浄化
台風が通過したこの日、藤崎と璃帆は鎌倉に来ていた。2人共、喪服を着て。
藤崎から、ここに一緒に来て欲しいといわれた時、璃帆に躊躇はなかった。自分もその傍らにいる必要があると、感じたのだ。それは、理屈ではなかった。
「また、つらい思いをさせることになると思う。でも、一緒にいて欲しいんだ」
「うん。そばにいる」
訪いを入れると、小さな子供が飛び出してきた。まだヨチヨチ歩きの女の子である。
「エマちゃん。ダメよ。1人で行っちゃ」
と、ママらしき人が飛び出して行く。藤崎たちの顔を見ながら、
「すみません。すぐ主人が来ますので」
といって、子供の後を追いかけて行った。
「聡志の子か!?」
藤崎が、思わず2人の後ろ姿を目で追っていた。
ここは、森川家だ。藤崎は、葉子に会いたいと連絡をしたのである。もちろん、「何を今更!」と、当初は取り付く島もなかったのだが、親友であった息子の聡志さんが取り持ってくれ、やっと実現した。
「久し振り。元気だったか」
聡志さんは、柔らかい笑みを浮かべながら、玄関にやってきた。背は藤崎ほど高くないが、均整のとれた体つきをしていた。柔らかい物腰で、優しいパパだと思わせる。
藤崎に緊張が走るのが、手に取るように、璃帆には分かった。
「長いこと、ご無沙汰して……。今日は、無理を言って済まなかった。ありがとう」
「正直、少し驚いた。どうして、今更なのかと……。彼女のせいか?」
と、璃帆を見て言う。
「今枝さんだ。この間、街中で偶然、葉子さんと会ったときに、一緒にいた。だから、俺達のことは、知ってる」
と、紹介した。
「今枝璃帆と申します。一緒に、お参りさせていただきたくて、付いてきました。部外者が勝手に、申し訳ありません」
「いえ、かまいません。どうぞ、参ってやってください」
2人は仏間に通された。そこには、葉子が待っていた。
「女連れとは、大したものね。恥を知ればいいわ!」
座る間もなく、罵声が飛んできた。璃帆は一瞬怯んだが、この間の様な全身を貫く痛みは感じなかった。
「母さん、失礼だよ。すみませんね、今枝さん。どうぞ、お座りください」
璃帆は、今日ここに来る前の、藤崎との会話を思い出していた。
「藤崎君は、心にシャッターを下ろすことは、できるの?」
「相手のエネルギーを、まともに受けない様にって意味なら、できるよ。小さい時から、自然に身についていった気がする。それができないと、ちょっとこの体質は、日常生活が難しいから」
「じゃあ、葉子さんの言葉をあんな風に受け入れたのは、藤崎君の意志だったと考えて、間違いないのね。防御できたのに、敢えてしなかった……」
「まさか、璃帆まで、同じ痛みを感じるとは、思わなかったんだ……。すまなかった」
「ううん。そうじゃないの。それは、もういいの。ただ、私は、藤崎君が、またあんなに傷つくのを、見なくちゃいけないの?」
「いや、今日は、大丈夫だ。もう、葉子さんの言葉を、そのまま受け止めたりしない。そのために行くんだから。璃帆が、教えてくれたんだよ」
「よかった。それだけが、心配だったから」
「防御はね、そのままそのエネルギーを相手に跳ね返すことになるんだ。相手を、とても傷つける……。今までそれは、できなかった」
「じゃあ、今日は、葉子さんを、傷つけてしまうの?」
「いや、そうならない様に、誠意をつくすよ」
「うん……」
その言葉通り、今、藤崎からは、痛みは伝わってこなかった。璃帆は、少し安心した。
仏壇に線香を手向け、手を合わせる。璃帆もお参りを済ませたところで、改めて藤崎は葉子に向き合った。
「今まで、ずっと直接お詫びもせず、本当に申し訳ありませんでした」
座布団を外し、深々と頭を下げた。そして続ける。
「私にも、守るべきものが出来ました。それを、正志さんにお知らせするために、今日は参りました」
「葉子さんが抱えている苦しみを、私や私の母にぶつけてもらうのは、かまいません。それで、少しでも葉子さんの悲しみが安らぐなら、本望です。しかし……」
ここで、藤崎は姿勢を正し、両拳を膝の上に据え、正面から葉子を見た。
「私の大切な人に、同じ思いをさせたくありません。これ以上、私以外の者に、酷い言葉を投げかけるのは、止めていただきたい。それをお伝えするために、伺いました」
「なっ、……」
葉子は、藤崎の、初めての正面切っての言葉に、次の言葉が出ない。下を向きながら、わなわなと震えだした。
「偉そうに……。偉そうに! 正志さんの命を奪っておきながら、自分たちだけ幸せになろうなんて、許さない!」
