263話:オルヴィア・フェミニエール・ラヴィニエ
他視点
王国の王女として生を受け、私は成長するごとに国を憂いていた。
けれどまさかこれほどの侵攻を受けるとは予想だにしていなかったし、一年前にはこんなことをしている自分を想像すらしていなかったわ。
「おどきなさい。私は今、王妃の名代として皇太子を訪ねているのです」
私は母からの証文を突きつけて、行く手を塞ぐ兄の取り巻きを退けた。
あぁ、激変だ。
かつてこんな目立つ動きなんてできないと抑え込んでいたのに、今私は権威を盾に一人歩いている。
周囲に摩擦を生むだけだと控えていたけれど、今となってはそんなことは言っていられない。
もはや王国は危急存亡の時なのだ。
(いえ、思えばリザードマンなどと会って変化の予兆はあったのかもしれないわ。けれどそれがこうも、人間の欲と身勝手で転がり落ちるなんて予想できなかった…………)
兄二人が継承争いを始めた時に、危険を感じた。
その時から共和国という未知の国が南にできており、帝国という侵攻国家が北にあるという地勢の悪さも懸念材料ではあったのだ。
争う場合ではない。
何か悪いことが起きている。
そう思って動こうとした矢先に、『水魚』という王国にとって重要な命を失ってしまった。
(あれで私は兄やその周囲の目を避けて動けなくなった。けれどそれは兄たちも同じだったはず。なのにどうしてこうなったの? 誰かの作為が差し挟まる余地がないことなんて私が一番よくわかっているのに)
不安が消えない。
一連の王国を襲った災禍が、何か見えない糸でつながっているような予感がする。
あまりにも王国の指を一つずつ折って武器を持たせないようにさせられた上で、帝国が殴りかかりに来たような状況だ。
ヴァン・クールの引き離しや『水魚』に続いて『酒の洪水』の死、西での異変。
加熱する継承争いが収まる気配を見せたと、こちらの弛緩を待っていたかのようなアジュールへの皇太子指名。
そしてまたこちらの拙速を戒めるような皇帝暗殺と共和国の王政復古。
とどめには新帝の妾を王国の者が殺したという理由での激烈な侵攻。
「全て後手に回されている…………」
私は皇太子を名乗る兄、アジュールの寝室の前で一度息を整えた。
もう、王女だからなんて言っていられない。
私が動かなければ誰も救われないのだ。
「失礼いたします。皇太子殿下、お話をさせていただきにまいりました」
入り込んだ寝室には大きな寝台が目についた。
けれどそこに部屋の主の姿はない。
窓が締め切られた室内は暗く、目を凝らさなければ微かに震える布の塊が寝台の陰にあることを見逃していただろう。
「そうして震えていても、帝国軍は退いてはくれませんよ」
私は布を引きはがして、くまの目立つアジュールの顔を見下ろした。
「ど、どうしてお前が、オルヴィア」
「ようやく私の動きを牽制していた邪魔者を排除できましたので。一応こちら、お渡ししておきます。私の行動は全て、王妃の許可の元である証明です」
私はもう用をなさなくなった証文を押しつける。
ここに来るまでに時間がかかってしまった。
皇帝暗殺から私は王国の防衛強化を訴えていたけれど、次に立つのは弱腰の皇太子、帝国も侵攻をしている場合ではないという楽観論が蔓延してしまっていたのだ。
敵の目から見ればそれこそ付け入る好機だというのに。
「ぼ、僕を嗤いに来たのか。お前の防衛強化を却下した僕を」
「もはや王国領内を東西に分断されてしまった現状では、笑いも乾いて出ません」
新帝は弱腰でもなければ、侵攻を後回しにするような者ではなかった。
妾が殺されたという屈辱を注ぐため、怒りのままに進軍している。
その姿に帝国国内でも甘く見ていた者たちが戦き、帝位を今も狙う弟王子たちは後れを取るまいと更なる苛烈さを演出して王国を荒らしていた。
もはや王都側では事の真相はわからない。
妾を暗殺したという王国北の領主の手の者が、本物だとも偽物だとも証明するすべがないのだ。
実行犯は殺され、派遣したという王国北も侵し尽されて貴族や領主の生死さえ知れないのだから。
「遅すぎたのです」
私も、他の誰も、改悛した母である王妃も今さらとしか言えない。
この状況になったのは、そもそも第一王子であるルージス兄上を排斥して、国内を分断した失策のためだ。
「僕を、亡きものにでもしようと来たのか?」
兄であった者は、猜疑と抵抗の目で私を見上げる。
どうやら命を投げ出すほど自棄にはなっていない。
それは少しの安心材料だった。
「あなたが新発見のダンジョンで失敗した際、とある女郎にそそのかされたことは調べがついています」
アジュールは悔しそうな顔をするけれど、自棄を起こしたように応じた。
「あぁ、そうだ。僕は失敗した。その失敗から逃れようと、覆そうとして、ルージス兄上を追いやった。はは、女郎とは言ってくれる。あの才は本物だ。なんせ、こんなにうまく事が運んで、兄はいなくなった」
「そして、上手く王国の不利を作った」
私の言葉にアジュールは傷ついたような顔をする。
「…………排除というと、そう、彼女が吐いたと?」
「いいえ。ですがこれから屋敷を暴いて女郎は捕らえます。その際抵抗があれば処断も止むおえぬでしょう」
