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淫乱と陰惨

胎洞


 23歳の時、病院で子宮頚がんを宣告された。

 24歳の時、子宮を全摘出した。


 病室に燻るアルコールの匂いと遠くから香る苦悶する病人の体臭。

 それを吸い出す換気口の管から金属音が響いてる。

 大きな病院の西側の大部屋病室、大部屋なのに今は私しか入院してないから閑散としていて、ベットも重さを失ったように平べったく感じた。


 横たわっている私のベッドは背骨を支える力もなさげに沈み切っている。まるでアリジゴクのようにゆっくりと獲物である私を穴の底へと、シーツの中へと落とし込んでいるように感じた。

 これだけ深いと寝返りを打つのもだるくて、術後の体調不良も相まって寝不足がひどくなった。


 気分が悪くなるほど白い天井を見上げながらへその下に出来た一文字の傷を人差し指でなぞろうとする。上から絆創膏のようなものを張られてしっかりとは確認できないけれど、確かにそこにみみずばれのような盛り上がりがあることを感じとることができた。しかし、私の腹は以前よりもへこんだまま。


 ぽっかりとできた空洞を感じる。

 臓器一つ分、子宮一つ分の空間。そこには最早何もない。

 もう何も宿らない。

 子供を作るための空間がなくなってまるで居抜きされたような気分だ。

 私の体はマンションか何かなのだろうか。

 

 胎を擦る。


 喪失感と倦怠感が体を真水のように包み込んだ。

 術前はあんなにもあった悔しさや絶望感が子宮とともにあのソラマメ型の鉄のお椀に置いてかれたようだった。診察をしてくれていたお医者さんが白衣ではなく、水色の手術着を着た時から私の中で何かが折れたんだと思う。心の中の何かが。だから、涙もでやしなかった。


 今や悲しいという気持ちすら起こらない。


 開け放たれた窓の向こうからうっすらと聞こえてくる少年たちの笑い声。カーテンを揺らす風が吹き抜けて私の鼻孔に薬品以外の匂いを運んでくれる。この一瞬くらいしか今の私を慰めてくれるものはない。

 換気のためのひと時のものだというのが恨めしい。


「外には何があるんだろう」


 子供の声。

 声が聞こえたような気がした。窓の向こうの遠く遠くにはいるだろうけれど、どこか耳元でささやかれたのではないかと思うほど近い距離に聞こえた。


「……ァ、誰か、いるの?」


 乾燥した唇を開くと表皮が破ける音がした。

 チクチクとした痛みはあるけれど、あどけない声の返答はない。


 ようやく沈んだ腰を上げて周りを見回した。上半身を起こすことすら術後の体力と痺れでは重労働だ。けれども、何故か今の声の主を探さなければならない衝動に私は突き動かされていた。


「いない……」


 いない。

 それは私の腹の洞穴のように。


 誰もいない病室で、窓の外から子供たちの楽しそうな声だけが聞こえる。


 この病室は空洞である。

 私以外には誰もいないし、私もまた空洞な女。だから、二重の空洞しかなかったのだ。こんな大きな部屋なのにまるで隔離されたような気分だった。誰とも会話する機会がないというのは私の耳をより敏感にし、静寂を聞くことにより一層集中させる。そのおかげで絵を描くことに集中できてありがたかったが、手術後はどうも絵のクオリティが悪い気がする。まだ麻酔が抜けきっていない。


 私は何かこの空洞に見出したのだろうか。


 空洞。失ったことで得た人が得るはずのない空洞は私の脳にどんな影響を与えたのだろうか。机の上に置かれたスケッチブックは多くの絵で埋まっているが、やっぱり手術前後は何かが違うような気がする。けれども、私には何が違うのか明確な答えは出ていない。違いが空洞の中に隠されている。見比べ続けると下腹部が痛くなってくるので、あまり見比べないように術後の絵だけに専念することが多くなった。


