226話:アラクネ
他視点
私はアラクネと呼ばれる種族に生まれた。
大地神が箱庭と化した遊技場で、囲われる者だ。
我が種族は独立不羈にして、大地神を信奉しない。
それゆえに、一度は大地神に従わず故地である台地を追われた。
同じ場所に住む羊獣人たちは、服従することで生き永らえている。
そして隠れ住んだ森も、大地神を信奉する狼男と魔女に主導権を握られ、ままならない。
「あぁ、外だね…………箱庭の、外だ…………」
私は魔女のイテルが神の供として箱庭を出ると聞き、その可能性に飛びついた。
もしかしたら外には自由が、神のために生き、神の遊びで死ぬことのない、そんな理不尽から逃れる地があるのではないかと思ったのだ。
結果は、駄目だった。
神はすでに手を広げており、世界が変わったところで神が神である限り変わらないのだと見せつけられている。
逃れられるような場所など、ましてや結局は人間と敵対するような世界で安寧などない。
大地神に目をつけられた時から、もはや我らアラクネに、そんなものはなかったのだ。
それから帝国で動きがあり、神が人間を操り躍らせるのを見た。
私は極力関わらない方向で、従順なふりをして隠れることに徹している。
そうして一人の人間を見つけた。
「…………風が?」
「どうしました姫さま?」
「いいえ、なんだか風が冷たい気がして。もう、戻りましょう。準備をお願い。私はここでじっとしているから。さ、早く済ますためにみんなで行ってちょうだい」
まるで人払いだ。
私は花畑を囲む林の中から、帝国の姫を観察していた。
継承権もない、権力もない、重要度もなければ、私に害もないはずの存在だ。
だから調査を名目に、花畑で遊ぶ姿を眺めて時間を潰すつもりで来たのだが、どうも様子がおかしい。
「そこに、いらっしゃるのは、どなた?」
周囲の人間を逃がした上で、何度も唾を飲み込み、震える声で私に問いかける。
どういうわけか、あの姫は私という危険を察知したらしい。
その上で周りを守ったんだろう。
自らは恐怖に震えているのに。
なんて愚か、そしてなんて健気なんだい。
敵わずともなけなしの矜持を振るう姿は、まるで自分を見ているようだ。
森でも魔女相手に強がって、狼男の目に留まらないようこそこそして、それでもまだ矜持があるのだと、神に従わない心を保っている。
「憐れな人の子、お前が害さなければ、こちらも害すことはないと約束しよう」
できるだけゆっくりと私は話しかけた。
どうしてだか、怖がらせないように、会話が続くように願いながら。
「だから、少し私と話をしてはくれないかい?」
これは情報収集だ。
そう言い訳をすれば、こんなちっぽけな子供を殺さずにいる理由には足りるだろう。
それに私にはこの世界の情報が必要なことも確かだ。
いつか、もしかしたら、運よく、大地神の手から逃れることもあるかもしれない。
「さぁ、側においで。私は比較的人に近い。姿だけならあまり怖がらせはしないだろう」
「…………まぁ、美しい紫の髪。そしてあなたは、なんて悲しい声をしているのでしょう?」
姫の名はウィスタリアといった。
蜘蛛の下半身を隠した藪ごしの交流。
私たちは怯えながら、恐れながら、それでも少しずつ言葉を交わして、互いにままならない身の上を嘆きながらも、足掻く者同士であることを認識した。
そうして仲間意識を持ってしまえば、親交を楽しむようになるまで時間はあまりかからない。
私は帝国内部の些細な情報をもらって言い訳にして、この交流を続けた。
ウィスタリアは継承争いで緊張感が高まる城が嫌だと、この花畑に通っている。
「ウィスタリア、悪い報せだよ」
「私の友達、あなたがそういうのでしたら、もしや陛下のことでしょうか?」
聡い子だ。
聡いからこそ生きにくい子だ。
生き抜くための力がないから辛い子だ。
人間の帝国を広げ、支配していた皇帝が死んだ。
殺された。
その凶行は大地神の狂信者の手によることを、私は知っている。
「私は直接関わっていないから情報が遅れてしまったんだ、すまないね」
エリアボスが消え、大捜索がなされるという騒ぎが起こっていた。
神自身が動いたことで、私のような木っ端も緊張状態を強いられていたのだ。
さらに攫われたエリアボスがその神格を露わにするという、今までになかったことまで起きた。
それらは王国で起きたことだけれど、どうやら帝国が裏にいるらしいと聞こえる。
だからレジスタンス側の協力をしていた私たちは、そちらを洗いに動員された。
代わりに直接帝国への報復に動いたのは、ダークドワーフだという。
「あなたが独自の神の支配下にあり、苦しい立場であることはわかっています。無理をしてほしくない。けれど、なぜ陛下を? あなたを支配する神は、なぜそのような暴挙に出たのです?」
「お前では理解しえないと思っていたが、聞くとなれば話そう。もはやあのお方は自重されることをやめたのだ。それは、お前たち人間という種の内で、神を引き摺り出した者がいることを先に言っておく」
「そんな…………。種として、そう、であれば、皇帝陛下を人間という種の代表を睨んでのこと、なのですね」
「それ以上に政治的な意味合いもある」
「確かにそうしたことは、私では理解しえないかもしれません。けれど、お願いします」
ウィスタリアは覚悟を決めて詳細を求めた。
