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別離

 今日は日曜日で、顧客宅訪問のため、藤崎は午前中仕事になった。彼の仕事終わりを待って、午後は2人でデートの予定だった。

「お待たせ」

 藤崎は顧客訪問の際は、ネクタイにブルゾン型の会社の作業服を羽織るのが常なのだが、今日は午後の予定があったので、スーツでの打ち合わせにした。

 璃帆はいつもこの姿を見ると、ちょっと俯いてしまう。何でだろうと、聞いてみた。

「俺、カッコ悪い? 一緒に歩くの、恥ずかしい?」

「……、逆……」

 よく見ると、ちょっと赤くなっている気がする。

「スーツ、カッコいいから……」

 と、手を繋いで歩き出してしまった。

「そうなの……?」

 そのまま引っ張られて、歩く。そっちだったか、と藤崎が少し照れながら、ではお返しにと言葉にする。

「璃帆は、今日も可愛い」

「もう、この話は、終わり」

 褒められると、いつも少し怒る。そこが、また可愛いくて、いつもならもう少しイジッて「可愛い」を楽しむのだか、今日は先手を打たれる。

「今日、どうしても見たいものがあるの。付き合って」

「なに?」

「ガラスの美術展、私の好きな作家さんのが展示されてるの」

「いいね、行こう。食事は、到着してからにしようか」

 そういって、駅に向かっていた。璃帆は、その作家のことを熱心に藤崎に説明し、藤崎も嬉しそうに耳を傾けながら歩いていた。

 

 突然、藤崎が止まった。繋いだ手を、藤崎が、離す。

 前方に、50代後半くらいの女性がいた。

「どうして……」

 小さく藤崎がつぶやく。

 女性は、藤崎の顔をキッと睨んだまま、まっすぐにやって来た。

 藤崎は、璃帆を自分の背に庇うかのように、一歩前へ出る。

「随分、楽しそうだこと。いい気なもんね」

 璃帆の体に、衝撃が走る。こんな、悪意に満ちた言葉を、直接浴びせられるなんて、大人になってから、ほとんど経験がない。

 しかも、本当に負のエネルギーが、何本もの光の矢となって体を貫いたかのように、璃帆には感じた。これは……、藤崎の痛みだ!

「すみません……」

 藤崎が、静かに頭を下げた。両手を脇につけ、まるで不祥事で頭を下げる、どこかの役人かのようだ。

 すれ違いざま、女性は璃帆にも鋭い視線を投げかけていく。

 藤崎は、ずっと頭を下げたまま、微動だにしなかった。


「ごめん、嫌な思いさせて……」

 振り返って、璃帆を見た藤崎は、心臓をわし掴みにされたかのような気持ちになった。

 今、まさに、璃帆の目から涙が溢れたのだ。一筋、頬を伝う。

「璃帆……」

「ごめんなさい。ちょっと、驚いて……」

といって、後ろを向いてしまう。

 回り込んで、藤崎はそっと手を取った。

「藤崎君、人の想いは、本当にエネルギーになって、人に届くのね……。藤崎君は、いつからこんな痛みを、感じているの?」

 これ以上ないと思われるほど、藤崎の顔が苦痛に歪む。爪が食い込むほど、拳を握り締め、

「璃帆には、同じ思いをされられない……」

 と言ったきり、口を閉ざしてしまった。


「もう、会えない」

 と、藤崎からLINEが来たのは、2日後だった。

 璃帆は持っていたマグカップを、落とした。

「どうしよう……」

 予期していたといっていい。あの日、藤崎はあのままデートをキャンセルしてしまった。別れ際、璃帆の顔を、本当に長い間見つめて、最後にはそのまま振り返らず、帰ってしまったのだ。


 人の気持ちは、波に似ている。もし波打ち際に花びらでも落とせば、いつまでもそこに留まり続ける。寄せて、返して、繰り返すのみで、案外遠くには行かない。

 ところが、一旦潮の流れに乗ってしまうと、それは大きな客船でも流されてしまう力を持ち、信じられないところまで、あっという間に持って行かれてしまう。


「藤崎君が会えないと言うなら、会いません」

「でも、やはり理由が知りたい。藤崎君には、理由ができたかもしれない」

「でも、私には、突然あなたに拒絶されたという事実しかない」

 璃帆は、懸命にLINEを送る。藤崎からの返信はひと言だった。

「それでは、足りないの?」

 絶句する……。

 なんて、ひどい言葉なのか……。


 けれど、何故だか分からないが、今彼は、心にもないことを言っているのだと、分かった。私がそう思いたいから、そう感じるのか……。いや、もっと違う次元のエネルギーが、そう感じるのだ。

