迎えるものたち
遡ること二日。合の月二日に赤の三番でリーたちと別れたアーキスは、その日の夕方にソリングへと到着した。
十六歳で実家を出てから今まで、一度も足を踏み入れなかった故郷。覚えある風景に少しの違和感を混ぜたような、そんな町中を進んでいく。
店舗が並ぶ通りを逸れ、家々が建ち並ぶ一画の奥の方、緑の葉に覆われる柵が見えてきた。
変わらぬ佇まいを前に足を止め、見上げる。
六年振りに帰ってきた生家には、もう昔感じた圧迫感はなかった。
「兄さん! おかえりなさい!」
バタバタと飛び出してきたカルフォに抱きつかれ、アーキスは笑いながら安心させるように背を叩く。
前回のように泣き出したりはしないものの、それでも溢れる喜びは、あれからも心配して待っていてくれたからだろう。
「ただいま」
肩越しにリドと目を合わせ、その隣、懐かしい微笑みを浮かべる女性へと視線を移す。
胡桃色だった髪には白いものが多く混ざり、目尻には幾本も皺が刻まれていた。
カルフォに解放してもらったアーキスは、その前に立つ。
少し老けたが、穏やかな笑みは変わらない。
「ただいま、エレン」
「おかえりなさい、アーキス。皆中で待っていますよ」
細められる水色の瞳には、僅かに光るものがあり。アーキスは手を伸ばし、ぎゅっとエレンを抱きしめる。
「……ずっと帰らなくてごめん」
六年前に比べ、自分はそれほど大きくなったわけではない。それなのにエレンを前より小さいと感じるのは、それだけ彼女が老いたということ。
一の月を迎えれば、エレンはもう六十歳となる。
突然の抱擁に少し驚いた顔をしたエレンは、それでもすぐに表情を緩めてアーキスの背に手を回した。
「子どもはいつか家を出るもの。アーキスはそれが少し早かっただけでしょう?」
普通ではなかった独り立ちを当たり前のものだと認め、変わらず迎えてくれるその言葉。
感謝はそれ以上声にはならず。アーキスはそのまま暫くエレンを抱きしめていた。
弟たちに連れられて行った先には、フォード、弟たちの乳母であるクラリスとレシェア、そしてレシェアの娘のスフィアの姿があった。
「…おかえり」
「ただいま」
少し言葉を選ぶ様子のフォードにそう返すと、その瞳に安堵の色が浮かぶ。本当に自分が来るのかと心配していたのは父も同じらしい。
六年前には見なかった姿だなと思ってから、気付かなかっただけかと思い直す。相手が見えていなかったのは、おそらく自分も同じだったのだろう。
「仕事は?」
黙ったままなのもどうかと考えそう話を振ると、ああ、とフォードが相好を崩した。
「今までの分休みを取った」
言われてから、合の月だからといってフォードが家にいたこともなかったことを思い出す。どこか吹っ切れたようなその笑みに、父は父なりに変化を示してくれているのだと感じた。
「……部屋はそのままにしているから。夕食に飲む酒を取ってくる」
ぼそりと呟き部屋を出ていくフォード。
「昨日から本当に落ち着かないのよ」
「ずっとソワソワしてたわね」
その背を呆れたように見送り、クラリスとレシェアが笑う。
雇用関係以前に親戚である乳母たち。記憶にあるよりも親密なやり取りだと感じるのは、留守がちな父と乳母たちが顔を合わせている場に居合わせることが少なかったこともあるだろうが、何よりも自身の視野の狭さが原因だろう。
この六年は自分にとってかけがえのないものであるが、同時に逃げていた時間でもある。それでもこうして気付けるようになったことを成長と言えるのなら、離れていた期間にも意味はあったのかもしれない。
そんな風に思っていると、ふたりの視線が自分に向いていることに気付いた。
フォードを見るのと同じ呆れた眼差し。しかしそれは優しく温かで。
「これからは少しくらい帰ってきなさいね」
「エレン姉さんも家で退屈してるから。顔を出してあげて」
穏やかに請われ、アーキスはエレンへと視線をやる。
「もう。年寄り扱いしないで」
そう言って困ったように笑うエレンは、アーキスの視線に気付いて更に笑みを深めた。
「いいのよ。いつでも好きな時に帰ってきなさいね」
不義理を詫びる前に釘を刺されたアーキスに残された言葉は礼しかなく。
「……うん。ありがと」
そんな頷くだけの言葉でも、エレンは嬉しそうに受け取ってくれた。
すぐに食事にするが、ひとまず自室に荷物を置いてくればと言われた。
思い出の詰まる自室はかつてのままで。手放したつもりのものに迎えられ、どうにも心苦しくうなだれる。
何もかも置いてきたつもりだった。
後悔などないつもりだった。
それでも部屋に満ちる思い出は、苦さは残れど温かく心に蘇る。
再び居場所を得たそれを、もう手放さずに済むようにと願いながら。
切り替えるように息をつき、荷を置いたアーキスは食堂へと向かった。
食堂の前には薄茶の髪の若い女性の姿。習慣で潜めていた足音を大きくすると、女性が気付いてアーキスを見た。
「どうしたの、スフィア?」
リドとカルフォの乳兄弟でもあるスフィア。幼い頃はレシェアとともにここへ来ていたこともあり、アーキスにとっては妹のようなものだ。
十五歳だったスフィアも、もうすぐ二十二歳。すっかり大人の女性となっていた。
「ちょっと文句を言ってやろうと思って」
前まで来たアーキスを見上げ、スフィアが強い口調で言い放つ。
「エレンおばさんたちと手紙のやり取りはしてたんでしょ? なのにどうして今まで帰ってこなかったの?」
スフィアは昔から気が強く物怖じしない子どもだった。容姿は年頃の娘らしく別人かと思うほど可憐であるのに、そんなところは変わらないなと少し嬉しく思う。
しかし投げられた問いは、笑って答えられるものではなかった。
「俺は父さんと……ここと、縁を切ったんだと思ってたから」
「ここに来なくても、三人には会いに来れたでしょ?」
間髪入れずの強い言葉に、アーキスはただ苦笑を返す。
スフィアの言うことは尤もだ。しかし自分にそれができるかどうかは、また別のこと。
会えないとも、会おうとも、思わなかった。
スフィアはそれ以上答えないアーキスを暫く睨み上げていたが、やがて諦めたように息をついた。
「……カルフォ、見てられないくらい落ち込んでたわよ」
先日の様子から予想はしていたが、その様子を第三者からはっきりと聞くと申し訳なさが募る。
「……悪かったと思ってる」
「ふたりとも、組合で頑張ってるわ」
「そっか」
スフィアが一度口を噤み、じっとアーキスを見据えた。
「私もね、もうすぐ結婚するの」
まっすぐ向けられる水色の瞳が、六年前のそれと重なる。
あの頃のスフィアはいつも心配そうに自分を見ていた。
「そう。おめでとう、幸せにね」
自分はもう大丈夫だから。そんな思いを込めて幸せを願う。
込めた願いを受け取ってもらえたのか、スフィアがようやく辞色を和らげ、ありがとうと呟いた。
張り切りすぎたとエレンが笑う中、八人での食事は賑やかに始まった。
手紙で予告されていた通り、懐かしい好物が並ぶテーブル。歓迎されていることはもちろん、好きなものを覚えていてくれたことに喜びを感じる。
そんな中で初めて父と飲む酒はいつもより少し強かったのか、すぐに酔いが回ってしまったようで。
少しのことで振り切れそうになる感情を抑えながら、アーキスは取り戻せた時間を噛み締めていた。





