夢現
翌日は朝から宿を三部屋借りての確認作業の準備が進んでいた。
それぞれの家に出向いて見知った場所で行ってもいいかと思ったのだが、ニックの家が店舗であること、そして何より、ニックの様子を見せることによってより心配なエルメを安心させることができるかもしれないと考えてこの選択となった。
ニックの作業中、ルゼックは隣室で両親と話し、リーは別室でエルメの様子を見る。
エルメの作業中も同様に、リーはニックに異変がないかを見守ることになっていた。
揃って宿に到着したニックとエルメに不安気な様子はなく、ひとまずは大丈夫そうだとふたりも安堵する。
「じゃあ僕から行ってくるね」
エルメに手を振り、両親、そしてルゼックとともに部屋を出るニック。
終始浮かれたような様子だったが、アーキスと女性調合師と三人で移動した部屋で秤を目にした瞬間、僅かに身動ぎ足を止めた。
無理しなくていいと声をかけるのは、背を押すのと変わらない。
何も言わずに見守るアーキスの視線の先で、ニックはゆっくりと息を吐き、自分から秤の前に座った。
「大丈夫。やれるよ」
力強く言い切ったニックの肩に、励ますようにアーキスが手を置く。
「頼むね」
示された信頼に、ニックは少し嬉しそうにアーキスを見上げて頷いた。
本物の薬品を扱わせるわけにはいかないので、代わりに用意したのは塩や砂糖といったどこにでもある無害な粉末。
料理をするみたいと笑って肩の力が抜けたのか、その後は動揺することもなく。ニックの知る限りの調合を順に実践してもらい、気になった点をいくつか質問してからの終了となった。
アーキスがニックに話を聞いている間、リーはエルメとその家族と一緒に部屋で待機をしていた。
ニックを見送ったあともエルメは落ち着いた様子で、キョロキョロと物珍しそうに見回すメリアムをにこにこと見ている。
「暫くかかるって言ってたから」
メリアムの気が済んだ頃にそう声をかけると、エルメが傍に寄ってきた。
「うん。あのね、聞いてくれる?」
「ん?」
「夢を見たの」
見上げる瞳は真剣そのもので。リーは頷き、エルメの前に膝をついて視線を合わせる。
目の前のリーににこりと微笑んでから、エルメはぽつりぽつりと話し始めた。
薄暗くて狭い部屋。薄い毛布にくるまっても寒く、ずっと片隅で丸まっていた。ほかにも数人子どもの姿があったが、ひとり、またひとりと減っていったのだと。辿々しい言葉でエルメは続ける。
「ぼくもね、そこを出たの」
誰かに連れ出されたのか、それなら相手はどんな様子だったのか。聞きたいことはいくつもあったが、今口を挟むべきではないと思い、リーはただ相槌を返すだけに留めておいた。
「もっとせまいところ。そこはね、覚えてるの」
エルメの瞳に陰が落ちる。
「ずっとね、そこにいたから」
エルメのうしろでは、両親が悲痛な顔をしてメリアムを抱きしめていた。
「夢かほんとか、わからないの。だからね、言えなくて」
再び話し始めたエルメはもう穏やかな顔をしていたが、小さな手は何かに耐えるように握りしめられたまま。
「それにね、ぼくね、まだじょうずに話せないから。でもリーたちなら、じょうずじゃなくても聞いてくれるかなって。思ったの」
「エルメっ!」
駆け寄った父親が膝を折り、うしろからエルメを抱きしめる。
「ごめんな、エルメ…。父さんたちが悪かった……」
「……おとうさん?」
「いいんだ……そのままのお前でいいから……」
きょとんとして振り返ろうとするエルメだが、うしろから腕を回されていてあまり動けない様子で。
「どうしたの?」
そのまま黙り込んだ父親に、戸惑うエルメが助けを求めるようにリーを見た。
リーは何も言わず、ただエルメの頭を優しく撫でる。
暫くリーを見つめていたエルメがゆっくりと瞳を伏せた頃には、握りしめられていた手もすっかり緩められていた。
笑顔で戻ってきたニックと入れ替わりに、エルメたちが部屋を出た。
見送るニックに不安定な様子は見えず、リーはひとまず安堵する。
「おつかれさん」
そう声をかけ頭を撫でると、ニックはえへへと笑った。
「そうだ! リーに教えてほしいことがあったんだ」
「俺に?」
そう、と頷いてから、ニックは一度母親を振り返る。
「一番最初にリーが食べさせてくれたおいものやつ。美味しかったからまた食べたいなって思って」
「ニックから聞いて作ってみたのですけど、ちょっと違うと言われて。よければ作り方を教えていただけませんか?」
まさかの質問に驚いてニックと母親を見てから、それはいいけど、とニックの前で屈み込む。
「でも、多分同じの食べてもそんなに美味しいって思わないだろうけどな」
「そうなの?」
不思議そうに見返すニックに、そう、と頷いて。
「でもさ、それでいいんだよ」
ニックのうしろ、笑みを浮かべる母親にはわかっているのだろう。
極限状態から解放されてからの、長らく振りだろう食事らしい食事。あの時だから美味しいと感じたのだと。
「それだけいつも美味しいもの食べさせてもらってるってこと、だろ?」
だが、その理由は知らぬままでいい。そう思っての言葉に、ニックはそうだねと笑った。
エルメの調剤作業を見届け、外に出たアーキス。落ち着いた様子だったので大丈夫だろうと思いながら、それでも廊下でそのまま待つことにした。
エルメにもあとで少し話を聞くにしても、おそらく、と考える。
ふたりの作業で注視していたのは薬剤の扱い方や投入順、入れ方混ぜ方。誰が作っても寸分なく同じものである必要があるからこそ、調合師ならば徹底しているはずのそれら。
それがやはり、自分たちの知るものとは違う。
学んだわけではないふたり、慣れで変わっていったり簡略化されている可能性はある。しかし恐怖で縛られ強いられていた以上、それを変えるある意味強かさがこの幼いふたりにあったとは思えない。
ニック自身も教えられた通りにやってきたと話していた。エルメにしても同じだろう。
技師の造反でなかったのはよかったとしても、漏れていたのが情報だけだからといって楽観視はできない。
偶然情報を得たからではなく。得たい情報を得られるだけの手管を持つ相手なのだとしたら―――。
閉まったままの扉を見つめ息をつく。
保安の管轄だとわかっていても、請負人としても、技師としても、ここまで関わることになったからには力を尽くしたい。
この際どうにかねじ込んでもらえないものかと考えつつ。
アーキスは扉が開くのを待っていた。