 今、私に送ったメッセージで、彼自身がひどく傷つき、苦痛を強いられているのが、分かるのだ。

 そして、だからこそ、今ここで諦めてしまってはいけないと、璃帆は自分を動かす。


 璃帆は最終手段に出た。藤崎の部屋の前で、待った。

 藤崎にとっても、それは想定内だったのだろう。私の姿を認めると、黙って部屋に入れてくれた。


「何しに、来たの?」

 自分の言った言葉に傷つきながら、彼は続ける。

「もう少し、物分りのいい人かと、思ってた」

 彼のひどい痛みだけが、私に伝わってくる。

 ここまでくると、見事だ。どんなにひどい言葉を並べても、私に何のエネルギーも届かない。人の言葉は、エネルギー体として人に伝わることを、この間知ったばかりだ。

 つまり、彼は「そうは、思っていない」という証なのだ。

「直接、話を聞きたくて……」

 これ以上は、引き下がれないと意思表示をする。

「何が、聞きたいの?」

「この間会った女性と、何があったのか、知りたい」


 部屋の中が雑然としている。何度も、来たわけではないが、あの体調不良のときは突然にもかかわらず、とても綺麗にしてあった。特に、仕事の資料を、ここまでやりっ放しにすることは、藤崎の性格上、ないはずだ。彼も、苦しんでいるのかも、しれない……。


 藤崎は、璃帆の目を見ずに、話し出した。

「中学2年の時、親友だった森川のお父さんが死んだ。すい臓がんだった。その治療と称して、お袋のヒーリングを受けていた。森川のお父さんは、病院での治療を末期まで受けずに、ヒーリングだけで、あっと言う間に亡くなった。」

 藤崎は、淡々と続ける。璃帆は、必死に気持ちを重ねていく。

 

「森川のお母さんが、怒鳴り込んできてね、お袋にヒドイ言葉を投げつけたんだ。でも、お袋はひと言も言い訳しないで、謝るばっかりで……。当然、森川とは疎遠になったし、町中でヒドイ噂も立った。それからお袋と俺は、森川のお父さんの死の責任を、残りの人生をもって償うことになったんだ。この間会ったのは、その森川の、お母さんだよ」

 時間が止まる。璃帆は、息をするのも苦しい。


「だから、俺は、幸せになっちゃいけない……」


 藤崎の苦しみが、自分の体に生き写しになったかのように、押し寄せる。

「あの人を返して……。人……殺し……」

 藤崎がはじかれたように顔を上げる。

「ひどい、言葉ね……」

「……なぜ、分かった」

「最近、藤崎君の近くにいると、分かる時があるの。森川さんに会った時も、そうだった。この間のLINEも、さっきも、ずっとあなたが酷い言葉を私に投げつけるたびに、あなたの方が傷ついてるって、分かるの……。どうして、なんだろう……」

 それを聞いて、藤崎は顔を背ける。

 

「君に会うまで、ずっと気持ちを抑えて生きてきたのに……、どうしても、君だけは手放したくなかったんだ。いつかは、こうなるかもしれないと、ちゃんと予期して、踏み込み過ぎちゃ、いけなかったのに……、好きになることを、止められなかった。ずっと一緒にいたかったんだ。もう、離したくなかった」

 藤崎は、璃帆の顔を見ない。片手で、目を覆って俯いたまま、言葉だけを吐き出す。

「笑ってる君が好きだった。その笑顔を守りたかったのに……。すまない」


 最後の言葉を吐き出したとき、璃帆の心臓は、痛みで引き裂かれる思いがした。これは、藤崎の痛みなのか、自分自身の痛みなのか……。同じなのだと、心が叫ぶ。

「今のは、本当の気持ちだって分かる。だから、もう……、もう、会わない。あなたの苦しみを、私は大きくするばっかり……。ごめんね……。話したくなかったことまで、無理やり聞いた。本当に、ごめんね……」

