03. “他人”
次の日の朝も、智と咲子はいつも通り一緒に歩いて登校した。
「サトシ昨日はありがとうね!教えてくれたおかげで今回の範囲はなんとかなりそうだよ」
「どういたしまして、...つっても範囲はまだ昨日やった分だけじゃないけどな。」
「...それもそうだね...また教えてよ」
「いいけどジュース一本奢りな!」
「え〜」
ふたりがそう何気なく話しながらいつものように教室に入ると、教室にいる他のクラスメイトが全員こっちに注目していた。
「おはよ〜!あれ?みんなどうしたの?」
咲子はいつものように友達に挨拶をしてから周りの様子を気にして尋ねた。
「サキコ...」
咲子が挨拶をすると、友達は心配そうな様子で咲子の方を見ていた。
教室内の空気には智も違和感を感じたようで、あたりを見渡し、黒板を見て何かに気づいた。
「...!なんだあれ?」
「...!」
智の声を聞いて、咲子も黒板に書かれていたものに気づいた。
「おはようふたりとも...!!今日も朝から一緒に登校とは随分とおアツいようで...!!」
「どういう意味だよ岩崎...それは。」
黒板の近くから声をかけて来た友達、岩崎の顔を見て智が尋ねると、彼はニヤッと笑って言った。
「どういう意味って...書いてあるまんまの意味だよ!昨日随分と幸せそうなふたりを目撃しちゃってさぁ...」
岩崎はそう話しながらスマホを取り出し、智の方へ歩いてきてある写真を見せた。
「...!」
智と咲子は写真を見て、言葉を失った。そこには駅前のスーパーマーケットで買い物を終えて仲良く並んで歩きながら帰る智と咲子の姿が写っていた。
その写真と、黒板に書いてある“相合い傘”、ふたつを見せられて、智は岩崎が言いたいことを悟った。
「お前ら付き合ってるんだぁ〜!!!」
この朝の出来事はちょっとした事件に発展した。ふたりは本当に付き合っているわけではないのだが、一緒に登校しているという事実、そして学校以外の場所で二人で歩いている現場を押さえた写真、これらを突きつけられては、いくら幼馴染だからと弁明をしようとしても、信じてもらえなかった。そして、中学2年生という段階は思春期真っ只中、異性というものを意識し始める時期であり、誰もがそのような話題には興味津々である。さらに付き合っているカップルというのはクラスに一組いるかいないかという状況で希少、事実がどうであれ、ふたりが付き合っているかもしれないという話題は極めてセンセーショナルなのだ。その場にいたほとんどの生徒がふたりを嘲笑うような目で見て、からかい、面白がる、そんな状況に、智と咲子はだんだん居心地が悪くなってきた。
「...だから、俺らはただの幼馴染で、別に付き合ってるわけじゃないって言ってるだろ!!」
「そんな照れなくてもいいって...!愛し合ってるのは素敵なことじゃん?」
「照れてなんかねーよ!」
「照れてるじゃん!別に隠すことないって、ほら、キスとかするんだろ?してみろよ!」
「イヤイヤ、しないって...!」
岩崎に追及され、智と咲子は必死に反論した、それでもなかなか食い下がらない岩崎のしつこい追及に嫌気がさし、智はついつい大声で叫んだ。
「だから...、俺がサキコと一緒にいるのは幼馴染だからで、別に好きじゃない!!こんな勉強できなくて、部屋汚くて調子のいい、面倒な奴のことなんてむしろ大っ嫌いだ!!!」
「え...?」
「あ...」
智は叫んだ後で自分の言ったことに気づき、思わず咲子の方を見た。咲子は唖然とした表情で自分の方を見ていた。
「サトシ...」
咲子が小さく自分の名前を呼んだのを聞いて、智は慌てて答えた。
「あ、いや、...い、今のは...」
答えた後で周りを見渡すと、咲子の表情だけでなく、周りの空気も一変していた。さっきまで下衆い顔で詰め寄ってきていた岩崎さえも、ポカンとしていた。咲子は智の顔をじっと見つめ、優しく微笑んでから、岩崎の方を見て言った。
