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それぞれの春に ~米坂線・只見線~

 被災したローカル線を特集したいと、知り合いの編集者から記事の依頼を受けた。

 それならと僕は答えた。


「米坂線と只見線がいいでしょう」


 南東北地方にあるこの二本のローカル線は、いずれも豪雨によって線路や鉄橋が流される被害を受けた。

 一方は半年前で、もう一方は十一年前のことだ。

 その「いま」を追ってみたいと思ったのだ。


 令和五年四月上旬の週末、生憎の雨だったが、僕は取材に出かけた。




 福島で東北新幹線から切り離された山形新幹線つばさ133号は、高架から地上に下りて奥羽本線を走り、残雪の板谷峠を越えて米沢に着いた。


 米坂線は、ここから羽越本線の坂町駅まで結ぶ、90.7キロの路線だ。

 昭和一一年の開通当時は宮城県や山形県と新潟県を結ぶ幹線の役割も期待されていて、仙台と新潟を直通する急行が走っていた時期もあった。

 しかし、モータリゼーションの進展で乗客や貨物が減り、また山形新幹線の開業によって奥羽本線のレール幅が変わって線区をまたいだ直通運転が不可能になったこともあり、今では米沢近郊と坂町近郊の地域輸送を担う赤字ローカル線になっている。


 米沢駅の米坂線乗り場は、新幹線ホームの端っこに、おまけのようにくっついていた。

 停まっていた今泉行は、キハ110形という、白緑色のボディにライムグリーンの縁取りがあるディーゼルカーの二両編成だった。

 ぽつぽつと席を埋める乗客は、リュックやカメラバックを担いだ鉄道ファンばかりだった。


 米沢を出発した列車は、米沢市街地の南を迂回するように走る。

 最上川を渡り南米沢に着くと、高校生が大勢乗り込んできた。鞄を座席に投げ、大声で騒ぎながらお菓子を分け合う。

 次の西米沢を出ると、車窓は市街地から田園風景に変わる。

 高校生たちは駅ごとにどんどん下車していき、終点の今泉まで乗ったのは数人だけだった。


 今泉は、米坂線と山形鉄道フラワー長井線が、X字形に交わる駅だ。

 二面四線のホームがあるだだっぴろい駅に、花柄のディーゼルカーがぽつんと停まっていた。高校生たちが乗り込んでいくが、これは山形鉄道の荒砥方面へ向かう列車で、米坂線の坂町方面へは行かない。

 行かない、というよりも、行けない状態になっているという方が正しい。米坂線は、半年前の令和四年八月に集中豪雨で被災し、全線の七割にあたる今泉から坂町の間が今も不通のままなのだ。

 その不通区間には、列車の代わりに乗客を運ぶ代行バスが運行されている。僕も鉄道ファンたちも、要するにそのバスに乗るために来たようなものだ。

 今泉と坂町の間は乗客が少ない区間だったから、温泉旅館の送迎に使われるようなマイクロバスを想定していたが、改札を抜けた駅前広場に停まっていたのは真新しい大型の観光バスだった。


 鉄道ファンばかりを乗せて定刻に出発したバスは、集落の狭い道を器用に走り抜け、三角屋根の小屋の前に停まった。

 タイル貼の壁に、JR萩生駅という看板が掛かっていた。

 客の乗降はないが、定刻まで待機したバスは、駅前広場をめいっぱいに使って方向転換して走り出した。

 次の羽前椿でも、広い道路を外れて、律儀に駅前に立ち寄る。

 路線バスではなく、代行バスなのだなと実感した。


 車窓の左右から山並みが迫り、バスは国道113号線を走る。この国道も豪雨による土砂崩れで埋まったが、わずか三日間の応急工事で通行可能になったという。

 この辺りは米坂線も被災した区間だが、バスの車窓からは線路の状況は見えない。


 宇津峠のトンネルを抜けると、狭い盆地に街並みが開けて小国に着いた。

 小国は米坂線の中では大きな駅だが、ここでも乗降する客はいない。木造二階建ての白い瀟洒な駅舎が、冷たい雨の中で寒そうに佇んでいた。


 小国を出て国道を走り、県境を越えて新潟県に入る。

 荒川が削った渓谷から平野に出ると、米坂線の被災区間が車窓からも見えるようになった。路床が流されて宙吊りになったレールや、土砂や流木に埋まった踏切が、そのままで放置されている。思っていたよりも、深刻な被害だった。