 水を一杯飲もうと備え付けのコップに手を伸ばそうとした。

 心臓が持ち上がり、頭脳が起き上がったことで倦怠感が血と一緒にまた巡りだす。

 気分が悪い。


「いるよ」


 私の手が止まる。

 今度ははっきりと声が聞こえた。


 この病室の中にいる、そんなわけない。見回しても虚無。私以外には誰もいない。

 落日が窓辺からぬるりと風と共に入ってきてカーテンを押しのける。刺すような夕焼けの色が病室の端まで染めて全てを明かした。


 誰もいない。


 聞こえてくるのは私の中からだ。

 空っぽの中には何かが宿る。


 箱の中には宝物が。

 闇の中には怪物が。

 空洞にはそこに棲むモノが現れる。


 私の頭の中には脳が詰まってる。私の脳は空っぽじゃない。

 空っぽなのは私の胎の中。子宮がないのに何が宿るというの。


「あなたは誰?」


 ありきたりな質問を自分の臍めがけて投げかける。

 麻酔で鈍った感覚しかなくて、熱いも冷たいも分からない。

 私の腹のことは私が一番分かっていたはずなのに、感覚を奪われてからは理解は上辺すらなくなった。


 自らが投げかけた質問に答えが返ってこないことを望んだ。そうであるならば最初から声なんてかけなきゃよかったのに、私はどうしても問わねばならない気がした。理解できない現象が腹の内で結実する様なんて誰もみたくないだろう。患者服を捲って臍と縫われた唇のような傷を凝視する。耳を澄まし、ジッと腹の音を待った。


 動悸がする。

 鼓動が早まる。

 熱が蛇のように這い回る。


 臍を見つつ私は大きく深呼吸しようとした。


「誰だろうね? 君は知っているかもしれないよ」


 吸いかけた空気が喉に詰まる。

 答えはあどけなく返ってきた。

 

 胎洞(はらあな)からの胎動、月光に当てられたかのような産声である。

 私は慄いた。臍を見つめるのをやめて逃げるように頭を沈めた。ザリザリとした感触とともに、苦悶の声を上げた私の後頭部を枕がしっかりと支える。その枕を押し退けて私は倒れ込み、奈落の海にでもこの病身を放り込みたかった。


 私は気が狂ってしまったのか。


 いや、あれは幻聴などではない。

 私を意識した返答はただ胎洞で反響する山彦でもないのだ。

 今私の中には異形の、或いは無形の赤子が住み着いている。悍ましい、悍ましい。自分の体の中に見知らぬ存在が入り込んでる。誰の子とも知らぬ赤子が勝手にあるはずのない子宮で育ってるのだ。それは病原菌や寄生虫のような恐怖と似て非なる恐怖を私に与えた。


 外来から来たるものを受け入れる恐怖でありながら、差し詰めそれは産み落とす恐怖だった。産み落とす機能を失った私が何かを孕んでること自体可笑しい、ありえないことなのにだ。



 『産み落とす恐怖』



 産み落とす恐怖というのを私は知っていた――こうなる前はただの上京してきた芸術家志望の大学生だったのだから。


 産声が過去を呼ぶ。


 小さい頃から何かを描いたり作ったりするのは好きだった。瞼の裏に動物を想像して、架空の要素なんかを付け足したりして描く。翼の生えた猫、6本足の犬、空を飛ぶ鯨。

 様々な動物たちとの対面、夢の中から白いキャンバスに獣たちが踊りだし輝いた。

 スケッチブックいっぱいに描き、いつしか周りにもその輝きは認められ、そのサーカス団の団長になった気分で私も嬉しくなっていた。

 人間や人間の社会は私にとっては苦手だったけど、ただ自由に動く動物たちに憧れとお気に入りの気持ちを抱いていた。一生絵が描ける環境であればそれ以上望む者はないと思っていた。可愛らしい幻想に囲まれる。そんな現実を叶えるために両親の反対を押し切って私は芸術系の大学に進学することを決めたのだった。


 しかし、大学に入って趣味はいつしか探求に代わり、楽しむものではなくなっていった。


 題材の鎖。決められた構図。生かさなきゃならない課題。

 男性が得意でもないのに男女入り混じったヌードデッサンをさせられたのも私は嫌だった。


 ヴェールに隠されていたはずの醜悪な存在が探求の名のもとに白日に晒される。それを有機的に、生き生きと描かなくてはならない。ふわふわでメルヘンな私の獣たちとは違う現実という異質な舞台に連綿と存在し続ける邪悪物。


 しかし、そう思うのは私だけで他の生徒たちは真剣に「美術」に向き合っている。私がそう思うことはむしろ不真面目だと言われたこともあった。


 美術の歴史はエロスとともにある。

 まるで神聖なことを話す法王にでもなりきったように大学の教授はそんな言葉を吐いた。

 私の世界にエロスはなかったのに、私の美術に汚い性欲の入り込む隙間はなかった。

 人類が数千年かけて紡いできた美の歴史は私を否定し、私も人類を否定した。純潔で穢れのない野生の美だけを追い求めた。原罪のあるもの、罪ありき人間はもはや醜悪そのものだったから。


