遥かイーハトーブ ~岩手開発鉄道~
窓ガラスに映った私の瞳のなかを、遠くの街の灯がゆっくりと横切っていった。
東北本線青森行きの夜行急行「八甲田」は、満員の乗客を乗せて闇の中を北へ向かっている。
レールの継ぎ目を渡る車輪の音が、一定のリズムで響いている。
この音を聞くと、鉄道はいいなと思う。
鉄道に乗る目的を問われれば、旅をするためだと多くの人が答えるだろう。
けれど十人十色と言われるように、鉄道に乗ることが旅をする目的だという本末転倒を旨とする好事家もいる。
かくいう私がそうだ。子どものころから電車が好きで、やがて鉄道に乗ることを趣味とする大人に成長した。その趣味は高じて、日本中の鉄道に乗り尽くすことが目標になった。
社会人になって初めての夏休み、私は岩手と青森の未踏路線に乗るべく、五泊五日の旅に出た。
その初日は、夜行列車で出発して遠野と碁石海岸を観光し、岩手開発鉄道に乗ってから気仙沼で泊まるという行程だった。
岩手開発鉄道は三陸地方の南部、リアス式海岸の奥に九・五キロのレールを伸ばす私鉄だ。
時刻表巻頭の路線図にちょこっと描かれている様は可愛らしいが、さて乗ろうとするとこれがとんでもない難物だった。
まず、起点の盛にたどり着くだけでひと苦労する。東北新幹線の一ノ関から大船渡線に乗っても、新花巻から釜石線と三陸鉄道南リアス線を乗り継いでも、片道で三時間あまりかかるのだ。
しかも肝心の岩手開発鉄道は運行本数が少なく、半分は途中の日頃市での折り返しになっていて、終点の岩手石橋まで行く列車は早朝と昼過ぎと夕方の三本しかない。おまけに、どの便も大船渡線や三陸鉄道南リアス線との接続が悪く、一時間以上待たなければならない。
終点の岩手石橋は山中の行き止まりだから、行ったらまた帰ってくるしかない。行に四時間、帰りにも四時間かかる。余所者が岩手開発鉄道に乗るには、まる一日が必要だった。
それでも、いやそれだからこそ、乗らねばならないと思った。
なぜそこまでして本末転倒を敢行するのかといえば、有名な登山家の言葉ではないが「そこに鉄道があるから」としか言えない。未踏の鉄道があるのに乗らずにすますなど、私にはできないことだった。
乗ることは既定なのだから、私は発想を変えることにした。どうせ一日を費やすのなら、鉄道だけでなく周辺の観光もすればいい。地図を見れば、盛は陸中海岸の景勝地である碁石海岸に近く、また釜石線の途中には民話の里として有名な遠野もある。うまく立ち回れば、そのあたりを観光する時間くらいは取れそうだ。
私は時刻表を何度もめくり、なんとか納得のいく行程を編み出した。
「八甲田」が花巻に到着すると、ちょうど日の出の時刻で、東の空のわずかな雲の切れ間からオレンジ色の光が差した。
ここで釜石線の急行「はやちね」に乗り換える。
花巻といえば宮沢賢治であり、宮沢賢治といえば「銀河鉄道の夜」である。ジョバンニとカムパネルラが夜空を旅する軽便鉄道は、これから乗る釜石線をモチーフにしたものだと言われている。
ディーゼルカー三両編成の急行「はやちね」は、田園風景の中を走り、やがてその名を頂いた早池峰山脈に進入した。
岩根橋駅をすぎて五連アーチの橋を渡ると、車窓に棚田が広がり宮守という小駅に停まる。ホームの竜胆が、小さな青い花を咲かせていた。
山間を抜けて盆地が広がり、遠野に到着した。
このまま「はやちね」で先を急いでも、どこかでぼうっと待ち時間をすごすだけなので、いったん下車して市内を観光することにした。
遠野は、柳田國男の「遠野物語」で知られる、民話と伝承に彩られた町だ。レンタサイクルを駆って、河童が出たという渕を覗き、オシラサマを祀った茅葺き屋根の南部曲り家を訪ねた。
三時間ほど滞在してから、急行「陸中1号」の乗客となる。
壮大なヘアピンの上を走るように線路が敷かれた仙人峠の急勾配を下り、製鉄所がそのまま町になったような釜石に着いた。
三陸鉄道南リアス線と路線バスで碁石海岸に行き、豪快な海食崖の眺めを楽しんだあと、帰りのバスを盛駅前で降りる。
時計の針は午後五時すぎを差していて、お目当ての岩手開発鉄道の発車時刻まで、あと二十分ほどになっていた。
これまでは順調だった。だが、ここにきて予想外の問題が発生した。岩手開発鉄道の乗り場が、どこにあるのかわからないのだ。
地方の小規模な私鉄が国鉄の駅を間借りするのはよくあることで、この盛駅も国鉄大船渡線の駅舎やホームを三陸鉄道の南リアス線が利用している。当然に岩手開発鉄道も同じだろうと高を括っていたのだが、いくら探しても乗り場を示す案内が見当たらない。乗り継ぎ客など眼中にないことはダイヤが物語っているが、ここまで徹底しているとは思わなかった。
仕方がないので、駅員に訊ねてみた。駅員はホームの彼方に貨車がごろごろしているあたりを指差して、あそこが岩手開発鉄道の駅だと告げ、構内は立入禁止だからいったん駅を出て回り道をするように、と念を押した。