「璃帆。頼むから、謝らないでくれ……」

「……そうやって、名前を呼ばれるのが、本当に好きだった……」

「璃帆……」

 藤崎は、やっと顔を上げて璃帆を見た。

「今まで、ありがとう……。本当に……」


 最後は、やはり嗚咽に包まれてしまったが、そのまま藤崎の部屋を出ていくことができた。藤崎も見送ることはしなかった。

 そうやって、私たちは、別れた。


 藤崎は、1度だけ、あのベンチに座る璃帆を見た。

 彼女は、ただ、ぼぉっと座っていた。目の前を行く人の姿も、ホームに入る電車も、彼女の眼には映っていない。もう、最終電車の時間だ。何時間、そうしていたのか。藤崎の電車が入ってすぐに、彼女は席を立った。ふらついて、隣の男性に助けられる。彼女は、丁寧に何度も頭を下げ、改札に向かっていった。

「璃帆……!」

この場で、泣けるなら、どんなに楽か。顔を背け、歯を食いしばる。どうして、こうなったんだ! 慟哭と、怒りと、絶望が、体に充満していく。

「璃帆……」


「お母さん、中学の時のお話を、龍一さんから直接、聞きました。街で2人で歩いていた時、森川さんと偶然お会いしました。

 それで、もう、龍一さんとは、会わないことにしました。ちゃんと、話し合って決めたことです。ですから、龍一さんを責めないでください。お約束していたので、連絡いたしました。色々お世話になり、ありがとうございました。お元気で」


 璃帆からのLINEを見て、鎌倉から母、美千代が駆け付けた。

「龍一、どういうこと!」

「なんでもないよ。別れただけだ」

「どうして! 2人は離れちゃいけないのよ」

「このままだと、同じ苦しみを味合わせるだけだ。それが分かってて、耐えられると思うのか!? 今なら、まだ間に合う。このまま忘れてしまえば、彼女は別の幸せを、手に入れられる」

