためにも身体を鍛えるためにも、無理のない範囲で動いた方がいいと思うんだけどとアーキスは言っていた。
そして、特にエルメはずっと閉じ込められていたからこそ。無機質な室内ではなく、自由に外に出て刻一刻と移り変わる景色を見てほしいとリーは思っていた。
もちろん自分がそれをエルメの両親に望むことはできないが、これをきっかけに少しずつ互いの不安が薄れればいいのにと願う。
「…いいなぁ。僕もエルメとまた行きたい」
ぽつりと呟いたニックに、両親もそうしようと頷いてくれていた。
「ありがとう、リー、アーキス。また来てね」
「ぼくも、待ってるね」
順番にぎゅうっと抱きついてくるふたりを抱きしめ返し、近くに来たら顔を出すよと約束する。
姿が見えなくなるまでずっと手を振ってくれていた子どもたち。見違えるように元気になっていた姿への安堵とともに、これからも、穏やかに、幸せに、と思う。
湧き上がる感傷をらしくないなと心中苦笑しながら。
それでも満ちる幸福感とともに、リーは帰路に就いた。