 私は一度、堕胎を経験している。

 友人が懇意にしている先輩に飲み会の帰り道を送ってもらうことになり、車に乗ってしまった。私はその先輩と面識がなかったけれど、友人が信用しているのなら大丈夫だろうと高をくくってしまった。そうしたら、いつの間にか鬱蒼とした山奥に連れていかれ、「星空が綺麗でしょ」などと嘯かれながら犯された。最初は何をされているのか分からなかったし、冷静になったときには今自分がどこにいるかもわからなかった。だから、おとなしく言うことを聞いて股から血が出る痛みをなんでもないふりをしているしかなかった。


 それから数か月して妊娠していることが分かった。私は誰にも相談することができず、公衆トイレでどうにか自分でかきだした。子供の形になる前の肉塊を。それはちょうど摘出した子宮と同じような一回り小さい死んだ生命だった。


 私は私のした選択が間違っていたということに気づいたが、今更認めることもできず、両親にも相談できず、産みたくないものを産み続ける苦しみを味合わせられた。


 いつしか私は殻にこもった。

 自閉的で閉塞的な思考が乱立する。

 他者との交流は日に日に途絶えていき、獣たちがその穴を埋めた。


 穴だらけの私の魂は巣に丁度良かったのだろう。筆を動かすたびに彼らが躍り出た。

 その形は昔とは変わってしまっていたけれど。

 私と私を介して彼らも一つに溶けあっていったのだ。

 

 キャンバス上の獣たちから骨子は無くなり、毛並みは揃わず乱れに乱れ文様を描いていった。個体は個体ではなくなり、混ざり合っていく。たくさんの獣が一つの大きな獣になるのだ。


 昼も夜も突発的に絵を描き始め、完成させるまで一切寝なかったせいで副交感神経障害と不眠症を患った。一時期はキャンバスが鏡に見えて、獣と自分の区別もつかなくなってしまった。


 自分を保てなくなる前に私は絵を辞めた。

 私の穴だらけの魂の中にはまだ無数に、死体に群がる蛆虫のように、尾を巻いて獣たちが住んでいる。けれど、もうそれが産み落とされることはないと思っていた。


 だが、幻聴だと思っていたさっきの声は産み落とされずに私の体内に留まっていた獣たちが煮凝ってで発したものだったのだろう。


「思い出したわ……あなたは私の旧い友達、絵の中のケモノたち。そうでしょ?」


 私は空洞に向かって話しかける。

 その空洞から尾が見えたような気がした。

 幾重にも重なった色とりどりの尾の獣が私の空洞の中を巣として跋扈しているに違いない。

 私はそう思って看破した。


「ボクはキミの旧い友達……そうか、そうなんだ」


 納得したような声が聞こえる。

 本当に自分の正体を知らないのか。肉と臓器と皮膚の下、私の空洞に棲まう存在は歯切れの悪い答えを返したように思えた。

 けれど、それに反比例してキャンバスの獣だという確信は私の視界には捲った臍のあたりに尾の影がチラつくようになった。


「ねぇ、トモダチ。外には何があるんだい?」


 くぐもった声で私にそう語りかけてくる。

 喪失した誕生を待ちわびて、子供がプレゼントの中身を親に聞くようにそう言った。

 私は喉が苦しくなった。


「外になんていいものはないわ。ここはそう薬品と空のベッドだけ。惨めな気持ちになる」


「つまらないことを言うんだね、トモダチは」


「私は自閉的に生きてきた。あなたたちだってその産物だわ。閉ざされた私からしか生まれなかった獣、閉ざされた世界から出ることはできない生き物。私もあなたもキャンバスの中から出られはしないの」


「トモダチにはキャンバスってないだろう? ボクはずっとトモダチの空想の中でしか動けないけれど、キミは本当はどこまでも行けたはずだよ。キャンバスに納めたのはキミ自身だ」


「知ったような口を聞かないで。この世は、私の外はどこまでも穢れていて理不尽よ。どこにもあなた達のように純粋で優しさに満ちた存在はいない。人間なんてみんな薄皮一枚むけば狡猾さと欲求に支配された獣なんだから」


「ボクは違うって言いたいの? ボクらだってトモダチが欲しがったから生まれてくるんだ。それは欲の産物だよ。自分にとって都合のいい人間がキミは欲しかっただけなんだ。それをカリカチュアして歪めたのがボクらだろう」


「黙りなさい! あなた達は愛らしくて愛おしくて……ふわふわで、人間とは違う存在。獣は獣でも愛玩動物のような愛らしさなのよ」


「愛玩。そうだね、キミは人の心を弄んだ。他人の心ではなく、自分の心を。君から見た人間の不必要な要素。怒り、悲しみ、老い、嫉妬、強さ、弱さ、それらを排斥し、体毛の生えた皮で包んだんだ。だから、キミの想像する獣は人の言葉を話すんだ。だって人間をもとにモデリングされた存在なんだから」