 JR東日本は沿線の自治体に対して、米坂線の復旧費用の分担と今後の利用促進を合わせて協議することを求めている。しかし自治体は、まず復旧ありきで利用促進は別の話だというスタンスで、協議は進んでいないという。


 人家が軒を並べる越後下関で、ひとりの女子高校生が乗ってきた。

 被災前は米坂線と羽越本線で通学していたという彼女は、「列車からの眺めは好きだったけど」と前置きしてから、言葉を選ぶように答えた。

「米坂線が復旧しても赤字だと思うし、バスになって本数が増えるのなら、それでもいいです」


 やがてバスは、小ぶりな校舎を思わせる坂町駅に着いた。

「さよなら」と笑顔で下車した彼女が、黄色い雨傘を開く。

 灰色の風景の中に、チューリップが咲いたようだった。




 翌朝、雨は上がったが、空は低い雲に覆われていた。


 今日は、只見線に乗る。

 只見線は、磐越西線の会津若松駅と上越線の小出駅を結ぶ135.2キロの路線で、ほぼ全線が奥会津の深い山峡を走る。

『絶景秘境ローカル線』『一度は乗りたい鉄道』という類のランキングで、必ず上位に選ばれる人気路線だ。

 訪れる人は多いが、列車の本数は極端に少ない。これから乗る小出行は、昼間に全線を直通する唯一の上り列車なので、週末は都会の通勤電車なみに混雑するという。


 うわさに違わず、発車時刻はまだ先なのに、会津若松駅の只見線ホームは鉄道ファンや観光客でごったがえしていた。

 そこにやってきた小出行は、キハ111形の二両編成だった。

 ドアが開くと同時に乗客が車内になだれ込み、我先に座席を埋めていく。終点の小出まで五時間ほどかかるので、なんとしても座席を確保したい。四人掛けのボックス席に腰をおろして、ようやく人心地がついた。

 相席になったのは父子連れで、父親が「座れて良かったな」と男の子に笑いかけた。まったくの同感だった。


 満席の客を乗せて、列車は会津若松を出発した。

 しばらくは山並みを遠望する田園を北上し、会津坂下で進路を西に変えて奥会津の山間に進入する。

 杉林の中の急勾配を登りきった列車は、ひと息つくように会津柳津駅に停まった。

 車窓がピンク色に染まり、父親が「おお」と声を上げる。目をやれば、静態保存された蒸気機関車が満開の桜に抱かれていた。

 発車間際に、派手な法被を着た中年の女性が乗り込んできた。彼女は、走行中の車内で、名物のあわまんじゅうや天然炭酸水を販売し、只見線を紹介するパンフレットを配る。売れ行きは良く、僕のところに回ってくる前にどちらも品切れになっていた。


