あの日から
カルフシャークとユーディラルの出立は夜が更けてから。それまでにはまだ時間があった。
早速飛びついてくるアディーリアに待っているよう頼んでから、リーはユーディラルを呼ぶ。
フェイの教える相手がカルフシャークだけでなくユーディラルもであること。このことを知ってから、ずっと心配していた。
拐われて連れて行かれた先のラジャート村で、ほかの子どもたちを逃がすために足止め役となったユーディラル。戦い方を知らぬまま人の悪意に対峙した結果、人の脅威と脆さを知ることとなった。
戦うことは傷つけることでもあり、傷つくことでもある。
その方法を知ることは、あの時心に負った傷を抉ることにならないだろうか、と―――。
傍に来たユーディラルは、何、とは聞かなかった。
「アディーリア。ちょっとリーと話してくるね」
池から上がってリーの手を取り、森の方へと引っ張っていく。池から少し離れてから、ユーディラルはリーを見上げた。
「心配してくれてありがとう」
向き合うなりのその言葉に、リーは自分が何を心配しているのかは筒抜けかと思いながら頷いた。
「…大丈夫、か?」
そんな曖昧な言葉にしかならなかったが、それでもユーディラルは微笑む。
「…怖い気持ちもあるけど。それでも、知っておいた方がいいと思ったんだ」
迷いも怯えもなく淡々と語られるその答えは、ユーディラル自身がリーと同じ問いを何度も重ねてきたからこそのもので。あれから今まで、ずっと自分に向き合ってきたのだと知らしめるものでもあった。
「知識だけじゃだめだって、よくわかったから」
まっすぐに自分を見据える青い眼を受け止め、リーも辞色を和らげる。
ユーディラル自身が考え抜いて決めたこと。それなら自分にできるのは、ただその決断を認め、応援することぐらいだろう。
「そっか。頑張れよ」
手を伸ばして労うように背を撫でると、ふふ、とくすぐったそうにユーディラルが笑った。
優しく触れる手と向けられる気持ちが嬉しくもくすぐったくて、ユーディラルは笑みを浮かべる。
リーも。そして父も。自分の決意をただ受け入れてくれた。
怖いと感じるのは本当だが、抱くのは恐怖というより心配なのだろう。
戦う力を知ることへの不安。そして、それを知った自分がどう変わるかへの不安。
人への恐怖を克服しきれないままでは、また何かの拍子に人を傷つけてしまうかもしれない。
龍としての自分の在り方を見失ったまま、その力を振るってしまうかもしれない。
そんな怖さがないわけではないのだが。
それでも今向き合おうと思えたのは、カルフシャークと一緒だから。
何事も前向きに楽しむ兄と一緒なら、自分も知ることを楽しいと思えるかもしれないと、そう思ったから。
組織から了承の返事が来て以降、やっと自分も教えてもらえるのだと待ち切れない様子だった兄の姿。
自分が今から教わることは決して恐ろしいことではなく、自分にとって必要なごく普通のことなのだと。
始まる前からそんな風に気付かせてもらえた。だから―――。
「大丈夫だよ」
自然と零れる、感謝の気持ち。
「カルフシャーク兄さんと一緒だから」
帰ってきたユーディラルに、今度こそ自分の番だと息巻くアディーリア。ウェルトナックにも話があるのだと告げると、じっとリーを見てから力なくうつむいて頷き、池の中へと戻っていった。
わかったと声にはしながらも、沈む気持ちは隠しきれず。寂しいと悲しいに溢れる心中を申し訳なく思いながら、リーは入れ代わりに出てきてくれたウェルトナックを見上げる。
「ありがとな」
「なんだいきなり」
何に対しての礼なのか、おそらくわかっているのであろうに。それでもしらばっくれるウェルトナックはどこか楽しそうで。
こんなやり取りも楽しんでくれているのだな、と。リーも表情を緩める。
「アリュートの時にさ、子どもたち、早くこさせてくれただろ? あと、できることを教えといてくれたのと」
こちらからの要請後すぐにアリュートに来てくれた子龍たち。練習だと言って川の浄化を代わってくれたお陰で、負担の減ったヤシューエントも目に見えて回復した。
「あやつらも早く行きたいと浮かれておってな。それくらいなら早く行けと言ったまでだ」
そうはぐらかして笑うウェルトナック。