観察するアジュールは、利用されていたことがわかっているようだ。
皇太子になって浮かれていた分、王国を宰領する未来ごと摘み取る策だとわかった今、ベッドの陰で取り返しようがないことを悟っていたのだろう。
「少なくともあなたは、小心な陽気者であっても、王国を裏切るほど悪辣ではなかったと私は思っています」
「当たり前だ! 何故祖国を裏切らなければならない!? 僕は人をえり好み、排除する時には容赦のない兄上よりもずっと国を、人を大切にできる自信があったからこそ、皇太子を目指したんだ!」
謗りに反論するのは、アジュールなりの理屈があったからだ。
けれどそれを敵に利用されてはもはや笑い話でしかない。
その敵が何者か、今も良くはわからない。
けれど王国を貶めようと暗躍していたことは確か。
そしてアジュールはその手駒にされてこうも国を荒らすきっかけを作っている。
「ルージス兄上がいらっしゃるときに、西の異変の責は己にあるとおっしゃった言葉は嘘だったのですか? 自らが優れていると思い上がっていながら、あのように欺瞞を述べられたのですか?」
「違う! あれは、本当に、あんなことになるなんて…………!」
アジュールは息を何度も吸っては吐いて言葉を絞り出す。
「悪いと思ったんだ。それでもこれで終わるのは嫌だった。だから逃げ道を示されて、できるならと…………。まさかこんなにうまくいくとは思わなかった。本当にルージス兄上が自ら西へ行くと言った時に、耳を疑った僕の恐れがわかるかい?」
女郎の悪知恵。
その程度であったはずが、ルージス兄上が乗せられた。
女郎の悪才が本物であると知り、諾々と従った結果がこれだ。
不当に兄を更迭し、そのために傷ついた西を利用する。
そうまでしてなった皇太子の座に、臣下の半分がそっぽを向いた。
アジュールが皇太子になったために政治機能が停滞。
国王も実情を知る者からは非情を疑問視されて求心力を減退させた。
「まさか王国を傾けるほどの結果になるとも想像できず、他人の意見を鵜呑みにした自分も被害者だとでも?」
責める私にアジュールも攻撃的な表情をみせる。
それでいい。
ただいじけて逃げるだけならもう無用だ。
いっそ私が反乱を起こして一時的に立ったほうがましなほど。
けれど戦う気概がまだあるのならば利用できる。
「国民百人を死なせて後悔したのなら、敵を千人殺して誇りになさればいいのです」
私の言葉に言い返そうとしていたアジュールは口を開けて固まる。
「あなたはもう後戻りはできない。今さら兄を不当に追い落とし、相応しくない椅子に座ったという謗りは生涯免れません。でしたら、それらの言葉を覆うさらなる名声を得るため邁進するしかないのです」
「何を、何を言っているんだ?」
アジュールは狼狽するが、もう全てが遅いことを私はわかっている。
けれどまだアジュールはやれることがある。
「もはや戦争なのです。殺さなければ殺される。お上品に立場を弁えて言葉と手回しでどうにかなる段階は終わっています」
私たちは遅すぎた上に未だ動くための足並みさえ揃えられない。
今からでは勝ちなど拾えない。
けれど負けないために抵抗することだけはまだできた。
「あなたは今、戦って己の存在感を示し、謗りを封殺する以外に道はない」
「この荒れた状態で戦えるわけがない」
「戦えないのならば、今ここで私に首を差し出してください。私はそれを持って王国を乱した偽皇太子を誅殺したと喧伝し、ルージス兄上が王都に戻られるよう手配します」
本当なら、一番瑕疵のない東の第二王子を呼び戻したい。
けれどそちらはもう交戦し始めており今さら動けない。
だったらルージス兄上を西から呼ぶ形でこちらと足並みをそろえてもらうしかなかった。
そして南北に伸び切って統率を失くしている帝国軍を分断する。
進軍を推し進めた新帝を捕らえるか敗退させなければ、王国は救えない。
私を見上げていたアジュールは一度口を引き結ぶ。
「そう、覚悟してきていたのに、僕に戦えというなら、方策はあるんだろうな?」
「また他人の知恵に頼って躓きますか?」
「ぐ、お前は腹の底でそんなことを思っていたのか。そんなだからお高く止まって
いるだとか言われるんだぞ」
「矮小なプライドが戦うための燃料になるようでしたら結構。いくらでも私を罵ればよろしいわ。けれど戦うならば私はあなたに決して止まれない道を示します。それは、王国が存続を許された後も続く苦難の道です」
「…………それで、王国が存続するなら…………進んでやる」
アジュールようやく床から立ち上がった。
「ではまず、陛下に退位を迫り、王国内部を分断し、北の領主の勝手を許した罪を持って幽閉してください」
「は?」
「強行にして強権を築くのです。そのためには求心力を失った王は邪魔なだけ。あなたは陛下以上に強く、そして悪い王になる。それによって足りない求心力を強制力で補い、残存する王国の兵を軍として運用しなければいけません」
それは子が親を裏切る行為だ。
覚悟がなければできないし、後悔の弁が口先だけだったでは済まされない。
これは私が用意した策の要であり、最初の踏み絵だった。
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