私は覚悟に応えるべく、まず別の世界、私たちは生まれた世界が違うことから話す。
そしてこの世界に現れる者たちが過去にもいたこと、大地神は世界の終わりを悟って顕現したことを。
「運悪く、そう、最初にお言葉を発された時に、確かにこの世界への転移は予想外であったと漏らされた。それからこの世界を知ることを始めたのだよ」
「大いなる方だというのに慎重で、まるで人間のようですね」
「それが恐ろしい。力任せに破壊はできる。私でも帝国国内に死山血河を築くくらいは可能だ。だというのに、大地神は策を弄することを好む。遊びなのだ。神にとっては」
そうして神はこの世界で遊ぶことを決められ、今、準備をさせられている。
「すでに神聖連邦の耳目は塞がれ、その間に王国と帝国、共和国という大陸中央部の国々は混乱を掻き立てられた」
「帝国は陛下の死、王国は継承争い? では、共和国は?」
「一度は鎮静の兆しのあった内部での粛清が再燃している、いや、させられている。さらに大きな動乱を呼ぶための一手もすでに神は確保されているんだよ」
私が語るごとに、ウィスタリアの顔色が悪くなるのが心苦しい。
そして私の言葉を疑いはしない姿に、信頼があるのだと安堵もする。
ウィスタリアは想像し、予想し、未来を夢想する。
その結果が矮小な己では、もはやどうすることもできないと理解した。
ただ私はもっと、絶望的な事実を伝えなければいけない。
「東の神聖連邦を惑わし、大陸中央を分断し、神は西へ赴かれた」
「西? 亜人種の国家ですか?」
「すでにライカンスロープ帝国は神に降った」
「…………え?」
ウィスタリアはすぐさま飲み込むことができず声を漏らす。
この世界の常識ではどうも人間の帝国が最も強く、相対できるのはライカンスロープ帝国のみというもの。
だからこそ帝国は、ドワーフ賢王国や竜人多頭国という亜人種の別国家を挟んでライカンスロープと敵対しない関係を結んでいた。
中央部を征服するために、帝国は西とは敵対しない道を選んでいたのだ。
だというのに、神はそこに目をつけた。
いや、だからこそとも言うべきかもしれない。
「いつから準備されていたかさえ、私にはわからない。だが、神は人間たちに警戒されない動きの上で、帝国を経由してライカンスロープ帝国に直属の精鋭を二人送り込んだ。たったそれだけだ。それだけで、数日の内にライカンスロープ帝国の上層部を押さえた」
「まさか、そんな…………」
「そして神が自ら足を運んだことで、その日の内に完全に降った。これはただの事実だ」
言うは易く行うは難い。
あえて特筆するなら、帝国で情報を集め、どうやら狼男のエリアボスが伝説の王と呼ばれたことを利用したくらいか。
「恐ろしい、私はあの神が恐ろしい」
「えぇ、本当に。あなたは私を簡単に殺せる力を持っている。そしてその神はそんなあなたを殺せる。だというのに、暴力というわかりやすい力を見せたりはしない」
ウィスタリアは、大地神の本質を的確に悟ったようだ。
「そう、全て神の頭の中。誰も覗き見ることはできない。感知もできない。その上でわかるように動いた時にはもう終わっているのだ」
「どうすれば、いえ、今後帝国はどうされるのでしょう? 皇太子殿下は皇帝になられます。これは神のご意志ですか?」
私は頷きつつ、怯えるウィスタリアの姿に憐れを催す。
私も情報を与えようと思うが、正直神の考えなど私ではわからない。
知性煌めく巨人の司祭に伺う程度しかできず、大角の女神も比肩する知者だが、あちらは近づくことさえ恐ろしい。
女神は常に、大地神の分身であるダークエルフを侍らせているのだから。
「帝国は荒れる。皇太子はその求心力のなさからあえて闘争は止めまいというのが神の予見だ。そのための餌も南に用意してある」
「…………帝国の南? あぁ、だから王国で継承争いが…………」
震えるウィスタリアは、あまりに周到に用意された状況を悟って瞼を閉じる。
その上で皇帝を殺すという動きを見せたのだから、すでにこの帝国も終わっていることもわかったのだろう。
「案ずるなと言っていいのかわからないが。神は人間を滅ぼすつもりはない。遊ぶための駒として、生かす気がある」
なんの救いにもならない言葉だ。
私はそれが嫌で外に逃げたというのに。
結局は、外の世界も同じように神の箱庭とされそうになっている。
「私にできるのは、生き残りのための警告。良く聞け、生き残りたくば即座に服従せよ。拾えるものは拾うべきだが、救えぬ者のために投げ出したところで命さえ残らないぞ」
これは経験だ。
争い、数を減らして森へと逃れた我らアラクネは不自由と屈辱を。
台地に残り数を増やして町を築いた羊獣人もまた、不自由と屈辱を得ている。
結果は変わらない、神の手の内だ。
そうであるならより良いのはどちらか。
「生き残れると? あなたの語る神は慈悲などないように思えます」
「配下以外にはないだろう。ただ、配下である者たちには素晴らしく寛容で惜しみない。幾つもの側面を持つ神故に、今いるのは庇護者の側面かもしれない」
「なるほど、だから庇護下に入れば恩恵も…………え?」
瞼を開き顔を上げたウィスタリアは、零れんばかりに目を見開いた。
私は視線を追って振り返る。
そこには、ペストマスクをつけ、人間に扮した神が顕現していた。
隔日更新
次回:ウィスタリア・ノースケラー・サーピエス