 

 私の中で沸々と熱が沸き起こる。私の腹部で立ち上る様々な色の尻尾を一遍に掴んで引っこ抜いてやりたかった。いつの間にか影だけだった尻尾は実態を持っていた。それらは天井まで到達しそうでまるで動物のはく製で作った大木のようであった。


 腹の洞穴の上に聳え立つ毛樹木。


 どうして、私に対して口答えをするというのか。

 どうして、創造主に対して被造物が反抗的な意思を見せるのか。


 ましてや私の胎の洞穴に宿った幻想、生命ならば私に恭順しているべきだろう。

 私は幹のように固く生え伸びた狐の尻尾を掴んで、毛を毟った。


 ぶちり。ぶちり。


 むしられたところから血が滲む。毛むくじゃらの大樹は私の臍から生えているのに、私は全く痛くなかったし、ソレも痛がる素振りを見せなかった。


「あなただけは私のことを理解してくれると思ったのに。私の想像から生まれたくせに! どうして私を裏切る? どうしてもうない私の子宮に宿ったの?」


「ボクは裏切ってないよ。それでまだ生まれてもいない。そんなに怒るならボクに名前を付けてごらんよ。名前を付けることができるのは親の特権でしょ」


「名前、いいわね。お前はアンバー。琥珀であり、生まれるべきではない者、アンバースのアンバー」


 尻尾の大樹が苦し気に捻じれる。

 私が名前に込めた呪いが効いたかのような素振りに見えた。

 しかし、ぶるぶるともう一度震えると今度は胎から生えたその尻尾の大樹はゆっくりと花開くように絡ませた尻尾をほどいていった。


「いいね。僕はアンバー、生命なき獣」


 気に入ったかのようにころころと笑うアンバー。

 その姿は見えず、尻尾だけが揺らぐ。

 だんだんと頭の熱が上がってきた気がする。お医者さんの言っていた術後の吸収熱というのが始まったんだろうか。私の内側から響く声も歪み始め、だんだんとオフホワイトの病室をはっきりと認識できなくなっていた。


 胎洞から生えてきた尻尾の大輪、その花弁に鮫のような目が生えていた。

 それは私が毛を毟った部分だった。

 私はぎょっとしてナースコールのボタンに手を掛けようとする。けれども、その手は虚空をひっかいて、後ろへと、さらに下へとすり抜けていく。おぼろげになっていた病院の輪郭が完全に消えて、酸で溶かしたように泥化していく。


 頭が痛い。吐き気がする。


 ジーンという金属を引き裂くような音まで私の頭の中でとぐろを巻き始めた。

 すり抜けて落ちた体を精一杯奮い立たせて、立ち上がる。そのころにはもう病室という現実は無くなっていた。

 胎から巨大な蛇のように伸びた尻尾にはところどころ目が生えていて、ふわふわよりも肉肉しい見た目に変容しだしていた。渦を巻くごとに毛が剥げていき、皮膚を剥いだ肉のようなものが見えてくる。


 世界は白く濁り、かろうじて病室の出口のようなところだけはその形を保っていた。

 私は尻尾を引き千切ろうとした。


「やめて! あなたのような醜いものに連れていかれたくなんてないわ!」


 最早尻尾とは呼べない肉の尾、そこから生えたぎょろぎょろとした目玉が一斉に私を見つめる。それは睨むでもなく、あざ笑うでもないが、漠然と私のことを認識していた。

 それがどこか幼げな子供が母親のやっている行動を理解してないような目だった。


 一瞬の罪悪感の後、へその緒のように尻尾は胎から千切れた。

 もう子宮もないのにこんなものを生やしているのはおかしいのだ。

 アンバーと名付けた怪物の尾を白濁した床に投げ捨てると血しぶきがブチュリ! と飛び散った。

 私はその飛沫から逃げるようにして溶けかけの出口から逃げ去った。


「私はやっぱりどこか狂ってしまったんだわ!」


 ようやく自覚した。

 何か既に私は狂ってしまったんだ。


 ぐるぐるとDNAのように二重らせんを描く病院の廊下、果てのない暗黒に先が包まれているが振り返らずとも退路がどんどんさっきの病室のように溶けだしているのを感じる。


 とにかく逃げなくては。

 それはこの崩落の悪夢に対して、思ったのかあそこで投げ捨てた水子の怪物に対して思ったことか。


「逃げられはしないさ。自分だって気付いているんだろう」


 まだ腹の中から声がする。

 なぜ? さっき尻尾は引き千切ったはず。

 麻酔が切れたのか手術痕が焼けるように痛む。走るのにも慣れていないから、脇腹もすぐに締め付けるような痛みを発しだした。


 その中で悠々自適に胎洞の怪物は語りかけてきた。


「あれはキミが勝手に産み出した部分だもの。ボクのことを勝手に想像して、だした。名の呪いはキミが生み出したものが肩代わりしてくれた」


「じゃあ……はぁはぁ、あなたは本当に何者?」

 