「なんてこと……。あなた、本当にそう思ってるの? 忘れられる、はずがない……。あなた、それだけ力が戻ってるのに、まだ分からないの?」

「やめてくれ! そんなこと、もうどうだっていい! もう、ほっといてくれ!」


「あなた達は、ソウルメイトなのよ」


「ソウルメイト……、魂の伴侶……」

「ソウルメイトの手を離したら、もう、その先に幸せなんて、ないの……」

 藤崎は、ベンチにいつまでも座っていた璃帆の姿を思い出し、息が止まる。

「それは、あなたも同じ」

「……帰ってくれないか」

 黙って、母は部屋を出て行った。そのまま、藤崎はその場に、ぼう然と立ち尽くした。


 美千代は、璃帆にも連絡を入れた。できれば、会いたいと申し入れる。

 璃帆は、最初渋っていたが、龍一のためと説き伏せた。

「龍一さんは、私を巻き込まないために、離れてくれたんです。私は、それを受け入れました」

「……。それは、2人で決めたことだから、私は何も言わないわ……。今日は、私の話を聞いてもらおうと思って、来てもらったの。いいかしら?」


 璃帆は、明らかに疲れていた。オーラも濁っているし、指先などは2重にブレて見えるほどだ。龍一も、負けず劣らずだったが。


「森川さんのことは、言い訳はしない。ただ、本人の希望に沿っただけと言っておくわ。だから、やましいこともないし、責任を取るようなことでもないわね。でもね……」

 ここで美千代は、意外なことを言う。

「森川さんの奥さん、葉子さんと言うのだけれど、あの人のために、私は全てを受け入れたのよ」

「どういう、ことですか?」

「怒りは、生きていく糧になるの」

 璃帆は、驚く。葉子さんが生き続けるために、全ての怒りを一身に引き受けたというのか……。

「龍一さんも、そうなんですか!?」

「あの子の場合は、私が守りきれなかった結果ね。怒りの矛先が、あの子にまでいくとは、思わなかった。甘かったわ……」

「龍一さんが、幸せになるのを諦めたことは、分かったつもりです」

 しばしの沈黙が落ちる。

「でも、それで、葉子さんは幸せなんでしょうか……」


 美千代は、目を見開いた。ゆっくり、視線を璃帆に戻す。

 この子は、愛した人間が幸せになるのを拒んだことは受け入れられるのに、関係もない1人の女性の幸せに、言及するのか……。

「たとえ生きていたとしても、人を恨み続けることが、幸せなのでしょうか」

「それは……」

「私たちは、覚悟の上の人生かもしれませんが、葉子さんは、そうではない。助けが必要なのではないのでしょうか?」

 といって、美千代の目を、じっと見つめた。

「お母さんは、ヒーラーで、龍一さんも同じくらいの力を持っているんですよね……」

「私の言葉は、もう、葉子さんには届かないの」


「ずっと、考えていたんです。」

 璃帆は、考えをまとめる様に、慎重に話す。

「この間、葉子さんに会ったとき、葉子さんの方から言葉を掛けられたんです。人は、本当に拒絶し、恨んでいるのなら、わざわざ声は掛けません。あれは、言い換えれば、龍一さんになら、言ってもいいと、許されると思っての行動だと思うんです。憂さ晴らしだったかも、しれない。でも、それでも、相手にしてくれると知っているから、その人を選ぶんです」


 もう、人生の一部になっている、「葉子からの恨み」に慣れてしまっていた美千代は、指摘されたことに、驚く。

「こんなひどい事をしている自分を、本当は龍一さんに拒絶されて、やめて欲しいって、言ってもらいたいのではないかと、ふと思いました。悪戯をした子供が、叱られるのを待っているのと、同じです。それで、愛情を試すように。それでも、愛し続けてもらえると知っているから……。もう一歩踏み込んで、止めて欲しい……」


 美千代は、唖然と璃帆を見つめていた。この子は、どんな苦しみを体験して、こんな考え方をするような人生になったのだろう。

「止めてもらえなければ、いつまでも恨み続けるほかはない。葉子さんの魂は、助けて欲しいと叫んでいる……。そしてそれができるのは、龍一さんしかいない」

 璃帆は、決然と言い終えた。

 美千代は、璃帆の目をいつまでも見つめていた。


 母から、璃帆の話を聞いたとき、藤崎は動きが止まった。

「何を、言ってるんだ……。俺が、葉子さんを、助ける……?」

 体に、衝撃が走る。あの声が木霊(こだま)し、あの光が藤崎を包み込む。


 ――恐れずに、その手を、取りなさい。

 ――許しなさい。そして、手放しなさい。


 全てが、繋がっていく……。

 良太も、スペインの若者も、大陸鉄道の彼も、キャラバンの少年も、そして、直垂(ひたたれ)の青年も、すべて、俺の「前世」だ。おれは、良太として生き、母を残して死んだ。旅人として、出会った人を残して、死ぬまで旅をした。愛する人との暮らしを守ろうとして離れ、そして、死んだ。


 許すのは、「俺」だ。もう、彼らと同じ人生を繰り返す必要はない。手放して、いいのだ。

 璃帆を手放した前世の過ちは、もう、手放していい。俺の魂は、もう、分かっている。それは、間違っていた。愛する人の手は、何をしても離しては、いけない。


「璃帆!」

 藤崎は、魂の限り叫ぶ。俺のことなら、分かると言った。答えてくれ! 璃帆……! 今から、会いに行く!


 璃帆は、空港にいた。いつまでも、飛び立つ飛行機を見ていた。

 ここのところずっと、休みのたびに来ていた。

 飛行機を見るのが、昔から大好きだった。どこに向かう飛行機でも、飛び立つたびに、ワクワクした気持ちが湧き上がってくる。「ここじゃないところに行く」という想像が、大好きだった。新しいターミナルビルは、いつ来ても混雑していて、寂しさを感じずにすんでいた。


 小さい男の子が、泣きじゃくりながら、1人で駆けている。小学校2〜3年だろう。

「おじいちゃーん」

 時々止まっては、繰り返していた。あれは、迷子だ。可哀想に……。

 ガードマンが立っている前に来た子供が、一瞬(ひる)む。そのまま、通過して走り去ってしまう。

「ガードマン、何のためにそこに居るの!?」

 毒づきつつ、子供の前まで言って、しゃがんだ。

「おじいちゃん、いないの? 一緒に、探そうか」

 ビックリするくらい、素直に子供が手を繋いだ。ホッとしている様子が、手に取るように分かる。一緒に探そうね……。小さいけれど、あったかい手に、こちらの気持ちが救われる。

 展望デッキを一周し、やはり見つからないと諦め、そのまま案内センターに向かう。

「大丈夫。おじいちゃん、怒らないから。心配しないでね」

 そういって、空港内のスタッフに預けた。一緒に、いてあげればよかったかな……。


 璃帆……!