 会津桧原を出てすこし走ると、列車は第一只見川橋梁にさしかかった。

 車掌が景観をアナウンスし、列車は速度を落として鉄橋を渡る。

 空中を行くがごとき車窓で、はるか眼下に只見川が川幅いっぱいに濃緑の水を湛えている。

 ほぼ全ての乗客が、車窓に張り付いてカメラやスマホで写真を撮る。

 列車からは見えないが、対岸の山中にはこの橋梁を絶好のアングルでカメラに収められる撮影台が整備されていて、今も多くのカメラマンがこちらにレンズを向けているはずだ。

 ここは、車窓のハイライトであると同時に、只見線復活を象徴する場所でもある。


 只見線が被災したのは、平成二三年七月だった。

 集中豪雨によって只見川が氾濫し、流域は壊滅的な被害を受けた。只見線も橋梁がいくつも流失し、線路は多くの箇所が寸断された。

 ニュース映像を見た僕は、これで廃線になるだろうと思った。


 だが只見線は、そこから奇跡的な復活を遂げた。

 地元の写真家が四季折々に撮影した第一只見川橋梁の写真を、インターネットに掲載したことがきっかけだった。

 新緑の、紅葉の、そして雪景色のなか、只見川をトラスアーチ橋で渡る列車。そんな写真が多くの人の心をつかみ、訪れる人が増えていった。

 沿線の自治体も積極的に宣伝した結果、国内のみならず海外からも観光客が押し寄せ、只見線は押しも押されもしない観光路線に変貌した。

 そして被災から十一年が経った昨年の十月、復旧費用と線路や駅の維持費を地方自治体が負担する上下分離式という手法によって、只見線は全線が運転再開となった。


 列車は、只見川に寄り添うように走り、早戸に着いた。

 静かな山峡の駅で、山の緑を映す凪いだ川面を、茶色の和舟が滑るように渡っていくのが見えた。かつての渡し舟を観光用に復活させ、よく川霧が立つことから「霧幻峡の渡し」と名付けたという。

 今はすっきりと見通しがいいが、条件が合えばさぞやと思う。


 会津若松から二時間あまり走った列車は、会津川口で三十分停車する。

 その時間を利用して、近くにある人気のスポットに足を運んだ。パンフレットに紹介されている、「かなやまふれあい広場」だ。

 国道脇のなんということもない公園だが、眼前には郷愁をそそる絶景があった。

 山並みに抱かれた薄緑色のダム湖、湖岸に沿ってカーブした只見線のレール、そして湖にせり出すように家々が軒を寄せ合う集落が一望できる。雲間から差す薄日が、山襞を浮かび上がらせ、集落の青や赤の屋根を鈍く光らせていた。

 湖面を渡ってくる風は冷たいが、広場には観光客の姿がちらほらとあった。

 その中のひとり、三脚に一眼レフを据えて写真を撮っている男性は、東京から泊りがけで来たと言う。

 見事な景色を前にして、しかし彼は顔を曇らせてため息を落とした。

「川面が荒れていて、風景が映り込まないんですよ。これじゃ、絵になりませんから」


 駅に引き返し、再び小出行の乗客となる。

 本名を出るとすぐに、列車は第六只見川橋梁にさしかかる。

 車窓の目と鼻の先には本名ダムがある。上部に水門を開閉するための櫓が林立し、足元に黄土色の巨大な発電所ビルを備えた灰色の堰堤から、ごうごうと白い水を吐き出している。

 只見川は、このダムを含めて十基の発電用ダムが建設されていて、さながらダム湖が数珠繋ぎになったような川だ。そこに七〇〇ミリもの雨が一気に降り、ダムは緊急放流を余儀なくされた。この本名ダムも濁流を吐き出し続け、川岸ごと橋脚を削り取られた第六只見川橋梁は崩落した。

 只見線はもともとダム建設のために敷かれた鉄道だから、恩を仇で返されたようなものだ。

 再建された鉄橋は、橋脚を排し、橋桁を支えるトラスを上部に移した。ダムと変わらぬ高さになり、まるで二度と流されるものかと睥睨しているかのようだ。


 ダム湖が過ぎて車窓に集落と農地が広がると、庭先や畔からこちらに向かって手を振る人たちの姿が見えた。

 このあたりは豪雨被害が集中し、復旧にいちばん時間がかかった区間だ。

 向かいの席の男の子が、目を輝かせて手を振りかえす。

 青空が覗いて、日差しが暖かくなった。


 やがて列車は、西日に照らされた只見駅に着いた。

 里山にぽつんとある小駅だが、列車はここで十分停車した。

 乗客のほとんどが席を立ち、狭いホームは人であふれた。それぞれに、只見線を紹介した展示パネルに見入ったり、構内を歩き回って写真を撮ったりしている。

 しかし、駅から出ていく乗客も、駅にやってくる乗客もなかった。


 陽がすこし傾き、駅名標の影が長くなる。

 只見駅から乗務する女性車掌が、「まもなく発車しまぁす」と澄んだ声を響かせた。


 乗客は競うように列車に戻り、駅には人影がなくなった。

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