「...今のを聞いてわかったでしょ、岩崎くん。私たちは付き合ってない、他人なの。だから、勝手に間違った噂を流すのはやめて。」
「え、あ、...は。...はい...」
岩崎は咲子の話を聞いて、その言葉の凄みに押されて萎縮すると、言葉を失ったような顔で小さく返事をした。咲子はその後で、智の方をもう一度見て言った。
「ごめんね、サトシ。サトシがそう思っていたなんて、私今まで全く気づかなかった。」
「...あ、いや、ごめん...!今のは...!」
「ううん、いいの。私、サトシに頼りすぎてたよね。」
勢いが余って出てしまった心にも無い言葉をかけられたのに、冷静な表情で答え、謝罪をしてくる咲子に、智は呆気に取られながらも、弁明を図った。しかし、一度言ってしまった不本意な言葉を取り消すことはできなかった。
ふたりの関係はこの日を境に大きく変化した。智が休み時間のたびに謝罪のために会話を試みても、咲子は応じてくれなかった。当然帰りは別々に下校せざるを得なくなり、智が咲子に勉強を教えることも無くなった。
この日の帰り、智は独りでトボトボと歩いていた。
ーやばい...岩崎に詰め寄られて、心にも無いことを言ってしまった...。サキコ、怒らせちゃったな...、謝らせてもくれなかった...
智にとって、咲子と喧嘩したという経験はこれまで一度も無かった。だから、彼女との関係が悪化した時に、どうすればいいか、全く分からなかった。
しばらくとぼとぼと歩いたところで、智は立ち止まった。自分の手に何か水が当たったことに気づいたからだ。そして空を見上げて自嘲気味に笑うと、一粒、大粒の涙をこぼして呟いた。
「何が、“ここの描写を見ることで、心情が掴めるだろ?”だよ...」
ー勉強なんてできても、一番大事な人の心情は全く掴めてないじゃないか...
自分の涙が、降り始めた雨の中に混ざるのをぼんやりと眺めながら、智はびしょ濡れでそこに立ち尽くすのだった。
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益田智には水島咲子という幼馴染がいた。10年以上の付き合いであったが、彼女は彼にとって何でも分かるというような、完全に明らかな存在では無かった。彼女がピアノを通して向き合う音楽も彼にとっては未知の世界だったし、彼女が将来どんな人を好きになるのかも、なかなか想像できない。でもそんな中でも、最も分からない彼女の姿が今、目の前に姿を現した。それは“疎遠になってからの咲子”だ。
あの朝の事件を最後に、智と咲子は一切会話をすることが無くなった。智があの日のことを謝ろうと咲子の前に向かっても、咲子は会話に応じてくれないのだ。そんな咲子の様子はなんだかこちらに気を遣っているようにも見え、それが一層話しかけづらさを助長する。そんな咲子の姿が、いつしかこちらを拒絶しているようにも見えるようになり、いつしか智も咲子に声をかけることを遠慮するようになっていった。
それでも、智は咲子のことを諦めることはできなかった。いつか彼女とちゃんとまた話をして、ちゃんと謝りたい、そんなことを思っていた。これまで入部していなかった部活に入部し、軽音楽を始めるようになったのもそんな思いがどこかで影響していたのかもしれない。かつて自分が知らなかった咲子の好みである音楽を理解することで何か手がかりが掴めるのではないかという気持ち、それと行き場のない後悔と自己嫌悪の心境を単純に発散したいという衝動、この二つの思いを持った智のパワーは、途中入部ながらものすごい力を発揮した。彼の言わばフラストレーションから来ていると言える動機は、まさにロック音楽と相性が良かったようで、軽音部で新しくできた仲間たちとともにバンドを組んで音楽をやっていく中で、咲子への執着はいつしかロック音楽そのものへの情熱へと変わっていき、のめり込んでいった。
こうして、ふたりの仲は元には戻らないまま、時は巡り、中学校の卒業式を迎えた。