「それに。ヤシューエントからも組織からも、ちゃんと礼は言われておる」
「そうかも知んねぇけどさ」
アリュート川の汚染の原因は人によるもの。本来なら下流にまで影響が出ていたはずのそれを、ヤシューエントたちが喰い止めてくれていた。
自分たち人がしでかしたことの尻拭いをすることとなってしまった二匹に、自分たちでは何もできないことが心苦しくて。
子龍たちに助けられたのはあの二匹だけではない。自分たちもまた、そのもどかしい思いから救われたのだ。
「けど、俺も助かったから。だからありがとな」
「ならば素直に受け取るとしようか」
芝居めいた台詞にお互い顔を見合わせ、笑い合った。
「でもホント、皆頑張ってたよ」
アリュートでの様子を思い出すようなリーの言葉に、わかっていると頷くウェルトナック。
「特にカルフシャークは見違えるようだった」
誇らしげに帰ってきたカルフシャークは、魔力操作が格段に上達していた。自分で気付いてくれたのだと話すシェルバルクとオートヴィリスもまた、ずっと弟を気にかけていたからこそ嬉しそうで。
明るく元気なその見かけからはわかりづらいが、ずっと奥底に劣等感を抱いていたカルフシャーク。今回のことは、己を知るいい機会となったようだ。
確かにと頷いてから、リーはそっとウェルトナックに顔を寄せる。
「……そういや魔力量、一番多いって…」
「そうそう。メルティリアに似てな…」
なぜか声を潜めあってから、ふたりして暫し水面を見つめた。
何も変化がないことにホッと胸をなでおろしたところへ、ユーディラルも、とリーが続ける。
「カルフシャークと一緒に行くって…」
「ああ。自分から教わりたいと言ってきた」
ユーディラルの葛藤はそうすぐに割り切れるものではないとわかっている。しかしそれでも、考えることをやめようとしないユーディラル。
龍の一生は長いというのに、まるで人のそれに合わせるかのように―――。
「……本当に。我が子ながら皆成長が早いな…」
しみじみと呟くと、何言ってんだよとリーが笑う。
「ウェルトナックの子どもだから、だろ」
お世辞でも慰めでもないその言葉に、ウェルトナックもただ笑った。
ひょこりと池から顔を出したアディーリア。少し待たされすぎて不貞腐れる様子に笑いながら、リーはほらと手を伸ばす。
「おまたせ。ありがとな」
そろりと伸ばされた小さな手を掴んで引っ張り上げる。
そのまま座って膝の上に乗せると、しがみつくようにぺたりとくっついてきた。
「あとになってごめんな」
背を撫でながらそう言うと、いいのと返される。
「リーはお仕事で来てるってわかってるもん」
言葉とは裏腹にますます抱きついてくるアディーリア。
寂しい思いをさせてしまったことは申し訳なく。それでもこうして懐いてくれる様子は嬉しくもあり。
落ち着くまで暫く待ってから、リーは改めて名を呼んだ。
「フェイたちが戻るまでここにいるから。何かしたいことあるか?」
名を呼ばれてなおアディーリアは顔を上げず、そのままきゅっと握る手を強くする。
「…いっぱい話したい」
「うん」
「手伝うから、ご飯作ってね」
「任せとけ」
「あとね」
ようやくそろりと顔を上げて。
「来てくれてありがとう。会えて嬉しい」
嬉しそうに緩む金の眼に、リーも笑みを返し、頭を撫でた。
日が沈み、辺りが暗闇に包まれてから。
「じゃあ行ってくる!」
「行ってきます」
皆と向き合うカルフシャークとユーディラルが、迷いのない声でそう告げる。
直前まで送っていこうかと心配していたシェルバルクと、道中も気をつけてと注意をするオートヴィリス。メルティリアは励ますようにぎゅっと抱きしめ、アディーリアは頑張ってねと応援した。
「フェイのやつが無茶しそうだったらすぐに言うんだぞ? マルクさんが止めてくれるから」
「皆にも聞こえるのに?」
もしもの時には龍の伝達手段を使えと言うリーに、二匹はくすくす笑う。
「ふたりとも。気負わずにな」
じっと見つめてのウェルトナックの言葉に、顔を見合わせるまでもなく頷いて。
「楽しんでくるよ」
「…僕も」
そう笑みを見せてから、カルフシャークとユーディラルは行ってきますと残して飛び立つ。
僅かな光の中を時折煌めきながら、その姿はすぐに夜の帳の向こうへと消えた。