 突然、藤崎に呼ばれた気がした。心臓から、つぅっと引き()れた様な痛みが、走る。

 恐る恐る周りを確かめるが、いるわけはない……。

「ダメだな。私の方が、迷子だ……」

 考えないように、心を落ち着かせる。ゆっくりした呼吸を、繰り返す。

 いっそ、このまま心臓が止まってしまえば、楽になるのに……、という思いを、断ち切る。

 展望台デッキに戻った。そして、ただ、風の音と飛行機のエンジン音に心を添わせた。

 

「瞑想」をする。どんな場所でも、それはできる。これ以上は、耐えられないと心が叫んだ時、そのことから一旦目を逸らし、心を空っぽにする。璃帆が生きてきた中で、身に着けた防衛方法……。逃げればいいのだ。


 具体的に何をすればいいのか。とても、簡単なことだ。自分の頭に、勝手に浮かんでくる言葉「自我の声」を、一切聞かないことだ。

 簡単といったが、実はこれは、ほとんどの人ができない。初めてだと、3秒くらい。すぐに、「考えちゃ、だめなんだな」「って、もう考えてるし」「やり直し」「今度はちゃんとできてるな」「って、できてないし」「あれ、これ何の音」「よーし、呼吸が整ってきた」とか、もう、すぐ色んな「考え」が動き出す。

 これこそが、「自我」なのである。「自我」は、実におしゃべりなのだ。この声を聞かず、考えず、周りの音だけを聞くこと、それが「無我」。修行の末、到達すべき地点である。よって、煩悩だらけの私には、難しい。やっと、私も30秒できるか、できないかになったところだ。だが、これをすると一瞬でも頭を空にできる。はずが、


 璃帆……!


 さっきより、はっきりと、もう一度聞こえた。そんなはずはないと、心に鍵を掛ける。ちょっと、今日は失敗続きだ。もう、帰ろうと、電車口に向かった。

「あら、こちらもダメみたいね……」

 電車が途中の駅での人身事故により、一時止まっていた。駅員に確認すると、車が絡んだ事故とのことで、これは、1〜2時間は掛かる。どうしようか……。

「バスか……」

 1時間弱だし、とバスを選ぶ。急ぐ帰路でもない。家に戻っても、どうせ1人だ。

 ただバスは、本を読んでも、スマホを見ても、酔ってしまう。ちょっと、苦手だった。

 しょうがなく、車窓の景色に目を移す。知らない間に、雨が降り始めていた。

「まいったなぁ。傘、持ってこなかった……」

 踏んだり蹴ったりという日は、誰にでもある。


 今日は土曜日だから、街には2人連れが多い。見るともなしに、目が追いかける。

 あぁ、あの2人は本当に仲がいいな、とか、あれはどっちもダメだとか、意外と分かるから面白い。私たちは、どんな風に見られていたんだろう……。


 ほんとに今日は、失敗続き……。また、藤崎のことを思い出してしまった。いい加減、自分の未練がましい性格に、泣きたい想いだ。

 思い出すたびに、痛みが走り、せっかく回復した分、また元の深い傷に戻ってしまう。

 ため息と共に吐き出した。

「我ながら、しつこい……!」


 バスが、信号で止まる。あと、少しで降りる駅だ。身の回りの確認をする。


 璃帆……!


 今度は、鮮明に聞こえた。曇った車窓の端に、藤崎がいた。

「藤崎君……」


 前を向いて、足早に歩いていた藤崎が、ハッと止まる。差していた傘を外し、周りを探している。呼んでもいいのだろうか。会わない約束なのに……。

「藤崎君」

 そっと、心で、思う。なんて心地よい感覚だろう……。だけど、もう戻ってはいけない!


「璃帆、どこだ」

 近くにいる。ここまでしか、分からないのか! 中途半端な力だな……。

「どこだ、もう1度答えてくれ……!」

 いた! バスか。あちこち探したんだぞ。どこに行ってたんだ。空港……。


 先に、藤崎がバス停に着く。璃帆が、慌てて降りてきた。緊張しているのが分かる。

 藤崎は璃帆の手首を握ると、人通りの邪魔にならない場所まで移動する。

「あの……、どうしてここに、いるんですか?」

「探してた……」

「……」

 璃帆は、眉をひそめる。あまりにも、分からないことが、多すぎる。

 藤崎は、そんな璃帆を、じっと眺めていたが、そっと璃帆の頭を引き寄せ、そのまま片腕で抱きしめた。璃帆は、更に緊張した。体に力が入る。この人は、何をしようとしているのか?