 私が産んだものではないのなら、私の胎の中に宿る怪物とはいったい何者なのか。

 恐怖。熱病。苦痛。苦悶。苦悩。

 私の空洞の中で様々な苦しみが混ざり合い、溶けあっていく。

 この無限に続く病院の廊下も闇に溶けあっていく。


 口端から血が垂れる。

 もつれそうになる足を私は必死に止めずに走った。


「何者だと思う?」


 またこれだ。

 こいつは自らは絶対に素性を明かさない。

 

 はぁ、はぁ――!


 心臓の音が限界まで高まっていくのを感じる。

 これ以上走ったら死んでしまう。生暖かい液体が腹から抜け落ちる、そんな冷たさがあった。


 この化け物の正体を看破しなくてはならない。

 この化け物自体は私に姿すら見せていない。名前だって私につけさせた。

 あの尻尾は私がやつに教えた私の獣たちの情報を木のように植え付けて、成長させたものに過ぎないんだわ。


 コイツは自分の正体を答えさせて、それを生み出す怪物。

 推察が推察を呼ぶ頭の中だが、もう体力も時間もない。


 けれど、答えは最初から知っていたのかもしれない。


「お前の正体は――


 その時私の右足が左足のアキレス腱に引っ掛かった。

 次の足を前に出せなかった私は吸い込まれるようにして白く濁った床に額をたたきつけた。


 暗くなっていく視界。

 ここで舞台は幕引きだった。

 犯人までたどり着いたのに。

 犯人の名を告げられずに死んでいく。


 否、これに限っては



 ――名なんてなかったのだけれど。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「脳挫傷。転倒時に頭部を強く打って即死したようです」


「まだ若かったのに、可哀そうに」


「子宮全摘出のショックと吸収熱のせいで一時的な錯乱状態が引き起こされたようです。大部屋なのに自分以外の患者さんを認識できていなかったりしたようですので」


「彼女の絵、見ましたか。アレが遺作になったのがなんというかいたたまれないですね……」


「あぁ、あの穴の絵ですか。絵なのにぽっかりと穴が開いて見えました。アレは喪失感を現したのか、強い思いがあったように思います」


「そうですね……箱の中には宝物が。闇の中には怪物が。なんて言葉もありましたかな。きっと彼女は自身の中に出来てしまった穴を埋められずにいたのでしょう」


「それは胎の穴ですか、それとも心の穴ですか」


「どうでしょう。きっと彼女には彼女にしかわからないものがあったのでしょう。それがこの絵に表れている。抑え込んだ病的な衝動はいずれ胎動を始め、やがて――



 胎洞(はらあな)を開けるのですから」


 

 




 胎洞。







本作は私が子宮をテーマに小説を書きたいというところから始まりました。

子宮がテーマというか、子宮を失った女性が主人公の精神病的なホラーが書きたかったんです。

元々なんでそんなマニアックなところに飛んだかというと、高校のころにドラマ版のハンニバルがやってまして、そこにヴァ―ジャー家という連中が出てくるのです。いろいろ割愛しますが、その家の兄が妹の健康な子宮を切除するというシーンがあって、その冒涜に心が震えたのですよね。


生命というのは次代に繋ぐことをある程度本能レベルで目標にしていると思います。そのために性欲があったりするので。で、その生命の命題ともいえる臓器をただの血縁者が同意もなく破壊するという行為がとても衝撃的でたぶん人格形成レベルで私に影響を与えたと思います。


女性男性に関わらずその反出生的な、あるいは生命の連綿とした営みを独断で阻害できるのはとても悪しく強くエロティックな権力で、私はその中にあるものをいつか書きたいなと思っていました。


今回はその一歩目といいますか、私が見たあの二、三分程度のシーンの一秒でも同等程度になれたらいいなと思って書きました……でも、まだまだ足りませんね。煽情的でなく、病んだ方向に行き過ぎてしまったかもしれません。


長々とお付き合いありがとうございました。

いずれまた性器切除モノ、あるいは出生における禁忌をテーマに書きたいと思います。


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