葉子の言葉が木霊する。藤崎は、ひたと葉子を見つめていた。
「俺たちが不幸であれば、葉子さんは幸せなんですか?」
部屋が、静寂に包まれる。
「璃帆が……、彼女が言った言葉です」
と言って、ほんの少し璃帆の方に顔を傾け、そのまま続けた。
「もしそうならば、俺たちが不幸でいることは、構わない。けれど、そうではないはずだと……」
璃帆は、藤崎が頭を下げたときから、ずっと一緒に下げていた。藤崎が体を起こしても、やっぱり下げ続けていた。葉子さんが、どうか藤崎の言葉を受け入れて、次に進んでほしいと、そればかりを祈っていた。幸せになってほしい……。
その時、開け放たれた縁側から、爽やかな風が吹いた。その風にあおられて、何かが、仏壇の上から落ちた。白い封筒……。
藤崎が、ハッと顔を上げる。そして、迷いなく、その白い封筒を拾った。葉子の前に座り、その封筒を渡す。璃帆も、顔を上げた。
「これ、正志さんが、読んで欲しいって、言ってらっしゃいます」
「何……、言ってるの、あなた」
葉子が、驚愕と疑惑の目を藤崎に向ける。それを横から見ていた聡志が、目を瞠る。
「母さん、これ、父さんの字……」
ビックリした2人は、慌てて封筒を空けた。
葉子、これを読んでいるのは、いつなのかな。
きっと、見つけてくれると、信じて書くよ。
昨日、病院で「すい臓がん」のステージ4bだって言われた。
私はまだ若いから、余命3ヶ月だそうだ。進行が早いらしい。
治療は、しないと決めたよ。どうせ、短いなら、君のそばに、少しでも長くいたい。
病院じゃ、それは叶わないからな。いつまで我慢できるか、自信はないが。
葉子、君は強いし、聡いし、美しい。
だから、きっと私がいなくても、幸せに暮らしてくれると信じているよ。
君とこんなに早く別れなければならないのは、本当につらいが、幸せな人生だったよ。
君を心から愛していた。そして、君が愛してくれたのも、知っている。だから、十分だ。
ありがとう。
追伸.
聡志、母さんみたいな素敵な人と、結婚しろよ。すごく幸せになれるから。
愛せる人に出会ったら、離すんじゃないぞ。それは、奇跡だからな。
泣き崩れた葉子から、光の粒子が放たれる。それは、きらきらと揺らめき、どんどん上に上っていく。思わず、藤崎が璃帆を振り返った。
璃帆は、目を見開いて、光の方向を見ていた。やはり、見えている。振り返った藤崎と目が合う。
藤崎は「もう、大丈夫」と言うように、ゆっくり目で頷いた。あれは、浄化の光だ。心から痛みが取り払われ、救われたと感じたときに放たれる光だ。
今日ここに来たことは、間違いではなかったのだと、静かに思った。
聡志が、外まで見送ってくれる。璃帆は、彼らを2人っきりにすべく、自分は少し先まで進んだ。
「これで、母さんも前を向ける。ありがとな……。俺だけでは無理だと、諦めていたんだ」
聡志は、藤崎に握手を求めながら、言葉を紡ぐ。藤崎は、その手を取った。
「お前、いい人見つけたな。幸せになれよ。今までの分も」
「ああ。聡志も、元気で」
そのまま、璃帆の待つところまでやってくると、璃帆の手を取り、静かに歩き出した。
その時、後ろで聡志の声がした。
「母さん……」
葉子が、走り出てきていた。そして、私たちの姿を認めると、ゆっくり頭を下げた。その姿は、随分小さくなったように見えた。
私たちは揃って、葉子さんに向き直り、お辞儀を返した。
もうこれ以上、お互いを傷つけることは、ない。
「藤崎君。お母さんに、電話してあげて」
藤崎は、ビックリしたように璃帆を見る。今じゃなきゃダメだと、璃帆の目が言っている。藤崎は、スマホに手を伸ばした。
「もしもし、お袋。今、終わった……。ん……。葉子さん、分かってくれたよ。正志さんが、手伝ってくれた……。これできっと、葉子さんも先に進めると、信じてるよ」
電話の向こうの声を聞きながら、藤崎は璃帆の目を見つめる。そして、少し顔を歪めた。
「俺は、お袋もずっと、傷つけてきたんだな……」
電話を終えた藤崎が、つぶやいた。璃帆は、首を傾ける。
「『これで、お前も幸せになろうとしてくれるね』って……」
藤崎は、璃帆の首をグッと引き寄せ、抱き締めながら、吐き出すようにつぶやいた。
「本当に、ありがとう」
下りの坂道に差し掛かった時、風が吹いた。藤崎が足を止める。
ほんのひと呼吸後、また歩き出し、璃帆にそっと耳打ちをする。
「正志さんが、ありがとうって。君にも、伝えて欲しいって」
璃帆は、空を見上げて、返事をした。
「こちらこそ。藤崎君を返してくれて、ありがとう……」
藤崎は、璃帆の手をしっかり握り締めた。