「迎えに、来た」

 その言葉に、璃帆の心にあった(たが)が外れる。強張(こわば)っていた体の緊張が解かれる。胸の奥から一度に何かがあふれ出し、あっという間に、全身に駆け巡ったそれを、何と呼べばいいのだろう。藤崎の、夢にまで見たその胸に、そっと体を預けた。

「会いたかった……」

 藤崎は、璃帆の重みを心地よく受け止める。

「待たせたね……」

 もう、離さなくていいんだという安堵感と、璃帆の柔らかい体の重みが、幸福感と共に全身を包んだ。今迄、どうやって離れていられたんだろうと、もう分からなくなるくらいに……。


 と、その瞬間、不思議な映像が、璃帆の意識に雪崩れ込んできた。


 大きな船に乗って旅立つ人を、見送る、外国の、港町。きっともう、彼は私のことも忘れてしまう……。

 打ちひしがれ、荒野に立ち、行く汽車を眺めている。夕陽が、まもなく落ちる。どうして、行ってしまうのか。

 私の住む町に、商隊として年に何度かやって来ていたのに、ある時から来なくなってしまった青年の顔。小さい時から、ずっと好きだったのに……。

 麻か木綿の着物を着て、ずっと待っていた私。光が隙間からこぼれ落ちる、美しい竹林の中、飛んできた鷹を見て、最愛の人が亡くなったと泣き崩れる。

 全てに共通するのは、「あの人は、いなくなってしまった」という、深い悲しみ。

 

 気が付くと、2人の周りから、金の粒子のようなものが、ゆらゆらと立ち上っていた。

 藤崎も、璃帆も、自分たちがその粒子に取り囲まれていることに気づく。

「綺麗……」

「……」

 立ち上がった光は、緩やかな渦となって、空に吸い込まれていく。その行方を見上げながら、璃帆は小さくつぶやいた。

「今見たのは、全て、あなたなの……?」

 藤崎は驚く。璃帆から、体を離して、あらためて顔を覗き込んだ。

「俺には、何も見えなかったけど……。教えてくれる?」

「あっ、でも最後のは、鷹が見えただけだから、それは違うかも……」

「璃帆! それも俺……」

 

 2人は、すぐ近くのカフェに入り、それぞれの見た夢と映像について、お互いに教えあう。

 その間、テーブルの上には、今迄の時間を取り戻すかのように繋いだ2人の手が、ずっと乗せられたままだった。

 

 最後まで藤崎が分からなかった「鷹」については、璃帆が解決してくれた。

「あの時、私達は結婚しようとしていたの。あなたは、次の私たちの住処を探すために、旅に出て……。でも、戦があった時期なのか……、どの土地も、とても混沌としていて……」

 璃帆は思い出すように、少し首を傾ける。

「そう、戦で住んでた町を追われたんだ」

「あぁ、そう。町ごと焼かれたのね……」

 納得したように、1つ頷く。

「あなたは、小さいときから鷹を飼ってたの。凄くなついてて、旅にももちろん連れて行ったわ」

「あぁ、そうだった……。名前は、周防(すおう)……」

 藤崎が、思い出す。

「旅立つときに、『もし旅の途中、自分に何かあったら、こいつを放すよ。それに魂をのせて戻ってくるよ』って……」

 どんどん、璃帆の顔が悲しみに満たされていく。

「あなたは、何日待っても帰ってこなかったの。それでも、ずっと待っていた……。あの日、あの竹林の中で、私に向かって1頭の鷹が飛んできたの。周防だって、すぐに分かった。あなたが、もう死んでしまったんだって……」

 といいながら、涙を流す。

「なんだろう。涙が止まらない」

「もう、いいよ。悲しまないで。もう、離れないから」

「藤崎君……」

「俺達は……、俺達の魂は、何度も会ってるんだよ。ただ、いつも、最後まで一緒にいられなかったんだ」

「じゃ、良太も?」

「そう」

「それを、もう繰り返さないために、また会えたんだ。今度は、失敗しなくていいように……。信じる?」

 璃帆は、黙って頷いた。

「だから、これから俺達は、ずっと一緒にいなくちゃいけない。いい?」

 璃帆は、溢れる涙と共に、何度も何度も頷いた。


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