第8話 私の名前
「あまり難しく考えなくていい。最後の項目にサインをするだけで構わないよ」
奈緒は最終項目の署名欄を指差すと、『こちら側の世界のルールを順守する』と記載されている。
保護責任者の署名には既に栗山奈緒の名前があり、この誓約書の意味を察した。
「奈緒さんが異世界人である私の保護者になってくれるのですか?」
「まあ、早い話そういうことだ。元の世界へ戻れるまで、ここでの暮らしを支援する立場だよ」
どうやら、元の世界で暮らすには誓約書に従うのを義務付けられているようだ。
署名に拒否する理由もなく、私は異世界で両親から授かった名前を書いて見せた。
「クシャ・アルリーナか。それが君の異世界での名前か」
「本当は三崎信也と書きたいところですが、やはり駄目ですよね」
「便宜上はな。当面の暮らしはクシャ・アルリーナとして過ごしてもらうことになるが、琉緒は……あの子は君を三崎信也だと確信しているし、君と琉緒の関係に私が口を挟むような野暮な真似はしないよ」
誓約書を受け取った琉緒は私の心情を察してくれたようだ。
保護責任者の立場である奈緒のことを考えれば、あくまで異世界人のクシャ・アルリーナを保護しているのだ。
「クシャちゃん、とても素敵なお名前ですわぁ。可愛い女の子に出会った記念に乾杯」
ほろ酔い気分のルミスは私の傍に寄って、酒臭い息で私に祝杯を投げ掛ける。
一応、私は二十歳なので酒や煙草を口にしても問題ないのだが、どうも苦手だ。
酒の代わりにペットボトルのお茶で乾杯をすると、ルミスはお構いなしだ。
「悪いが、ルミスを下の階層にある部屋まで連れてってやってくれ。本当は別々の部屋を用意してやりたいところだが、彼女と共同部屋ってことで我慢してくれ」
奈緒から部屋の鍵を受け取ると、彼女は誓約書を手に取って机上のノートパソコンで作業を始める。
おそらく、異世界人である私がここで暮らすための手続きをしてくれているのだろう。
私は奈緒に一礼すると、ルミスを介抱するように肩を抱き寄せて共同部屋を目指した。