教えられたとおりに国道を五分ほど歩いていくと、踏切の脇に建つ番小屋のような駅舎があった。間口と同じ幅の看板が掲げられていて、岩手開発鉄道という名称と、ひらがなと漢字とローマ字で駅名が大書されていた。
駅の存在を誇示しているようだが、路面電車の乗り場を思わせる狭小なホームに人の姿はなく、夏の陽を浴びた花壇の花が風に揺れているばかりだ。
留置されている貨物列車の向こうには、さきほどまで途方に暮れていた国鉄の駅やホームが見えている。すぐそこといっていいほど近いし、こちらは線路にも出入り自由な様子だ。このまま構内を横切れば一分もかからないであちらに着きそうだから、帰路はそうしたい誘惑にかられる。なるほど、と思った。駅員が念を押した理由に合点がいった。
駅舎に入ると、狭苦しい待合室の奥にさらに狭い出札窓口があって、おばさんがちんまりと収まっていた。
掲げられた運賃表を見れば、岩手石橋まで九十円だった。百円玉を一枚渡すと、お釣りの十円玉とともに「岩手開発鉄道乗車券」と印刷された水色の紙片が差し出された。行き先の「岩手石橋」と、運賃の「九〇円区間」というところに赤鉛筆で丸印が付いていた。九〇円区間の下には七〇円区間というのもあって、採算など度外視したような安さだった。
こんな運賃でまともな旅客列車に乗れるのか不安になったが、岩手石橋行きの発車時刻が近づくと、踏切の向こうから一両のディーゼルカーが走ってきて無造作に停車した。
オレンジとクリームに塗わけられた車体には、キハ202という型番が書かれていた。ずいぶん使い古された感じで、さもありなんと思ったが、乗り込んでみると車内は塵ひとつ落ちていないほど清掃が行き届いていた。運賃を思えば、なんだか申し訳ないような気分になった。
ディーゼルカーは、私一人を乗せるとすぐに発車した。
築堤の上を少し走ると、町はずれの猪川という駅に着く。かまぼこの板のようなホームに、列車を待つ客の姿はない。下車する客もいないから、ドアを開閉するためだけに停車したようなものだった。
川に沿って傾斜を登り、トンネルを二つ抜けると長安寺駅に着いた。切妻屋根の軒がホームを覆う立派な造りの駅だが、客の乗降はない。
もし私が乗っていなければ乗客はゼロなのであって、よくこんな状態で営業が続けられるものだが、その理由は次の日頃市駅で判明した。
ホームに停まったディーゼルカーは、ここで盛方面へ向かう貨物列車とすれ違った。こちらは一両ぽっちだが、あちらは凸型の機関車の後ろに石灰石を満載した貨車が果てしなく連結されている。これが岩手開発鉄道の正体で、本業は岩手石橋駅付近で採れる石灰石の輸送なのである。旅客列車の本数は微々たるものだが、貨物列車は一日に二十本あまりが運行されている。沿線には民家もまばらだから、もとから旅客営業などあてにしていないのだろう。
日頃市でも乗降客はなく、運転士どうしが挨拶を交わしただけで発車した。
ディーゼルカーはエンジンを唸らせながら、杉林の中を懸命に登る。やがて、山腹を切り開いた盛土の上に駅が見えてきた。小さな駅舎の背後に、その数十倍はあろうかという石灰石の積み込み装置がそびえている。どうやら、あれが終点の岩手石橋駅らしい。
盛駅から三十分の車窓はありふれたもので、いささか拍子抜けだった。乗るまでに手こずらされたせいで、期待が膨らみすぎていたのかもしれない。
そんなことを考えているうちに駅が近づいてきたが、ディーゼルカーは速度を緩めることもなくそこを通り過ぎ、駅舎もホームも木陰に見えなくなったところで停まった。
運転士がブレーキをロックして席を立つ。
草むらから虫の声がするばかりで、どう見ても乗降できるような場所ではないが、まさかここが岩手石橋駅なのだろうか。
訝しむ私を一瞥して車内を横切った運転士は、反対側の運転席に座るといきなりディーゼルカーをバックさせた。
木陰から駅舎が現れ、こんどはちゃんとホームに停まった。
岩手石橋は、スイッチバックの終着駅だったのだ。
乗客の姿はなかったが、駅舎の前には手の込んだ坪庭がしつらえてあった。いろいろと楽しませてくれる駅で、一日に三本しか旅客列車が来ないのが残念だった。
折り返しの盛行き最終列車は、私一人を乗せて岩手石橋駅を後にした。
線路脇の薄を波打たせながら、ディーゼルカーは夕暮れの山間を軽やかに下る。開け放した窓から吹き込む風は涼しかった。
たそがれどきの日頃市駅のホームに、白いワンピースを着て白いリボンで髪を束ね、白いサンダルを履いた少女が、ぽつんと立っていた。
ドアが開くと、白い少女は足音も立てずに乗り込んできて、向かい側の席にふわりと腰を下ろした。百合の花の香りがした。
何事もなかったように、ディーゼルカーは走りはじめた。
日が暮れて、車内に仄かな灯りがともる。
少女は座ったまま、みじろぎもしない。
はじめて現れた乗客だと思ったが、そのたたずまいはどこか人間離れしている。
思えば、このあたりは宮沢賢治や柳田國男のメルヘンと地続きだ。そちらの住人と乗り合わせたとしても、不思議はないのであった。